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千々に炎は (12)

「……いないわ」


 それから数刻は走り続けただろう。

 額の汗をぬぐいながら、牡丹は言った。


 あたりの景色はいつの間にか、森深い山中へと変わっていた。

 鬼を追いかけつづけていた二人は、ここへきてついに姿を見失ってしまったようだ。


「気配もないなんて……あっ!!」


 小太郎は目を見開き、それから傍らの牡丹の肩をつついた。

 なによ、と口を尖らせた牡丹も、小太郎の視線の先に目をやって息をのむ。


 深い森の奥――そこに立っていたのは若い男だった。


 二人との距離は十間あまり。近くもない距離にもかかわらず、夜目にはっきりとその姿が見えるのは二人が忍者であるという理由以上に、彼自身が奇妙な燐光を放っているためでもあるだろう。


 不気味なほどに整った細面の白い顔。

 美青年を取り巻く頽廃的な空気が、遠く離れた場所からでも牡丹と小太郎の肌を粟立たせた。


 この美青年と会うのは、今回が三度目である。

 直接的に忍者たちへ手を出してきたわけではないが、暗示するように、予告するように美青年は悲劇の前に必ず姿を見せていた。


 各々の武器――小太郎は腰の短刀、牡丹は苦無――を反射的に身構えた二人を見て、美青年は口元をゆっくりと吊り上げた。血を塗ったように紅い唇が細く歪む。

 奇妙な静けさの中、美青年は右腕を上げた。


 肩から人差し指の先まで、一直線に伸びた先は――牡丹に向けられていた。


 ひゅっと牡丹が息を吸う。


 腕を上げた時と同様、十分に時間を取って元の通りに腕を下ろすと、美青年はくるりと背を向けた。まるで今にも攻撃してくださいと言わんばかりの無防備な背中。

 だが、彼らが動くこともできなかったのは、単なる距離の問題ではない。そこには忍者だからこそわかる奇妙な威圧感があった。


 攻撃してはいけない、危険な人物であると本能が訴えていた。


 二人の視線の先で、美青年は姿を消した。


 と、同時に二人の耳に人々の笑いさざめく声が聞こえてきた。

 かがり火の匂いと酒の匂いも漂ってくる。


「酒宴? こんな夜中に、こんな山奥で?」


 牡丹が眉をひそめた。

 先ほどの美青年のこともあり、牡丹の声には苛立ちと不安が平等に混ざっている。


「盛り上がっているみたいだな。あいつのこともあるし、慎重に行こうぜ」

「分かっているわよ」


 あえてぼかした小太郎の言葉に気づかないふりをして、牡丹は返す。


「ねえ、小太郎。あたしたち今どこにいるのかわかる?」

「……いや」

「鬼を追いかけているときに、変な感じがしたのよね。なんだか、変なところに入り込んだみたいな。どういえばいいのかしら、方向が分からなくなって、上下さえもよく分からなくなって」

「薄暗くなったときか?」

「うん。小太郎も感じた?」

「…………」


 小太郎は沈黙した。

 牡丹の言うように、自分たちがどこにいるのか判然としない感覚は確かに覚えがあった。追いかけるべき鬼の姿は前に見えているものの、自分の足が本当に地面を蹴っているのか、どこに向かっているのか何もかもがうすぼんやりとあいまいな時が。


 それが何に起因するのかは分からない。


 【風舞】を酷使しすぎた弊害と思ってもいたが、牡丹も同じように感じていたのだとすると、そういうわけでもないようだ。


 場所さえも判然としない山奥で、夜分に何者かが宴を開いている――間違いなく異常なことである。

 だが、鬼の目に埋め込まれた赤い宝玉を求めてここまでやってきた二人にここで引き返すという選択肢はなかった。


「――やあ空を見ろ。妖霊星が輝いておるぞ」


 野太い声が聞こえた。


「美しや、妖しや」

「かくも美しき不吉の星よ」

「天下に呪いを」


 いくつもの声が重なり、ぎゃあぎゃあと笑う。

 羽音も混ざり、騒々しい喧噪が沸き起こった。


『妖霊星って?』

『たしか、天下に異変が起きるときの凶星だったとか……俺もよく知らねえ』


 木々の枝の間に身を隠し、さらに近くへと移動しながら、二人は特殊な波長での会話を交わす。


 不意に空気を切る低く大きな音が聞こえた。


 二人が見上げた先には、長い長い尾を引いて夜空を横切る蒼白の星。

 酒宴の参加者たちからは歓声が上がる。

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