09
藤織さんがやってきたのは、結局退院の日だった。この薄情加減がたまらない。放置プレイもドンと来い。
病室を片付けて荷物を整理して、私が帰ろうとしたところに迎えに来たのだ。開口一番彼は言った。
「帰るぞ、ナベ」
……え?
藤織さんが眉をひそめて機嫌悪そうに呼んだ名に、私はあっけにとられた。
「ナベってなんでしょう」
「今回のお前の行動には呆れた」
「え、今回で初めて呆れたんですか?」
今まで何度も呆れる機会はあっただろうに。なんて懐の広い……。
「バカ、なんでそうやって無駄にポジティブなんだ」
「あのう。心なしか扱いがぞんざいになっているような気がするのですが」
藤織さんはふんと笑った。
「今まではこちらの都合に巻き込んだことについては、爪の先ほどには申し訳なく思っていたし、いい年した女なんだから丁重に扱おうと思っていたが、今回のことで、もうそんな気遣いいらんと気がついた」
いい年した女扱いされてたんだ……。
「ありがとうございます!」
「褒めてない!」
藤織さんが拳骨をいきなり私の両こめかみにつけてぐりぐりする。
「ふ、藤織さん、痛いです」
「反省しろ。いいか、向こうの関係者に聞いて僕は本当に呆れた。お前、奴らが来たときになんの疑いも無く扉を開いたそうじゃないか、それに、電車でなんか行動しやがって、ずっと後をつけてきたらしいぞ。道路上でさらおうかと思うくらい、ぼんやり歩いていたらしいな。掛井にちゃんと忠告されていたにも関わらず、なんでそんなに無用心なんだ!」
「ゴルゴ13じゃないんで、後ろにどなたかがいたって別に苦じゃないんです」
「いばるな!」
あだだ、病み上がりにウメボシ二回はきつい。
「とにかく、そんなバカに敬意を払っていた自分がアホらしくなった。そもそもこの僕が何故渡辺さんなどと丁寧に呼ばねばならない。貴様は何様のつもりだ」
「ええー、別に私は『渡辺さんて呼んで☆』なんて言ってませんよ。藤織さんになら、このブタ、と呼ばれてもいいとは思ってますけど」
「呼ぶこっちの正気が疑われるわ。お前など、ナベで十分だ!」
「なんでナベなんですか」
「バカか。木村さんならキム、小林さんならコバ、渡辺さんならナベに決まっているだろう、愛称は」
そうなんだ!この世にはそんな法則が! 友達少ないんで知りませんでした。
「帰るぞ」
「はい」
私は荷物を持とうとした、がそれをひったくるようにして、藤織さんが奪い取る。
「なんで自分で持つ?」
「いえ、私の荷物ですから」
「なぜ僕が、病人で、しかも女にこんなボストンバックを持たせると思うんだ」
えーと。
ああ、僕が持つ、で済むんじゃないだろうか。
「ところでですね、藤織さん」
「なんだ」
「あの、その例のあちらさんとの話し合いはなんとかなったんでしょうか」
「一応脅して話の落としどころはついた。実行犯の指をくれるといったがそんなものはいらん。それよりいろいろ情報を仕入れてきたから大丈夫だ。今後はさすがに命を狙われることにはならないだろう。最初からそうしたかったが、いまひとつ証拠が無くてな……ナベに手を出してくれたおかげでケリがついた」
無事円満解決である!ラブ&ピース。
「ま、向こうとしても、文句は言えないだろう、あと入院費分程度の心づけは貰ってきたら一段落だ」
限りなく恐喝に近い恫喝、という感じだが。両方アレか……。
「でも、ナベは身辺には気をつけろ。まだなにがあるかわからん。僕もなるべく見ているから」
「はあ、お手数かけます」
「だから、どこか出かけたいときには申告しろ。なるべくついていく」
うーむ。この年で保護者つきとは。
やれやれ、まあ仕方ないと諦めた私に、ふと藤織さんが振り返った。
「ところで」
「はい?」
藤織さんは、正面から私を見ていた。
「なんであの時、渡辺多恵に……姉に、事情を説明しなかった?」
「へ?」
「それにこの入院中なら、逃げる機会もあっただろう。これだけ痛い目にあって、死ぬかもしれないということを理解しながら、なんで逃げない?」
疑う、というよりは理解できないみたいな顔で、藤織さんは問う。
正直、私にも答えられないことを。
