闇を乞う水 (18)
「――!?」
驚愕に左目を見開き、反射的に周囲を見回しかけた紅は迫りくる殺気にひゅっと息を吸った。
盲点だった、と紅は自分の首が胴体と離れる瞬間に思っただろうか。
喜平は片手片足で、紅の斧から逃げ去ったわけではなかった。
ただ、その場に身を沈めたのだ。
水に濡れ光る場所であればどこでも身を沈めることのできる喜平の忍術【水鏡】、それは血であっても例外ではない。喜平は自身の血の海に沈み、紅の凶刃を避けるとともに一か八かの逆転に成功したのだった。
紅の首の切断面から真っ赤な血が噴き出した。
その勢いで、紅の体は踊っているかのようにわずかに揺れて、ゆっくりと後ろに倒れた。
紅の首は血の尾を引きながら宙を舞い、切断面を下に落下した。その顔はちょうど、最後の力を振り絞った捨て身の攻撃を終えて、床に伏した喜平と向き合う形になる。
憎しみにゆがんだ紅の死顔は、呪詛をかけているようにも見えた。
「ざまあ……みろだ」
残った右腕を床にこすりつけて、喜平は紅の屍へと這いよる。
普段の喜平らしからぬ乱暴な言葉遣いは、とっさの状況で本来の性質が出たためか、あるいは紅に感化されたためか。頭から紅の血を浴びて、喜平の髪はぐっしょりと濡れている。
たれ目が穏やかな印象を与える喜平の白い顔は、血で赤く網掛けされて凄絶なものに変わっていた。
まだ生暖かい紅の懐から、喜平は切断された左腕を抜き取った。
ついさっきまで自分の一部で、頼もしい役割を果たしてくれたそれは、すでに血の色を失い冷たくなりつつあった。
「黒曜石の、宝玉。取ったぞ」
喜平の華奢な指先は、漆黒の珠をきつく握って離さない。
切り離されてもなお、持ち主の意志が左腕に宿っているかのように。
左腕を手にして、喜平は再び這い始めた。
砂漠で渇きに苦しんでいる人間のように、雨の音に誘われて喜平は元入ってきた場所ではなく、部屋の突き当りの板張りの壁に向かってじりじりと這い進めていく。
いつもの喜平であればひと飛びの距離であるが、満身創痍の状態では無限にも及ぶ距離のように感じられた。
雨が、水が、すぐそこにあるのに。
一枚の板を挟んだその先にあるのに。
喜平がぎりっと奥歯をかみしめたその時、軽薄な音とともに壁が破れた。松明で熱せられた室内に涼しい風が吹き込み、強い雨音とともに大粒の水滴が室内に流れ込む。
「うにゃあ、にゃんて暑い部屋だ」
これまた軽薄な声で飛び込んできた影を見て、喜平は目を丸くした。
「貴様……」
「あらまあ、ずいぶんといい男ににゃったもんだ。優男さん」
刺すような喜平の視線など一切気にしていない様子でシロは片目をつぶって見せた。この場でなければ、また、相手が喜平のような訓練を重ねた忍者でなければ一瞬にして心を奪われてしまうような魅力的なしぐさである。
しかし、それにしてもこの惨状を目にしても表情ひとつ変えないとは。
「倒せるもんだとは、あたしも想像できにゃかった。見くびっていたようですまんにゃ」
さほど興味なさげにシロは紅の屍を一瞥し、それから喜平に視線を戻した。吊り上がった瞳が金色に光り始める。
「管!」
いつの間にか両手の指の間に一本ずつ挟んだ竹筒をシロが振ると、中から白い細長い生き物がぬるりとはい出てきた。
「久しぶりのごちそうだにゃ。心して味わうにゃ」
とがった犬歯を見せびらかすように、シロは軽く口を開けて舌なめずりをした。
きゅうきゅうと小さく鳴きながら、喜平の作った血だまりに管狐がたかりはじめる。
「管狐の好物は人の血にゃのさ」
シロは言って、喜平の前に膝をついた。そのまま顔を床に近づけて、長い舌で喜平の作った血の海をなめた。
「うまいにゃあ。さすがだにゃ」
にんまりと笑ったシロの顔が、喜平の握りしめているものに向いて止まった。
「それがあんたが命を賭けた理由かにゃ? にゃるほど、大きくて価値がありそうだにゃ。にゃあ、血のお礼にそれを届けてやろうか?」
「……いらん」
「そう遠慮することにゃいさ。それを仲間に渡したいんだろ? 心配するにゃ」
シロが喜平の切り離された左手に手を伸ばすより速く、喜平は体を起こし、手にしたものを力いっぱいに放り投げた。すでに血の乾いたそれはシロの開けた穴から、雨の降りしきる闇の中へと消えていった。
「にゃんということを」
シロは喜平の勢いに押されて、ただ茫然とつぶやいているだけだ。
「あたしに渡すくらいにゃら捨てるのか」
最後の力を振り絞って投げた勢いを止められずに、どしゃりと音を立てて喜平は自分の血に顔から突っ込んだ。肉体からは半ば魂が抜けているだろうに、蓬髪の下から覗く目にはまだ強い光が残っていた。
「水……鏡……」
血の海に沈んだ喜平の口がかすかに動く。
体が、顔が沈んでいく。
その事実に気づいてシロは飛びずさり、「戻れ、管!」と指に挟んだ竹筒を振った。半数以上はシロの声に反応してすぐに住処へと戻るが、数匹は久方ぶりの血の味に酔いしれて、シロの声が聞こえているのかいないのか、ひたすらに血をなめ続けている。
喜平の頭が床に沈み、後を追うように床に広がった血の海が収束していく。
「瓢箪に捕まるにゃ。引っ張り上げるにゃっ!」
ようやく自分の置かれている危険な状態に気づき、きゅうきゅうと鳴きはじめた管狐たちに、シロは声を荒げて、未だ床よりも高い位置にある瓢箪に避難するように指示を出す。管狐たちが必死に群がる瓢箪のくぼみをつかみ、シロは力任せに引っ張った。
腰ひもの切れる音がして、瓢箪はシロの手の中に移った。
「後でお仕置きだにゃ」
手にまとわりついて、安堵の鳴き声を上げる管狐を見ながら、シロもまた、安心したようにつぶやいた。
間一髪だった。
シロが取り残された管狐を瓢箪ごと引っ張り上げたそのすぐ後に、血の海は一点に収束し、消えていったのである。
「死体も残さにゃいとは、優秀にゃ忍者だにゃ」
自分の痕跡を血の一滴さえも残さずに、喜平はこの世界から姿を消した。
【水鏡】の向こうの世界がどこにつながっているのか、シロに知る由もない。喜平自身も知らないのだから、それを知りうる者などいないのかもしれない。
ただ、喜平は――不思議な術を使う、穏やかな笑顔の忍者は永久に姿を消した。
「バカにゃことをと考えるのは、あたしの勝手か」
部屋に残るのは紅と、たくさんの女の屍。
ため息をひとつ残して、シロは再び雨の中へと戻っていった。




