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闇を乞う水 (15)

 ――どれくらいたっただろうか。


 果てしない消耗戦は今も続いていた。

 夏よりもなお熱せられた室内は、必要以上に喜平の体力を奪っていた。汗が滴り、疲労と暑さで頭がもうろうとなる。だが、それよりも消耗していたのは水だった。


「どうした喜平くん? そろそろかくれんぼうは終いか?」


 紅が相変わらずの妖艶で軽薄な笑顔を浮かべて、喜平に野次を飛ばす。動きを察知してよけるだけとはいえ、遅くもない喜平の攻撃を対処しながら、それでもさほど疲れた様子も見せないのが不思議だった。肩にかけた真っ赤な女ものの着物はそれなりに暑いだろうに、紅はそれすらも優雅になびかせて、喜平の攻撃をいなしていた。


「もうどこに隠れているかなんて、誰でもわかるんだぜ?」

「…………」


 壁にはねた水の中に身を沈めて、喜平は逡巡した。紅の瞳は自分の隠れている場所をまっすぐに見つめている。この熱気の中で、喜平が部屋中にまいた水のほとんどは蒸発し、すでに身を隠すところはこの一角のみになっていた。

 もはや、喜平の攻撃は奇襲になりえない。


「水に潜った状態で、水が消えたら喜平ちゃんはどうなっちまうんだい? 吐き出されるのか? それとも、壁に埋もれたまま消えちまうのか?」


 懐から煙管を取り出して、紅は煌々と燃える灯りのひとつで火をつける。甘い香りのする煙を、紅はうまそうに吸って、吐き出した。


「消えられると困るんだよな。喜平くんの体は俺のもんで、血の一滴だって無駄にしたくねえんだからよ」


 水に潜った喜平の姿はもちろん、紅の目には入らない。だが、喜平は紅とにらみ合っているような感覚を覚えた。妖艶な紅の目が、【水鏡】の奥の喜平の目と交錯する。紅の目は、喜平をしっかりととらえていた。


 己の場所はすでに把握されている。だが、これ以上喜平も水の中に隠れているわけにはいかなかった。


 紅は喜平が【水鏡】から姿を現す瞬間を待っているのだ。柄の長い斧の間合いは広く、紅は喜平の潜む壁を間合いに入れた場所に立っていた。

 残り少ない寸鉄を、ただ一本だけ残して喜平は紅に向かって投げた。それと同時に、喜平自身も【水鏡】から飛び出して、紅の首元に向かって駆ける。


 己が【水鏡】に潜んだ状態で水が消えるとどうなるのか、もちろん経験したことはない。だが、修行中に頭領から強く警告されたことからして、おそらくは永遠に【水鏡】の中に取り残されるのだろうと考えていた。どういう世界なのか、喜平は知らないし、わかりたくもなかった。

 一筋の光も差し込まない暗く、静かな世界で一人死を待つなど、考えただけでも遠慮したい話だ。


「首か、脳天か、心の臓か」


 飛び道具に混ざって紅の一命を奪いに行った喜平の寸鉄が、斧の長い柄にはじかれた。輪を通した中指に鋭い痛みが走る。


「暗殺のために磨かれた技ってのは因果なもんだなあ」


 とっさに飛びずさった喜平の姿を、紅はうっとりと眺めている。


 首筋か眉間か、あるいは心臓。

 それは、喜平が修行において頭領から何度も何度も繰り返された内容である。暗殺者として生きていくためには、目立つことなくわずかな時間で確実に相手の命を絶たねばならない。そのために狙うべき場所か、その三か所なのである。喜平はそのいずれかを狙うために修行を重ね、半ば無意識下で行動に移せるほどに習熟したのである。


 紅はそれに気づき、誘い出した。


 小さく舌打ちをして、喜平は痛む右手の中指を見た。

 しびれるような痛みは大したことはないが、太さが倍ほどに膨れて、力が全く入らなくなっている。


「指がいったか? 俺が切り落としてやろうか?」

 ゆらりと揺れながら、紅が近づいてくる。

「ついでに食ってやるよ」


 紅の目は喜悦で光っていた。すでに、獲物を狩る喜びではなく、ご馳走を目の前にしたときの喜びである。


「俺も喉が渇いた。なあ、早く喜平ちゃんの血を飲ませてくれよ?」


 紅の間合いから逃れるために、喜平は壁際を移動する。紅はゆっくりと喜平を追いかけ、追い詰めていく。自分自身をじらすことで、手に入れた時の喜びを高めるために、だろう。


 水がほしい。


 喜平は心からそう思った。あふれるばかりの水があれば、もっと戦えるのに。水があれば――

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