闇を乞う水 (17)
「降ってきたな」
天井と壁を雨粒が叩いている。
ねっとりとまとわりつくような熱気の中で聞くその音は、喜平にとってはるか遠くから聞こえてくるように感じられた。
こんなに近いのに。
乱れる呼吸を沈めながら、喜平は焦り続ける己の気持ちを押さえつける。
水がほしい。
たった壁一枚隔てた先に、喜平の欲している水が、水に濡れた世界がある。
だが、その壁は果てしなく厚く、遠い。
「なあ喜平ちゃん、もうこれで終いか? 俺はもっと期待していたんだけどな。水から上がった殺し屋は手も足も出ねえもんなのか?」
無造作に肩に預けた斧をぽんぽんと軽くたたいて、紅は薄く笑う。嗜虐的な表情がそこにははっきりと浮かんでいた。
「その指、いてえだろ? 取ってやろうか、腕ごとさ」
言って、何がおかしいのか紅はひとしきり笑う。
「腕を取って、足を取って、ゆっくり楽しもうぜ。俺が血を吸っているところを喜平ちゃんに見てもらいたいし、俺に血を吸われている喜平ちゃんの顔を見てみてえ」
「……この化け物が」
「ひでえこというなよ。人間だよ、まだ」
「まだ?」
「ああ、俺な、喜平ちゃんの血を飲んだら化け物になれんだよ。たまんねえよな、そんなにうまそうな血を飲んで、しかも強くなれるんだとよ。悪いことはしておくもんだなあ、悪いお方が力をくれる」
にんまりと紅の目元が三日月形に歪められた。笑顔なのだろうが、喜平には凄みのある美貌の紅の顔が魔界の存在のように感じられた。
「人間でなくなってまで、何を望むんだ」
ふざけたことを、と一蹴しようとして喜平は思い直した。理由がどこにあるにせよ、紅の強さは本物である。甲賀の里で人間の能力を超えるための修行を積み重ねてきた自分でさえも信じられないと思えるほどだ。
「お話するかい? 喜平ちゃんは声もいい。ぞくぞくするぜ」
赤い舌先が紅の唇から覗いている。
「悲鳴はもっといいんだろうなあ」
「下衆が」
吐き捨てた喜平の罵声さえも、紅は心地よさそうに耳を傾けている。“まだ”人間だと紅は言ったが、思考回路はすでに人外のそれに代わっているようだ。
「まあ言葉にすると短いもんだけど、俺は自分の望むことを望むときに望むだけやりたいってことだ」
「……今は、欲望に身を任せられていないっていうことか?」
部屋の端に積み上げられた一糸まとわぬ女の屍に視線を走らせて、喜平は尋ねる。何を思って紅がこのような暴挙に走ったのかは分からないし、分かりたくもなかった。
「この惨状は、お前が望まないことだったのか?」
「ははっ、見た目によらず気が強いな。まあ、普通の人間よりは好き勝手していたと思うぜ? だけどな、それじゃあ足んねえんだ。好きなときに殺して犯して食って――お尋ねもんになっちまうだろ。それじゃあ面白くねえ。何をしても誰にも文句を言わせねえ、そんな力がほしいんだよ」
「貴様の醜い欲望のため、ということか」
「言うねえ」
紅はにんまりと笑って、巨大な斧を両手に持った。
「醜い欲望こそが人間の本質さ、そう思わねえか? 俺は、喜平ちゃんを食って、何にも邪魔されねえ存在になるのさ。喜平ちゃんも思ったよりも手ごたえがなかったな。そうだ、喜平ちゃんを食ったらあの女の子――牡丹っつったけ? あの子も食おう。まずそうだったけど、それでもじっくり殺せばいい声で泣いてくれそうだ」
「……!?」
たくさんの火で熱せられた室内の温度が一気に下がった。
それが喜平の凍り付くような殺気によるものだと、紅はすぐに気づいただろう。身構えるよりも先に、喜平の腕から伸びた何かが紅の斧を奪った。鎖である。分銅を先端に付けた長い鎖が斧の柄に絡みつき、弾き飛ばした。
鎖鎌だ。
隠密行動をとり、暗殺を目的とするには強力すぎる武器を喜平がもっているなど、誰が想像するだろう。喜平の腕が付け焼刃ではなく厳しい鍛錬の積み重ねでできていることは、わずかな指先の動きで生きているかのようにしなり、伸びる鎖が如実に示していた。
兵介との果し合いで勝利を収めたのが、この喜平の腕なのである。
紅の強力な武器である斧を奪い、喜平は一気に間合いを詰めた。
相手の懐に左手を差し入れて、滑らかな感触の珠をつかむ。そのまま、壁を破り喜平の望んでやまない雨の中へ飛び込んで。喜平の脳裏には二手先、三手先の動きもまざまざと浮かんでいた。だが――
「――っ」
喜平は驚愕して紅から飛びのいた。
珠を握った感覚はあった。
高く飛んだ小柄な影から、血がしたたり落ちる。
「……それが、喜平ちゃんの奥の手だったか?」
分銅にかすめられて負った頬の傷はそのままに、紅はうっとりと笑って見せた。あからさまな狂気の色の混ざる笑みに、喜平の背筋が凍る。
「危なかったなあ? 知らなかったら、やられているところだった」
「なぜ」
喜平はかすれた声を出した。
