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千々に炎は (18)

 夜が白々と明けはじめた。

 遠くで朝の早い鳥の声が聞こえてくる。


 まだひんやりとした空気の中、小太郎はようやく足を止め、荒い息をしずめる。


 自分がどこをどう走ってきたのかははっきりとしない。

 ただただ、あの場所から遠くへ行かなければという思いから、必死に駆けつづけてきただけだ。まばらに木々の生える森の中には、薄い霧がかかっており、小太郎の感情とは裏腹に、天気の良い一日の始まりを予期させる。


「……水」


 小太郎の視界には、小さなせせらぎがあった。

 自身にはその意識はなかったものの、小太郎はこの音につられてやってきたに違いない。ふらふらと流れの傍らに膝をつくと、両手に抱えたそれに目を落とした。


 牡丹の首だ。


 鬼に殺されかけていた牡丹の首を、小太郎は己の短刀で斬り落として、そのまま【風舞】で逃げ去ってきたのである。少女の首の肉と骨を断ち切った時の感触は、今も両手に生々しく残っていた。


「……ありがとうな」


 口の中で牡丹に謝辞を述べて、小太郎はきつく結ばれた少女の唇を開いた。

 桜のつぼみのようなやわやわとした牡丹の唇は存外抵抗なく開き、小太郎に戦利品を見せつけている。


「柘榴石」


 炎をその中に宿しているかのように真っ赤な珠は美しい一方で、牡丹の流した血を思わせて、小太郎の胸を冷たくさせた。


「最後のひとつかにゃ?」


 ふいに、聞きなれた女の声が聞こえた。

 さすがのシロも能天気な口調と表情を消し、真摯な様子である。


「集めてしまったんだにゃ……(にゃに)も知らにゃいというのは不幸にゃことだ」

「…………もう俺達には構わないでくれないか?」


 もはや生き残っているのは自分ただ一人なのに、小太郎は俺たちという言葉を使った。単に仲間たちが皆死んだことを忘れていたのか、あるいは、懐の二つの宝玉と、抱えた牡丹の首を仲間と見立てていたのかもしれない。

 ぶつける感情すら失った小太郎は、淡白な言葉を返すと再びせせらぎのほとりへ腰を下ろした。


 まずは牡丹を弔ってやらねばならない。


 乱暴に破った着物の袖を静謐な川の流れに浸して、小太郎は牡丹の顔を優しく拭う。煤と血で汚れた肌は、みるみるうちにいつもの白磁のきらめきを取り戻した。

 いや、血が通わなくなった分、牡丹の顔立ちは余計に作り物めいた美しさだ。


 風呂に入れなくて残念だったな。

 これで勘弁してくれ。


 端切れを何度も水ですすいで、小太郎は牡丹の首を隅々まで拭う。何も考えないようにするために。つらいことも悲しいことも全てから目を背けるために。


「あっ――」


 牡丹の首を置いた小太郎の膝の上に、小さな石のようなものが二つ三つ、転がり落ちた。

 乳白色のそれは歯だ。

 形状からすると奥歯だろう。


 死を強いられた苦痛は、奥歯をかみ砕くほどだったのだ。しかし、牡丹は声を上げず、苦しみに耐え珠を口中に含み続けていた。


「恐ろしい覚悟だにゃ」


 シロがぽつんとつぶやいた。


 任務のためなら命を捨てるのが忍者だ。それは分かっていたとしても、文字通り身を千切られる苦痛に耐えられる者など、この少女以外にいるだろうか。

 牡丹の高い矜持だけではない。

 小太郎への信頼もなければ、こんな真似はできなかったはずだ。自分がここで命を捨てても、あとをついで任務を果たす仲間がいる。そう信じてくれていたのだ。


「顔を隠してあげるといいにゃ」

 と、シロは白色の木綿の手ぬぐいを小太郎に渡す。


 新品ではないものの、小太郎の着古した着物よりはよほど清潔だ。

 小太郎は有難く受け取ると、牡丹の首を包みはじめた。


「連れていくのか?」


 シロの問いに、小太郎は緩慢に首を振る。


「連れて行ったとしても、この首はいずれ腐って崩れる。多分、牡丹はそれを好まない」

「埋めるのか」

「ああ」

「手伝おうか?」

「不要だ」


 手ぬぐいの上に牡丹の首を横たえて、小太郎は己の手を使って地面を掘り返す。湿った土の感触が指先を、むっとした土の匂いが鼻孔を刺激する。

 さほど大きな穴にする必要はない。兵介の時とは違い、埋めるべきものは頭部だけなのだから。


 掘り返す手を休めないまま、小太郎は牡丹を振り返った。


「なんで笑ってんだよ」


 虚ろな目で、虚ろな声で小太郎はつぶやいた。

 口元には歪みとも引き攣れとも見える笑みが浮かぶ。


 地面に横たえられた牡丹の首は、その凄絶な死にざまからは想像もつかないほどに穏やかな笑みを刻んでいたのだ。自分のなすべきことは果たした、そう言いたげに。


 もしかすると、牡丹は予期していたのかもしれない、と小太郎は考えた。

 だからこそ、自分に珠をすべて預けたのかもしれない。


 牡丹を捨てていけるように。

 ただ一人、甲賀へと走れるように。


「……つまんねえこと考えやがって」


 ぽたり、と小太郎の手に水がしたたり落ちた。

 ――雨? とあたりを見回して、小太郎はそれが自分の目からこぼれ落ちた涙だということに気づいた。


 枯れ果てたはずの涙なのに。

 自分が泣いている、悲しんでいるのだという事実は小太郎の心に強いさざ波を立てた。


「うぐ……」


 涙を飲み込む自分の声が、激しい感情に拍車をかける。


「あああああああ――」


 背中を丸めて、まるで赤子に戻ったかのように小太郎は声をあげて泣いた。


「……うにゃ」


 木の陰から、ただ一人となった幼い忍者の慟哭を聞くシロは、彼に声をかけることもできずに、うめき声なのか、唸り声なのか、言葉にならない声を上げるだけだった。

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