後日談:1010(9)
伽耶子さんが門倉さんを連れてきたのは退院日前日のことだった。なんとかその頃には出産疲れから回復して、それなりに見られるようになってきたのではないかと思われる。
とはいえお見舞いだけというわけでもなく、今日中に持てるものは家に持って帰って来いという指令が出たためだった(もはや誰からとは言うまい)。すみません、最初から最後まで甘えまして……。このご恩はかならず同じ立場の時にお返し申す。
伽耶子さんは神妙な顔して赤ん坊を見ていた。いまいちどう接していいのかわからないというのがありありだ。
「なんだかまだくしゃくしゃして微妙にみっともない宇宙人ぽいんだけど、そのうち渡辺か兄さんに似るのかしら」
ふつーは言わないことをずばり言った!
「まあ藤織さんに似て欲しいとは思いますが」
「それはまた、藤織も涼宮も複雑な顔になるでしょうね」
伽耶子さんは楽しそうだ。なんだかんだ言って揉め事が好きなのではないだろうか……彼らは……。
「これは触っていいものなのかしら」
「丁寧に扱っていただければ」
伽耶子さんは試しに、とばかりに赤ん坊の手をつついて見た。しかし私に張り付くようにして寝ているので反応がない。
「どうしたらいいのかよくわからないわ」
「私もです」
「そのわりには堂々としているじゃない」
「まあそのうちなんとかなるかなって」
「大丈夫ですよ。渡辺さんなら」
門倉さんはあっけらかんとして言い切った。
多分、これは絶対間違いなく、根拠ないな、と思われる言い草だったけど、しかしあまりにも堂々としているとなんだかそんなつもりになってきてしまいそうだ。
「伽耶子さんもその時になれば問題ないですよ」
「その時……ねえ」
伽耶子さんは一瞬考え込んだ。
「まああなたの言うとおり、なんとかなるでしょう。それより渡辺、あと一晩用心するのよ。さすがに兄さんが選んだだけあって、この産婦人科は部外者の立ち入りについては鉄壁の守りだけど、今日は兄さんは来られないって言うから。これを取られないようにね。あんたも誘拐に気をつけるのよ」
どこのハリウッド映画ですかそれは。
「聞いたのよ。常盤美鶴がここまで一緒にきたってことを」
伽耶子さんは淡々と私を諭してくる。
「渡辺にはいい人だったかもしれないけど。でもそれが全てではないから」
「わかってます。今晩は頑張ります」
一命を賭して赤ん坊を守り抜きます、とか言うとなんだか死亡フラグだからやめておこう。
伽耶子さんは、車を回しておくから荷物を持って玄関まで来て欲しいと門倉さんに頼むと、自分も荷物をもって部屋を出て行った。
「どうなんでしょうね」
門倉さんは、伽耶子さん開けた扉が閉まる音を聞きながら言った。
「僕にはよく想像できない世界があるみたいですね」
「門倉さんはご家族とは?」
「両親は早くに亡くなりまして。祖母が育ててくれたのですが、もういません。でもあの人たちに比べれば単純で能天気な家族でしたよ」
「うちも同じようなものです」
それから私はここ数日考えていたことを口にした。
「伽耶子さんはああいうけど、私はあの瞬間の常盤美鶴さんに、何か打算があったとは思えないんです」
門倉さんは長い睫毛を持つ瞳でじっと私を見ていた。常盤美鶴さんと会っている時に陣痛が始まった事は彼も聞いているようだった。
「打算がないというのは別にいい意味だけじゃないんですけど」
「……とっさの行動であって、なにか自分の息子夫婦に対しての好意や譲歩があったわけではないと?」
私は頷いた。
「人として助けたけど、それはその刹那だけのものだったのかなって」
そうでもなければ理由がつかないのだ。
「きっと夫が母親と和解することはないと思うんです。常盤さん自身もきっとそれは理解している。それくらい酷い関係なんです。私にはそれなりに妥当な態度でしたけど、きっと夫にはそうではなかった。だから私もあの人を肯定するわけにはいかないんです。あの人が夫にしたことは彼を激しく傷つけた。過去のことだからと許していいことではないんです」
自分がこれほどに、誰かを拒絶するなど私は思っても見なかった。でも藤織さんは私を肯定してくれた人だ。だから彼を否定した人を私は認めない。認めてしまったら藤織さんを否定することになるからだ。安易な仲裁などもってのほかだ。
実のない、安易な拒絶のほうがまだ道理だ。
