闇を乞う水 (16)
月が雲に覆われたかと思ったら、次の瞬間には雨が降り出してきた。
「あーあ、最悪」
ただ一人、木陰に避難をした牡丹が口をとがらせる。
炎を武器とする【赤花】が弱体化するのを防ぐためと牡丹は嘯いていたが、単純に濡れるのが嫌なだけだというのは、小太郎も兵介もわかっていた。
牡丹の火力と雨などは比較にもならないのだから。
それでも兵介が牡丹のわがままを許したのは、今が待っているだけの時間ということもあるだろう。
喜平が忍び込み、好機を作って帰ってくる、あるいは何らかの合図をする――三人はそれを待っているのだ。三人にとっては不本意な待機時間ではあるが、忍び込む能力を持っているのが喜平だけである以上、そうせざるを得なかった。
「牡丹、あまり騒ぐな。いつ何が起きるかわからないということを肝に銘じておけ」
「そんなの知ってるけど」
兵介が諭すが、どこ吹く風で牡丹は忌々し気に雨雲を見上げる。
「雨で喜ぶのなんて喜平くらいじゃない」
水にぬれた場所であればどこでも潜り込むことのできる喜平の能力は、雨と非常に相性が良い。雨で見渡す限りが濡れ光る場所は、喜平にとって最高の状況だ。どこにでも潜り、どこからでも現れることができるのだ。
「そのうちどっかから出てくるかもな」
濡れた前髪を額に張り付けた小太郎が軽口をたたく。
「しっ――」
退屈を隠し切れない年少者二人を、兵介がいさめた。
最年長の兵介の向いた先は屋敷ではなかった。
「誰かいる?」
「声を出すな」
雨にけぶる夜の空気の中、ひとつの影がそこにあった。
距離にしてみれば数間はあるだろう、さほど近くもない距離に立つ人影が、霧のかかった暗闇の中で不思議と鮮明に見えた。もちろん、彼ら忍者は視力を鍛え、ほとんど光の差さない暗闇の中でも人の顔を識別できる程度の力は持っている。だが、今彼らの目に見える影は、それとも違っていた。
その人影は、自らぼんやりと光を放っているように見えた。
燐光といえばよいのだろうか、青白いほのかな光が肌の下から放たれているようなそんな印象である。
遠目なので顔立ちははっきりと識別することはできないが、非常な美貌の持ち主であることは分かった。頽廃的な色のある、どこか怪しい美貌である。小太郎はその人物を見ているだけで、背筋がぞくぞくする思いに駆られた。
彼――古めかしい水干に身を包んだ男が、物陰に身をひそめる三人に気付いていることは確かだった。
きゅっと唇を釣り上げて、彼はこちらをじっと見つめていた。面白がるような楽しげな視線と、凍てつくようなまなざしが混ざり合って三人の体を射抜く。居心地の悪さを感じているのは、小太郎だけではあるまい。
にんまりと笑顔を浮かべて、その人物は右手をまっすぐに上げた。肘をぴんと伸ばしたまま、肩の高さまで腕全体を上げて、ただ一本の人差し指を伸ばした。
指し示す先は武田氏の屋敷――喜平の忍び込んだ先である。
小太郎の背筋に冷たいものが流れ落ちた。
「兵介!?」
「分かっている」
喜平の身を案じ、思わず出した声に兵介も低い、押し殺した声で返す。
青年のあまりの異様な雰囲気に、我慢できずに牡丹が手裏剣を投げた。手裏剣術に長けていない牡丹ではあるものの、人ほどの大きさのある対象であれば難なく命中させることができる。だが、牡丹の手裏剣は空を切った。
青年には命中しているはずである。
それなのに、手裏剣はむなしく地に落ちた。
相変わらずの怪しい微笑のまま青年はくるりと三人に背を向けて緩やかな足取りで遠ざかっていく。燐光が付き従うように青年の周囲を照らしている。
「ねえ、喜平は大丈夫なの? っていうか、あいつは誰?」
「分からない」
牡丹の取り乱した様子にかえって冷静さを取り戻したのか、兵介が静かに答える。
「ただ、喜平の心配をしている場合ではないようだ」
ざわり、と空気が揺れた。
小太郎にとっては見上げるほどに大きな影が三人の眼前にあった。
「誰!? いつの間に」
「退け!」
牡丹の叫びと兵介の指示はほぼ同時だった。
目の前に現れた影は十余り――雰囲気だけで“使える”者たちであることは明らかだ。平地で純粋な殴り合いをするよりも、忍者の得意とする場所に持ち込んだほうが良い、兵介はそう考えたのである。得意とする場所とはすなわち、遮蔽物が多く、気配を察するのが難しい場所のことだ。
森に向かっているのだと小太郎はすぐに察した。小回りの利く小太郎の得意な領域も森の中なのである。
兵介を先頭に、小太郎と牡丹は森へと駆ける。
そのあとを怪しげな影が追う。
「……山伏だ」
駆けながら兵介が小さくつぶやいた。
どこか驚いている色もある。
山伏とは修験道の修行僧を指す言葉だ。
山に生き、山に伏せることから山伏と言われたという。偽死体験をすることで神へ一歩近づくことができるという思想を持ち、死と隣り合わせの危険な修行さえも厭わない人々である。
生活圏を山に持つ彼らがなぜここに、しかも自分たちに明確な敵意を持って追ってきているのか、それは考えたところで分からないことだった。
「ただの修行僧ではなさそうだな」
刀を振り回す空間がぎりぎりで確保できる程度の小さな広場で兵介は立ち止まり、忌々し気につぶやいた。
強くなりつつある雨足も、茂る木に阻まれてさほど降り注いではこない。炎を操る牡丹にとっても、最良の場所である。
「小太郎、上に行け」
「分かった」
うなずいて木を駆け上る小太郎の背に、兵介はさらに言葉をつづける。
「お前への指示は指で出す。指さした先にある敵を斬れ。言葉は牡丹への指示だ、惑わされるなよ」
「分かってるよ」
動作と声を使い分けることで同時に二人に指示を出す――これは、甲賀の里で何度か実践したこともある手法だ。全体の状況を把握し、判断できる冷静な目を持つ兵介だからこそできることである。小太郎と牡丹を動かしつつ、己も【白閃】で敵を斬る――
兵介は年少者二人にとって、何よりも頼もしい司令塔だった。
「来るぞ」
言葉と同時に兵介が鯉口を切った。
暗闇の中、雨に濡れて滑りやすくなった森を駆ける忍者の足とほとんど変わない速度で疾駆する山伏たちは、明らかに常人とは一線を画している。彼らの放つただならぬ敵意から、捲けるとは思わないにしても、ある程度の時間稼ぎができるだろうと兵介は考えていた。だが、予想していたよりもはるかに速い。
「目が……赤い!! 何よあれ!?」
暗闇の中で山伏たちの無数の目が一斉に赤く光っていた。まるで、そこだけ異形の光を放っているかのように。
忍者たちとの距離が数間に迫ったとき、空気を斬る鋭い音が森に響いた。すぐ後には、濡れたものをたたきつけるような、鈍い音――
兵介の【白閃】である。
一撃にして相手を戸惑わせ、同時に味方へは開始の合図を告げる一閃。
兵介は右手の人差し指をぴんと立てて、左側へ倒した。
「右!」
指での指示と同時に、声でも指示を出す。
「おう!」「承知!」
小太郎と牡丹は即応する。




