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闇を乞う水 (13)

「俺がここに来ると、どうしてわかった?」

「さる方が教えてくれるんだよなあ。今夜ここにやってくるぞってなあ」


 喜平の真剣なまなざしに比して、紅はおどけたような目元だらしなく緩める。喜平を暗殺者、しかも手練れの暗殺者だと見抜いたうえでのこの落ち着きようは異様ともいえた。

 いや、そもそもこの状況自体が異様だった。


「――さる方とは」

 喜平は目元をかすかに歪めて、、低い声を出した。

 こみあげてくる不快感をかみ殺す。


 部屋の端には女の屍が積み重なり、女の甘い香りと血の匂いと糞尿の匂いが混ざり合い、熱せられた部屋ですさまじい匂いを放っていた。


「武田殿か? この屋敷の持ち主の武田信賢殿か?」

「はん」


 喜平の問いを、紅は鼻先で笑い飛ばす。


「冗談がうまいな、喜平くんは。あの殿様にそんな才覚があるはずもねえよ」

「では、誰だ?」

「それは言えねえ」


 紅はにんまりと笑う。


「口にするだけでも恐れ多い」

「……なら別に答えなくてもいい」

 喜平はすう、と目を細めた。

「貴様がなぜここにいるのかも含めてな」

「頼まれたのさ」


 意外にも今度の紅の舌は滑らかだ。


「先代の怨念が凝り固まった土地を治めるのは一苦労だからな」

「先代の……一色氏か」

「ああそうだ。賢いやつは嫌いじゃねえぜ、喜平くん」


 赤い舌で赤い唇をぺろりとなめて、紅は喜平に流し目を送る。

 ほんの数年前に起こった赤松氏による将軍暗殺と首謀者の追討の功により、若狭の地は武田氏の領地に変わったのである。土地を取り上げられた形になった一色氏の残党はこの地に残り、土一揆という形で抵抗を続けているのである。


「殿様はな、何とかしてこの地にしがみつきたいんだとよ。俺みたいなろくでもない人間の力を借りてもな」

「――それで、貴様は何を求める?」


 紅はにんまりと笑った。

 美しい顔が邪悪にゆがむ。


「自由、かな。好きな時に寝て、好きな時に起きて、好きなものを食って飲んで、好きな女を抱いて――殺して。力があればなんだってできる、最高の生涯だ」

「全く理解できない価値観だ」

「暗殺者がそれを言うか。ははっ、まあいいさ。分かりあったところで、今夜、この場で永久に別れる運命だからな。かえってあとくされがなくていい」


 紅は肩にかけていた巨大な斧を体の前に構えた。女の地と油でぬらぬらと光っていた刃は、すでに赤褐色に変じている。


「珠がほしいんだろ?」


 懐を二、三度軽くたたいて、紅は喜平に笑いかける。


「ほら、来いよ。その白い首をぶら下げて来いよ。斬り落として、その血を一滴残らず飲み干してやるよ。そうしたらな」


 紅が言葉を切った。

 弦月の形に細められた目は鈍い光を放っている。


「俺はすげえ力が手に入るんだとよ。うまいんだろうなあ、喜平ちゃんの血」

「ちっ……」


 狂っている――


 “さる方”がそう言ったのか、とは聞かず、喜平は短く舌打ちをして、後ろに飛んだ。

 見た目は人間だが、紅の目はすでに血臭に酔っていた。喜平の生き血をすする期待でまともな思考ができなくなっているようだった。

 壁に足がつくと同時に喜平は両手に握った寸鉄を、刺しやすいように握り直した。そのまま壁の反動を利用して、紅へまっすぐに向かっていく。低い体勢での疾駆。小太郎の【風舞】には及ばないまでも、一般人相手であれば十二分に効果をあげられる速度だ。


 惨劇の繰り広げられた屋敷の奥に位置するこの部屋の存在は、武田氏は何としてでも隠しておきたい秘密だろう。であれば、喜平がここで紅を倒したとしても、すべては闇に葬り去られるに違いない。


 そう判断して、喜平はまっすぐ喉笛へ駆けた。

 一瞬で、一撃で相手の命を奪う部位。

 暗殺者としての喜平の迷いのない行動だった。


「……おっかねえなあ」


 嬉しそうな声に、喜平は背筋が冷たくなる思いにかられ、とっさに方向を変える。ごくごくわずかに進路を変えただけではあるが、喜平の本来の進路上の空間が切り裂かれた。巨大で、それだけに重量もありそうな斧を易々とふるい、紅はひゅうっと口笛を吹いた。


「さっすが、甲賀の精鋭。そう簡単にはいかねえか」

「……」


 喜平は腰に下げた瓢箪のひとつを手に取った。


「そうだ、本気を出してくれねえと、俺もつまんねえからな。なんだっけ? 【水鏡】だったか?」


 紅の軽口には一切反応せず、喜平は瓢箪の水を床と壁にまいた。

 もう一つ、瓢箪の口を開けて、天井近くにまで水を飛ばす。


 水は限られた資源である。

 普段の喜平であれば、一度にふたつ分使うことなどありえないが、紅に忍術の正体を見破られている以上、奇襲の効果を期待することはできなかった。

 一気に決めるほかはない、と考えた結果だ。


 どこでこの術が見破られたのかはわからないが――

 水に体を没しながら、喜平は考える。


 姿が見えない相手と戦うのは容易ではない。気配と殺気をたどろうとしたところで、それを押し殺すのは喜平が何よりも得意とするところだった。


 頭の先まで水に潜る直前に喜平が見たのは、面白そうに目を細める紅の顔だった。

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