揺らぐ光輝 (5)
赤松則繁――
この時代に生きる人間で、その名を知らない者はいないだろう。
さかのぼること四年前、一四四一年六月に京を揺るがす大事件が起きた。
第六代将軍足利義教の殺害である。
首謀者は幕府の重鎮であった赤松満祐。
後に嘉吉の乱と呼ばれるこの事件で中心的な役割を担ったのが、弟の赤松則繁なる男なのである。
性質は粗野にして直情的。
その性格ゆえに将軍の怒りを買い、腹を斬るように命じられたことさえある。
兄である赤松満祐のとりなしにより謹慎で免ぜられたとはいえ、本人は謝罪どころか反省の様子さえも見せなかったという。
京を揺るがした血みどろの将軍殺害事件も、突き詰めれば則繁の苛烈な性格に端を発しているのかもしれない。
鴨の子の鑑賞会という名目で呼び出された第六代将軍は、宴の最中に、突如乱入してきた赤松満祐の部下に首を落とされた。
逃げ惑う貴族、武士たちと、勇敢にも相対する者たちとで、京の二条にある赤松氏の屋敷は阿鼻叫喚の血まみれの宴へと変わったという。独裁的で冷徹な将軍だったため、事件そのものの発生は当然と見る向きもある。
特に、赤松満祐に対する当たり激しかったというから、同情的な声も少なくない。
だが事後、槍の先に将軍の首を刺し掲げたまま、播磨の屋敷まで一族で引き上げていった残虐さは、京の人々の心中を寒からしめた。
前代未聞の事件に対する混乱は発生後、二週間ほども経ってようやく、赤松満祐をはじめとする関係者たちへの討伐命令が下ったことからも見て取れる。
京の重鎮たちが善後策を話し合っている中、赤松兄弟は討伐隊を迎え撃つための準備を着々と進め、徹底抗戦の構えを取っていた。
だが、しょせんは反逆者と天皇のお墨付きを手にした討伐隊とでは話にならない。
少なくはない犠牲を払いながらも、討伐隊は赤松満祐を京の北東にある城山城にまで追い詰めた。
六月から三か月余り。
退却敗走をつづけた赤松満祐の切腹で事件は幕を下ろしたのである。
だが事件後、中心人物の一人である赤松則繁の行方は杳として知れず、今なお幕府側は血眼で探しているという話だ。
その首には褒賞がかけられ、見つかれば捕縛、処刑は免れないだろう。
――豪胆というか何というか。
兵介はいささかも気を緩めずに、野生の気を放つ目の前の男を眺める。
播磨は元々、赤松満祐の治めていた土地だ。その意味では土地勘があり、心やすいのかもしれない。それにしても、今や領土は取り上げられ、山名持豊――赤入道ともあだ名される者の治める地へと変わっている。
それを知らぬ赤松則繁でもないだろう。
山名持豊は、赤松兄弟の討伐体の主力であり、万が一にも姿を見られでもしたら命の保証はない。
にも関わらず、飄々とその場に現れるというこの赤松則繁という男の精神はいったいどう見るべきなのか。




