闇を乞う水 (12)
闇に包まれた屋敷の奥――
喜平は誰にも見とがめられないまま、さらに奥へと侵入していた。水の無駄遣いをしないように、すでに壁から全身を現していたが、気配を消して進む喜平に気付く者はいない。
「……妙だな」
細いたれ目の奥を光らせて、喜平はひとりごちた。
静まり返った屋敷である。
その中に濃厚な血の匂いがぷん、と廊下の奥に向かって漂っていた。ここまで強烈な匂いを発するということは、もしかしたら、人の屍を引きずって歩いて行ったのかもしれず、屋敷の不自然なまでの静寂はそう考えてみればなるほど、恐怖に支配されているためにも思える。
「水を補給しておいてよかった」
腰にずらりと下げた瓢箪のほぼ全てに水が満たされているはずなのだが、喜平の足は軽く、物音一つ立てない。
奥に何が待っているのか、喜平には知る由もない。
また、たとえ知っていたとしても、喜平には前進以外の選択肢は取りようがなかった。屋敷へ侵入可能なのが自分一人である以上、一人で任務をこなさねばならないのだ。そして、多くのものが侵入困難な場所へ入っていける喜平はまさに突撃手だった。
奇襲に備え、必要であれば奇襲も行う。
冷静で、臨機応変で、だが、その奥底には強い闘志を秘めている――それが突撃主に求められる性質であり、喜平の性質そのものであった。
「……ここか」
一つの扉の前で喜平は足を止めた。
周囲に血で塗りたくったように、その一角は血の匂いを放っていた。敏感な忍者の鼻には、まるでここにいるぞと大声をあげているにも等しい状態である。
頑丈な扉である。
屋敷には不釣り合いな扉に、喜平は一時考えるが、すぐにあたりに水をまいた。体を水に没して、喜平は扉の隙間から奥へと潜り込んでいった。
罠なのは承知の上だ。
たとえ罠だとしても、負けはしない。
喜平は薄く笑みを浮かべる。
厚い扉の向こうには、さらに長い廊下があった。
妙に高い熱気に加えて、血の匂いがさらに強くなる。か細い女の悲鳴も聞こえる。奥にかがり火が揺らめいているのが見えて、喜平はゆっくりと近づいていく。
幾層にも塗り固められた血の匂いが鼻をつく。それだけで、厚い扉で外界でさえぎられたこの部屋の存在目的を理解できる。
悪趣味なつくりだ。
歩きながら喜平はふとそう考えた自分に苦笑した。人を虐げられるために作られたのだろうこの部屋と、暗闇の中で人を殺すために育て上げられた自分とで、どっちが悪趣味か、と考えてしまったのである。
暗殺者としての生き方を選んだのは自分だ。
自分の能力を甲賀で役立てるためには、それが一番だと判断したのだ。
困ったように下がった眉の下では、合理的に物事を見て、判断して、実行する。喜平はそんな自分のことを嫌いではなかった。
時折、損だとは思うけれど――
喜平は床に水をまき、体を没した。かがり火はすでに、木のはぜる音さえも聞こえるほど近くなっていた。
水をまき、道を作りながら喜平は明るい室内の様子が探れるところまで移動し、そっと頭を目元まで持ち上げた。
室内には五人余りの人間がいた。いや、生きている人間だけを数えるならば二人である。そして、もうすぐ一人に減ろうというところだった。部屋の一角に、三人の女の屍が積み上がり、中央では血にまみれた女が最後の痙攣をつづけている。裂かれた腹からは内臓が零れ落ちている。傷のわりに血の量が少ないのは、ここに来るまでの間、さんざん血をなすりつけられたからに違いない。
女の断末魔を薄笑いさえ浮かべて眺めているのは、壮絶な美貌に狂気の色を宿した女装の男――喜平はその顔を知っていた。
「紅」と小さく口にする。
水に潜ったまま近づきたかったが、紅のいる部屋には煌々と明かりがともり、また、薄笑いの裏で、紅は周囲に対し、非常な警戒を払っていた。ひたひたと水が広がっていくのを見落としそうもない。
腹を裂かれた女の魂が、か細くつながった肉体との糸を断ち切ったのを見届けて、紅は陰惨な含み笑いをこぼした。
「早く早く早くこいよ、喜平くんよお」
血に濡れた斧を無造作に方に乗せて、一方の手を懐に入れてまさぐる。
「大好きな、欲しくて欲しくてたまらねえものはここにあるぜ? 早くこいよ、俺と遊ぼうぜ、なあ?」
様子をうかがっていた喜平は、紅が取り出したものを見て、ひゅっと息を吸った。
手のひらに載るほどの黒い珠――
黒曜石でできた珠だ。
ひた、と喜平は暗がりから足を踏み出した。そこは先ほどまでの暗闇に比して、あまりに明るい。
「おっ、待ってたぜ喜平くんよお」
紅が赤い唇を釣り上げて、嬉しそうに笑った。
「――その石をもらい受けたい」
「まったく美人な暗殺者だな。俺はな、喜平くん、お前の血が飲みたい」




