後日談:1010(8)
さて、出産に前後して当然藤織さんも来たし、伽耶子さんも来た。ちなみに私の身内は海外のためメールをしておいた。また長期休暇が取れたときに会うことになるだろう。
「ええとですね」
出産の三日後、きまずそうに訪れたのは掛井さんだ。
あいかわらずのあの引き締まったガタイのいい体を丸めて小さくなって言う。多分赤ん坊を抱いてベッドにいる私の前に、藤織さんが険しいなんてもんじゃない顔をして立っているからだと思う。
「こちらが私と妻からです」
差し出された小さなアレンジメントを私はにこにこして受け取ってベッド脇に置いた。紗奈子さんが選んだのであろうか、出産に相応しい淡い色を貴重としながらも紺や赤を差色にしたのセンスのいいアレンジは病室を明るくする。
「そっちは持って帰れ」
藤織さんが冷たく言ったのは、もう一つのバカでかい……それこそもう一回り大きければ新装開店に相応しい花輪になるんじゃないかと思うほど大きな花束だった。使ってある花も薔薇だの百合だのとにかく豪華だ。
「……ですよねー」
ほっとしたように掛井さんは苦笑いだ。
察するに。
あれは涼宮からのものであろう。
「どうして最近こちらをかまってくるんだろうな、あの男は」
「奥様が年をとって多少優しくなったからじゃないですかね」
掛井さんはあっさり言った。
そういえば、常盤美鶴さんのことについてはいくらか私も知識があるが、藤織さんの父親……涼宮家長について知る事は殆どない。ちらりと藤織さんを見上げると短い言葉を並べた。
「……伽耶子と紗奈子の母親だが……まあ当然僕の事は歯牙にもかけていなかった。存在そのものを完全無視だ。子供を産んで強くなってからは夫どころか自分の義父であるあの面倒な遺言を残した老人にもその点では一歩も譲らなかったらしい。まあ彼女がいたからこそ、今まで涼宮はあの遺言以外さしてうるさくなかったわけだが」
「まあでももう少しの辛抱ですよ、藤織さん」
掛井さんは何故か自信満々だ。
「『私が涼宮を支配した暁には、お兄さんは絶対近寄らせない』と紗奈子さんが言ってますから」
……なるほど、紗奈子さんは次の女帝となるべく努力しているわけか。そういえば初めてあったときから、藤織さんをすごくライバル視している発言だった。兄妹の権力闘争が兄の安泰に繋がるというのも奇妙な話だけど、まあ結果こそ全て……なのかな?
掛井さんのその発言に夫は楽しそうに笑った。
「それは頼もしい。しかしそういわれるとなんだか逆に首を突っ込みたくなるな、涼宮に」
「やめてください。紗奈子さんに怒られます」
「やめてください。私が政治家の妻なんて、宇宙飛行士の方がまだ可能性あります」
掛井さんと私は己が保身のために意見は完全一致だ。相変わらず気があうな~。
その発言は当然予想していたみたいに夫は頷く。
「じゃあ紗奈子に頑張れって言っておいてくれ」
「ありがとうございます」
掛井さんのところもうまくいっているようでなによりである。
「それでですね」
掛井さんはいつもとは違う様子で口ごもった。照れ隠しみたいに私の腕の中の赤ん坊をみてからようやく言う。
「伽耶子さんにはもう伝えてあったんですがうちも四ヶ月でして」
私は夫と顔を見合わせた。
「いやまあ紗奈子さんは若いんですけど、自分がもう年が年なのでそりゃ早いにこしたことはないかなとか、はい」
ごにょごにょと気まずそうに言っているが、それはとてもおめでたい話なのでは。
「やだ、掛井さん、おめでとうございます!よかったですね!」
「は、はあ……」
そっかー、この間結婚式に出たばっか、みたいなつもりだったけど、そういうことになっていたんだ。すごい。
「何というか、まだ実感とか全然ないんですけどね」
「私もですよ。いまでさえ母親の実感ってなくて」
掛井さんを励ましたつもりが何故か心配する目で見られている。
「じゃあ紗奈子や伽耶子の母親はもうそれで頭が一杯だな」
「初孫ですからね」
言いかけた掛井さんは失言してしまったとばかりに語尾を濁らせた。
「すみません」
「気にするな」
私と夫の子供は涼宮としては孫と数えられていないということが明らかになったけどそんなことはもともと承知の上だ。
逆に認めてやるから挨拶に来いといわれたほうが困る。イエス!ノーカウント!
「本当はいとことして親戚縁者がいたほうがいいのかもしれないが」
「あ、でも紗奈子さんは別に涼宮に関係なく遊びに来るつもりみたいですよ。多忙であまり産休とれないのでたまにでしょうけど」
「大丈夫ですよ。友達もいますし」
慌てた掛井さんのフォローに私は気にしないように言う。
友達もいますし。
……ふいに自分の言った言葉に泣きそうになった。
そうか、私には今は友達もいるのか。
夫の友人夫妻とか、それこそ伽耶子さんとか、夫の血縁はないけど家族代わりだった人とか。
まともな人間関係なんて築けないと思っていたけど、気がついたら私の周りには沢山の人がいた。もちろん私が全部最初から作り上げたものじゃなくて、夫がその人間関係の糸の端を持たせてくれたからなんだけど。
その糸を、手繰り寄せて良かった、そして放さないでいて良かった。
いなくてももしかしたら何とか生きていくことは出来るのかもしれないけど、それでも周り誰かがいてくれるという事は気持ちを支える力となってくれるように思う。
実は少し怖かったのだ、常盤美鶴さんと言い争いをしたときに。
もともとあまり誰かを嫌うとかそういうことがうまく言語化や自覚が出来なかった。だから争うこと自体が苦手だったのである。別に私が温和だからとかそういうんじゃない。しいていうなら怠惰だったのだ。
でも夫が悪し様に言われるのが我慢できず、常盤美鶴さんとは言い争うことになったけど、そういう自分の新しい感情がちょっと怖かった。結局私に正しさがあるわけでもなく常盤美鶴さんにあるわけでもないのなら、本当に不毛な争いだなって。これから人の親になるのに、なんて低レベルなことをやっているのだろうかと。
しかたないんだと思えた。
大事なものを持つということは、それを侵害された時に相手に対して憎しみを持つところまでどうしたってワンセットなんだろう。
でも私の手にある大事な人間関係の糸を思うと仕方ないと自分を許せた。
怠惰と低レベルなら、まだ低レベルのほうがいいや。
もしかしたらその先にまた何か違うものがあるかもしれないじゃないか。ガンジーやマザーテレサのような博愛とまではいかなくても。




