嵐に舞う (4)
風と同化し、意識さえも置き去りにしていた小太郎は不意に、ひんやりとした水に体の半ばを浸かっている自分に気づいた。
なぜこの状態になっているかの記憶はなく、自分がすでにあの世にいるのではないかとさえ思った。
それくらい、傷ついた背中に触れる冷たい水は心地よかった。
「……気づいたかにゃ?」
シロの声で自分がまだこの世にいるのだと理解する。
「少年は途中でぶっ倒れていたんだにゃ。こんにゃに深い傷で走り続けようにゃんて、無茶にもほどがある」
胡坐をかいた体勢の小太郎の横に膝立ちになり、シロはその背中に優しく水をかける。その手つきに小太郎は、知識でしか知らない母の姿をそこに重ねていた。
「倒れていた?」
「そうだにゃ、突然ばったりと倒れたんだにゃ。だから、あたしに傷を見せてみろって言ったのに」
「俺はどれくらい気を……」
空を見上げると、日はすでに高くなっている。明け方に出発したことを考えると、かなりの時間、気を失っていたようだ。
「しまった!」
「駄目だにゃ」
慌てて立ち上がろうとする小太郎を強く抑えつけて、シロは耳元にささやきかける。さほど力が入っているようにも見えないが、小太郎は身動きが取れなくなる。
「少年、君はわかっているようで何も分かっていにゃい。戻った先にあるのは、生か死かを選択せざるを得にゃい戦いだ。万全にゃ状態でいっても死のほうが確率が高いんだ。せめて、憂いだけでもにゃくしていたほうがいいんじゃにゃいか?」
首だけをどうにか捻じ曲げた小太郎は、シロが薄絹のみを身に着けていることを知った。
空も飛べそうなほどに薄い襦袢は、水にしっとりと濡れてシロの体に張り付いている。細身のくせに、これでもかと盛り上がった胸元と、くびれた腰の下に続く、存外存在感のある輪郭が、小太郎の本能の奥底をくすぐる。
だが、見まい見まいと目をそらしがちだった小太郎の視線は、シロの体のある一点で固定された。
臀部から伸びる二本の尻尾――そうとしか言いようがなかった。
男であれば誰でも心をとろかせるであろうシロの完璧なまでの肢体。
だが、その尻からは二本、奇妙な尻尾が生えていたのだ。
純白に輝く美しい尻尾と、薄汚れたみすぼらしい尻尾。
「うにゃ? 教えていにゃかったかにゃ?」
小太郎の視線に気づき、シロが己の尻尾を何でもないことのように覗き見た。
「あたしは猫又。あんたたちの言うところの化け物ってやつだにゃ。お見知りおきのほどよろしくだにゃ」
二本の尻尾も、礼をするように二、三度揺れた。
「ねこ……また?」
「あーもう説明するのが面倒くさいにゃ。とりあえず、少年の傷を治すのが先決だから、治しにゃがら話すにゃ」
言うなりシロは小太郎の背中に顔を近づけて、傷ついた小太郎の背中を舐め始めた。ざらついた舌の刺激に飛び上がりそうになるが、それも次第に弱まってくる。
鈍い、しびれたような感覚が小太郎の体を支配し、心地よいまどろみに似た気分にさせる。
「あたしはにゃ、猫の化け物にゃんだ」
ぴちゃぴちゃと舌を響かせながら、シロは言葉を紡ぐ。
「長いこと生きた猫は、二つ目の尻尾を手に入れて、不可思議にゃ力を得るんだにゃ。あたしの場合は、命の流れを操ることができる能力だにゃ」
「…………」
シロの言葉も小太郎はうわの空で聞いていた。シロの舌先からまるで、まどろみを送り込まれているような心地よさだった。小太郎は戸惑いながらも、このまま身を任せてしまってもいいのではないかと、誘惑に心を惹かれていた。
「こっちのきれいなほうが、猫又のものだにゃ」
シロは純白の尻尾で水面をぱしゃん、と叩いた。
純白できめ細やかな毛で覆われた尻尾は、あだっぽくありながら、透明感のあるシロの印象そのものだった。
「こっちはあたしの本来の尻尾だにゃ。あたしが子猫として生まれた時から生えていて、あたしの成長とともに育っていったものだ。さすがにがたが来ているようだにゃ」
続いてシロはもう一本のほうの尻尾で水面をたたく。先ほどと比べて勢いはない。年老いて死を眼前にした猫を思わせるみすぼらしさで、シロの強さのある笑顔にはまったくそぐわない。
輝くばかりの純白の尻尾との対照が著しかった。
「本当にゃらば、あたしはとっくに寿命が尽きて、死んでいるはずにゃんだけど、あたしは神様か仏さまか、あるいは地獄の鬼かは知らにゃいけど、二本目の尻尾をもらって未練がましく生きている。この二本目の尻尾があたしの不思議にゃ力の源であり、命そのものでもあるんだ」
話しながらもシロはぺろぺろと小太郎の背中を舐め続けている。
体温よりもわずかに高い温度が背中に広がり、小太郎の全身に流れていく。
「あたしは周囲に満ちている命の流れを、二本目の尻尾から取り込んでいる。あたしの中に取り込まれた命は、昇華され、他者にも分け与えられる。そういうものみたいだにゃ。今のあたしは尻尾にゃしでは生きてはいけにゃい。どっちが本体にゃのか自分でも、時々分からにゃくにゃる」
シロの話していることのほとんどは理解できなかったが、尽きかけていた小太郎の体力がどこからともなく蘇ってくることだけは確かだった。
「……俺の血を舐めるんじゃなかったのか? 俺を助けて何になる?」
「はじめはあんたたち四人の血が欲しいと思っていたけどにゃ」
ぴちゃぴちゃと舌を鳴らして、シロは静かに小太郎の問いに答える。
「あんたたちがかわいそうににゃったんだ」
「かわいそう?」
「何も知らされずに、使い捨てられるために任務を果たすにゃんて、残酷だにゃ。それと同時に、それを強いた相手に少し憤ってにゃ。まあ、あたしごときじゃどうにもにゃらんことは承知しているけれど」
さて終わりだ、とシロは小太郎の首筋を最後にぺろりとなめた。
小太郎は跳びあがり、前のめりに倒れそうになったところをシロに抱えられた。
「少年」
小太郎を自分のほうに向かせて、シロはいつになく真剣な声をだした。瞳孔が細長く伸びたシロの目は、なるほど、猫のそれを思わせた。
金色に光る瞳の奥には、激しい怒りの色が浮かんでいる。
濡れて乱れた着衣は、申し訳程度に体を隠しているだけで、小太郎は目のやり場に困る。
これほどに美しい女を、小太郎は牡丹以外には見たことがなかった。
「これはあたしからのお願いだにゃ。命令することはできにゃい。だけど……このままどこかへ逐電してくれにゃいか? あたしにできることにゃら、何でもする。わざわざ死にに行く必要はにゃい」
「死ぬつもりはねえよ」
豊満な胸元から視線をそらし、そらした先にくびれた腰とその先の肉付きの良い足があるのに気づき、小太郎は慌ててシロの目に焦点を合わせた。
「逃げるつもりも、死ぬつもりもねえ」
まっすぐに自分を見返してくる小太郎の強い視線に、シロはかすかに目元を細めた。
「俺は、戦いに行くんだ」
「たった一人でかにゃ?」
「違う、四人だ」
助かった、と小太郎が返すとシロはにっこりと笑ってみせた。
痛みはすでに消えていた。




