千々に炎は (1)
幽玄の世界。
そこには朝も夜も、時間の概念さえもなかった。
仄暗い光景が一面に広がる世界に彼はひとり、尽きることのない感情に身を焼き焦がしていた。
心を満たすのは激しい憤り。
深い恨み、憎しみ。怨嗟の念が彼の心で渦を巻く。
彼の怒りは全て京へと向けられていた。もっと言うならば京で我が物顔にふるまう朝廷――北朝に。
南北朝時代と呼ばれる混沌の時代のきっかけとなった一連の出来事。
その渦中を彼は体験していた。
世を憂う天皇の志に呼応し、参集したはずの者たちが一人また一人と敵対勢力へと与し、次第次第に勢力の弱体していく様も彼はその目で見、体で感じていた。
恩知らずどもめが、と彼は思う。
大義を受けたことも忘れ、主に矢を向けるなど言語道断にもほどがある。
京より主を追い出した挙句、自分たちの正統性さえも主張しているのだ。
もちろんそんな主張、到底認められるはずもなく、北と南に分断された朝廷は相互いにいがみ合い、幾度となく刃を交えた。
彼も、彼と志を同じくする者も、主を支え、助けるために戦い、そして敗北した。
死力を尽くした戦いの果て、命の尽きるその瞬間に、彼の魂は強く深く願い恨みに満ちた。それゆえ彼は、死する者が向かう先へ行かずに今もなお、あてどない恨みをこね回している。
もう一度、と彼は思う。
も一度だけ、現世に戻ることができたら――
次は決して負けない。正真正銘の正統な血を引く方で、分断された南北朝を統一するのだ。
「うん、分かるよ分かる」
ただ一人しか存在しないはずの静寂をふいに破った声に、彼ははっとした。
顔を上げて目を細める。
明るくも暗くもない、彼にとって居心地の良いほのかな世界に、強い光が差し込んでいた。
「……あなた様は?」
差し込む光の神々しいまでの明るさに、彼の言葉は敬いに満ちたものに変わる。
光だけではない、その声色に本能的に彼をしゃちこばせるような響きがあった。
まばゆい光に目が慣れて、その声の主――目をみはるばかりの美青年が彼の瞳に映ったとき、彼は反射的に平伏をしていた。
もっとも、彼のいる幽玄の世界に上も下も右も左もなく、もしかしたら美青年からは、彼がカエルのようにひっくり返ってみえたかもしれない。
「僕が誰かなんて、聞くまでもなく分かっていることだろう?」
満足に声を発することもできない彼を見て、美青年は鷹揚に笑った。
にい、と吊り上げた唇がまるで血を塗り込んだように朱い。
確かに美青年の言うとおりだった。
姿を目にした瞬間、彼はその人物が何者であるかを強く、深く理解していた。
彼が思い焦がれた主と同じ血を引く者。主よりもさらに源流に近い者。
驚くほどに整った美貌の中に頽廃的な色をにじませて、美青年は彼の前に胡坐をかいた。
薄青色の狩衣は、美青年の抜けるような色の白さを引き立てる。美青年の完璧な美貌を照らす光は大きな影を形づくり、幽玄の世界に光と闇を鮮やかに映し出していた。
光はどこまでも明るく周囲を照らし、闇は全てを飲みこまんばかりに深く昏い。
――光があるから闇ができるのか、闇があるから光ができるのか。
彼の前で燦然と輝く美青年の実態はもしかすると、背後に伸びる巨大な影のほうなのではないだろうか。
詮のない考えが彼の頭をよぎる。
「もう一度、肉体を与えてやろう――と僕が言ったら、どうする?」
ひれ伏し、冷や汗をかいている彼の心情など一切気にせずに美青年はわずかに前かがみになって、笑いを含んだ声で尋ねた。
「……えっ!?」
思わず彼は顔を上げて、それから慌てて元の態勢に戻した。
「そうかしこまらなくてもいいさ。顔を上げろよ。お前と僕は目的を同じくする仲間なんだからさ」
「恐れ多いお言葉でございます」
「じゃあ命令だ、顔を上げろ」
短いが、威厳のある声の響きに彼ははじかれたように顔を上げた。
鷹揚な笑みを浮かべた美青年は、満足気に二度うなずいた。
「人間というやつは、いつの時代になっても変わらないな。権力を奪い合い、いがみ合い、殺し合う。それはきっと、人間の魂に刻み込まれた業なんだろう」
「は――」
「権力を取り戻したいか? 奪い返したいか?」
頬がきゅっと上がり、美青年の双眸は弦月の形に歪められる。
闇よりもなお昏い美青年の瞳は、吸い込まれそうなほどに深く、空虚に見えた。
「権威を取り戻すためには、正統性と力だ。それが手に入れば、あんたのところの大将も返り咲ける。北朝のやつらを逆に従えることができる」
美青年は立ち上がり、背後の幽玄の空間を両手でつかんだ。
めりめり、という音が彼の耳に聞こえたような気がした。
「やってみろよ、もう一度」
驚きのあまりひゅっと息を吸ったきり、彼は言葉をなくした。幽玄と同化しかけていた彼の目が大きく見開かれ、激しく瞬きを繰り返す。
美青年が切り裂いた幽玄の空間の向こうに広がるのは、山中の光景だった。