「だからたとえどれほど優しくされても、私は絶対あの人と親しくしない。そんなことくらい常盤さんだってよくわかっているでしょうに」
私に親切にしても何の得にもならないということくらい。たとえ孫の為に打算として優しくしても、それに効果などないことは、常盤さんはきっと私以上に理解していたはず。救急車を呼ぶまでは、人として当然としても、なぜ彼女は病院まで付き合って、私を励ましたのだろう。
「それでも、ということがあるのでしょう」
門倉さんは静かに言った。
「人は1と0が無数に並ぶデジタル世界の二進法に生きているのではないんでしょうね。その間にいろんなものが詰まっている。それが思わぬ行動をさせるんですよ」
「ですね」
そう、私が、常盤さんを拒絶することが無意味であるとわかっていてもそうせざるを得ないように。
「そうでもなきゃ、俺も伽耶子さんと結婚できなかったように、ね」
門倉さんはあの大きな目を細め、薄く笑った。
「それは違うと思いますよ?」
だから私はちゃんとにっこり笑った。
「伽耶子さんは一時の気の迷いで、なにかをしでかしてしまう人じゃない」
それでも私の言葉に、門倉さんは懐疑的だった。
「伽耶子さんだって」
言いかけて、門倉さんは気まずそうに黙った。
どうしようかな、と私は一瞬ためらう。でもいつも私のことを夫にチクられているんだから、たまには私だって情報を入手したっていいはずだ。伽耶子さんは基本口が堅いのに、自分の兄にはなんでもべらべら喋ってしまうんだ。
「誰にも言いませんよ」
私が言うと門倉さんは小さく頷いた。それでもしばらく時間を置いてから語り始める。自分の中の大事な宝を取り出して眺めるみたいに。
「伽耶子さんが泣いたところを一度だけ見ました」
へえ!?とか思わず口に出しそうになったのを慌てて飲み込む。
「おじいさんが亡くなった時です」
「え?」
それは意外な言葉だった。
殴り合いの喧嘩をして、しかも進学の時には嫌がらせまでされて、おまけに迷惑な遺言まで残されて。そんな相手であったというのに伽耶子さんは。
ね、と門倉さんは微笑んだ。
「伽耶子さんは優しい人でしょう?」
「優しい人だからこそ、許せないと思ってました」
「だから、人の心と言うのは単純なバイナリではないということです」
1と0、1と0。でもそれが結果としてコンピューター上に無数の表現を生み出すのか。
「……ああ、そうですね」
「おじいさんが亡くなってから三日くらい伽耶子さんはうちにいたんですけど、でも泣いたのは一回だけだったな」
ぼそっとつけたした門倉さんの言葉に私は仰天した。
「え、ちょ、え?伽耶子さんと一緒に住んでいたんですか?」
「そうですね。でもいろいろやることがあったようで、日中はでかけていましたけど」
そういえば、と思い出す。
葬式の日に私は藤織さんの家に連れてこられた。そこから伽耶子さんが現れるまで時間はしばらく空いていた。
「そ、そんなことが……」
「ああ、でも伽耶子さんの名誉のために言っておくと、別になにもなかったですよ?」
自分自身の男としての名誉はどうでもいいらしい門倉さんは立派だ。草食男子の鑑だ。
……とはいえ。
伽耶子さんが泣き場所として選んだ時点で、門倉さんはかなり選ばれし者だったんだ。なんだ、エクスカリバーを抜きし者だったんじゃありませんか。心配して損した。
ちゃんと門倉さん、愛されているのかなあ、なんていう私の心配など杞憂も良いところだったわけだ。まあ結果としては良かったなあというところだ。伽耶子さんも安心できる場所があって本当によかった。
しかしそれを表に出さない(出せない?)辺りが伽耶子さんだ。
「……あのですね」
私は思い切って聞いてみた。
「伽耶子さんって、門倉さんと二人きりの時もいつもどおりなんですか?」
いくら門倉さんが私とよく似て下僕属性がデフォルトで、奴隷レベルがカンストであっても、ツンデレのツン状態オンリーの妻じゃちょっぴり辛かろう。
などと私はまたしても余計な心配をしたわけだ。ほんの数秒だったが。私のトンマな質問を聞いたその時の門倉さんの笑顔ときたら。
「そんなわけないじゃないですか。伽耶子さん、超可愛いですよ」
門倉さんは歌うように言った。
「まあ詳細は言いませんけど。他人のノロケ話なんてつまらないでしょうし」
……こんなとき、何と言うべきか私はもちろん知っている。
もげろ。