私はしばらく考えてから言った。
「だってあの時、電話で事情を話したら、藤織さんすぐに電話切っちゃっただろうと思います。それに、私、あまり迷惑とかかけたくないんです。ほんとに彼女が好きだから絶対こんなことに巻き込みたくない」
生きているだけで迷惑かもしれないがそれはまあ、いずれなんとかなるだろう。
「私が関わった問題だから、最後までなんとか自分で終わらせたい」
私ははじめてまっすぐに藤織さんを見た。
「あと、逃げても」
逃げてどこにいくのだ私。
学校から逃げて、両親の死から逃げて、まともな成人らしさから逃げて。
また今度も逃げるのか。自分の家庭の問題から。
分不相応にも、私はそう思ったのだ。
先に目をそらしたのは藤織さんだった。でも私も緊張していたから彼が視線をはずしたことでようやく言葉が紡げる。
「……あの、うまく言えませんが、なんか、逃げるのは違うって……」
「まあ逃げても速攻つかまえるがな。面倒だから無駄なことはするなよ」
じゃあなぜ聞く、おい。
「さて帰るか、何かうまいものでも食べて帰ろう」
さよなら、眼鏡攻め男性看護師×ドM受け医者(ここまで妄想仕込み完了)。
やっぱり白衣と尿カテはナイス妄想アイテムであった。
部屋を出て、看護師さんたちに頭を下げると、私たちはエレベーターで降りた。
藤織さんは一階までつくと、まっすぐ会計カウンターに向かった。そこでめんたま飛び出るようなすごい金額を払う。いろいろ痕跡を残したくないのか、藤織さんはぽっきり現金払いだ。自立が可能な札束なんて初めて見た。おそらく最初で最後であろう、御利益ありそうなお姿だった。
……しまった、拝んだ後に、体の悪いところを(特に頭)を撫でてもらっておくべきだった。
「あ、あの、ありがとうございます」
めったに見れないこうレベルの顔と金の両方を揃って見せられて、なんだが呆然としている会計カウンターのお姉さんから逃れるべく、私達はそこから離れる。廊下を歩きながら私は藤織さんに声をかけた。
「いや、お礼は、掛井相手に体で払ってもらえれば充分だ」
「勘弁してください」
「なんでナベは掛井が嫌なんだ。あいつも嫌な奴じゃないだろ」
そうですね、藤織さんよりよっぽど常識人ではある。
「でも、そうやって先に周囲の都合ありきだと、なんとなく自分の意志が入っていないみたいで嫌です。きっと掛井さんもそうなんだと思います」
「だから。普通に恋愛できるように段取りしているだろう」
他人に段取りされる自由恋愛ってありなのだろうか……。
「そうだなあ。二人で外にでかければいいのか。そうだな、デートくらいしないとな」
「どうせなら、三人で出かけましょうよ!きっと楽しいですよ!」
「意味無いだろうが!」
そうかなあ。
「でも出かけたほうがいいな。確かに人のうちではヤリにくいだろう」
なんか今、かなりいかがわしかったです。
「僕は、掛井はもちろん、ナベにも幸せになってもらえばいいと思っているんだが」
言ってから、藤織さんがその言葉があまりに善人ぶっているようで、自嘲するように笑った。
「まあこれは嘘っぽいな」
「あのですね、藤織さん」
なんだ、とばかりに彼は見下ろしてきた。私もけして身長低くは無いのだが、なぜこれほど見上げてしまうのだろう。気持ちの問題が大きいと思われる。
「私、誰かに愛称で呼ばれたのはじめてです」
藤織さんが少し私に興味を持った。
「今まであまり友達らしい友達もいなかったから、せいぜい『渡辺さん』とかでした」
「ふうん」
「だからナベって呼ばれてちょっと嬉しいです」
キモいかな。でもまあいいや。
「なので、藤織さんもフジって呼んでもいいでしょうか」
「却下だ!なんでそんなどこかのテレビ局みたいな呼ばれ方をされなければならない!」
「転校生が、初めて誰かに声をかけるくらいの勇気で申請したんですか」
「だめだ。僕は基本『様』よばわりしか許さない」
なんて高尚サマなんだ。
「じゃあ名前とか……!あっ、私、今気がついたんですけど、藤織さんの名前を知らないです」
「百年早い」
さすが藤織さん、お安くないようである。