「なぜ知っている?」
「さあなあ」
斧を奪われて手ぶらになった紅の左手は、もうひとつの左手を持っている。
黒曜石の宝玉を握りしめたそれは、喜平の左手だった。奇妙な文様の描かれた手の甲は、ほのかな光を放っていた。
「誰に聞いた!!」
右手に鎌を持ち、肘から先の消えた左手はぶらりと垂らしたまま、喜平は怒鳴る。左腕の先から全身に走るすさまじい痛みも、自分の奥の手を知られていたという衝撃で喜平の脳裏から消え去っていた。
喜平が鎖鎌を使うことは、甲賀の里でも秘されていた。寸鉄を武器に床に壁に天井に潜り込み秘密裏のうちに対象を殺害する、暗殺に特化した忍者――それが甲賀の里での喜平の立ち位置だ。
鎖鎌という攻撃的な武器を使うことは一部の者以外には知られていないはずだった。
頭領に鎖鎌の師匠に――
喜平は頭を振った。普段は冷静に働く頭が今はうまく機能しない。
兵介も自分の武器を知っていた。仲の良かった友達であり好敵手でもある兵介には果し合いの前に、喜平が自ら打ち明けたのだ。
秘密を話されて、兵介は相変わらずの怜悧な表情のまま、なぜ自分に告げたのかと尋ねた。秘したまま戦えば、確実に自分に勝てるだろうに、と。
正々堂々と戦いたかったんだ、と忍者らしからぬ科白をはいて、喜平と兵介は二人で笑った。
喜平が進んで己の武器を打ち明けた相手は、兵介以外にない。牡丹も小太郎も知らない。甲賀の里でも秘して、もちろん、甲賀の里をでてからは使用したこともなく、寸鉄と短刀以外の武器があることなどほのめかしてもいなかった。
どこから情報が漏れたのか、喜平が気になるのも無理もないことだった。
「いいじゃねえか、そんなこと」
言って、紅は手にした喜平の左腕の切断面を犬歯でちぎった。
「ああ、やっぱり喜平ちゃんの血と肉はうめえ。力が湧いてくる」
口の端から血を滴らせる紅の顔は、元の美貌と相まって地獄絵図のようだった。
「次は足か? 指の折れていないほうを斬っちまってすまねえな」
「くそ……」
鎖鎌は、両手にそれぞれ鎌と鎖を持つことで真価を発揮する武器であり、片手に鎌を持っただけではその威力は激減してしまう。
鎖を手繰り寄せようとした喜平は、逆に紅に引っ張られて前のめりに倒れた。
「右か? 左か?」
鎖鎌に絡めとられた斧は部屋の隅まで飛んでいた。
斧の位置を横目で一瞥して、紅は喜平の左腕を切断した刀をすらりと構えた。太刀ではなく短刀というほうが近いほどの刀身だ。この武器で一瞬のうちに、鮮やかに喜平の腕を断ち切るすさまじさは、紅の腕が常人以上であることを示していた。
刀を構えているのは、右手だけで、左手は喜平の腕をつかんでむしゃむしゃと食べ続けている。むさぼるといったほうが正しいかもしれない。喜平を斬るよりも、喜平の腕を味わうことのほうが紅の中で優先度の高いことになっているようにも見えた。
「釣り合いを取るために、右がいいかな?」
「あぐっ……!!」
言葉と同時に紅の斧が喜平の右足を、太ももの半ばほどから断った。
鋭い痛みは感情を表に出さないように叩き込まれたはずの喜平の表情すらも苦痛に歪める。いや、喜平の表情を歪めさせた直接の原因は痛みではない。
痛みがもたらす絶望だ。
全身を貫く痛みが、己の左腕と右足が永久に切り離されたという事実を何よりも如実に語っていた。
「いい声だ、喜平ちゃんもっと鳴いてくれよ。もっともっと――」
蓬髪の下から覗く切れ長のたれ目が、怒りと苦痛でないまぜになる。喜平の前髪は、吹きだした汗で額に貼りつき、胸から下は喜平の流した血でぐっしょりと濡れていた。
四肢の半分を断たれてもなお、光を失わない喜平の目を見て、紅はにっと笑った。
「ああたまんねえな、惚れちまいそうだぜ」
紅は腰をかがめて、顔を近づける。
端から血を滴らせた喜平の唇に舌を伸ばして――
「つっ!」
小さく声を漏らして飛びのいた。
右目を押さえた指の間から、血がしたたり落ちる。
「油断も隙もありゃしねえな」
舌打ちをして手を放した紅の右目には、額から頬骨のあたりまでまっすぐに深い傷が走っていた。喜平の手にした鎌によるものである。
追い詰めたと思っていたばかりの獲物の思いもかけない反撃に、紅は苛立ちをあらわにする。
「もういいや、殺しちまおう。そんで、あの女を殺そう」
紅は悠々とした歩みで遠くに飛んだ自分の斧を拾い、悠然と喜平の元へと戻る。
すでに立つこともかなわず、浅く速い呼吸を繰り返す喜平に嗜虐的な笑みを見せて、紅は斧を大きく振りかぶった。もったいぶるように、あるいは斧を見せびらかすように十分に時間をかけて構えると、「あばよ」という捨て台詞とともに振り下ろした。
血の海に横たわる喜平の脳天を真っ二つにすべく、紅の斧は直線的な軌跡を描く。
だが、それは空を切った。




