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49  作者: 蒼治
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後日談:1010(7)

 ……は?

 え、何?何言ってんのこの人。次ってなんだ、一人の人間を失敗扱いってなんだ。


「わたくし、結婚して常盤に嫁いだの。今の夫とは仲良くやっているけど子供だけができなかった。子供がいない人生なんて、欠損しているでしょう。無意味だわ。だから子供をちゃんと人並みに育てたいの。でも血のつながりもないなんてそれも嫌だから。孫に当たる存在なら許せるように思えるわ。次は失敗しない。最初と違って今度はちゃんと夫がいるし」

「何言ってるんですか!」

 わたしは怒鳴っていた。この間、最初の邂逅の時に憤ったのはお腹の子供と私自身のため。今、やるせなくてたまらないのは夫のためだ。


 そうだ、藤織さんは私の夫なのだ。『夫婦』という立場に馴染めないとかそんなとんちんかんな照れ隠ししている場合じゃない。私を世界の全てから守ろうとしてくれる人で、私も守らなきゃいけない人なんだ(いやまあ、彼のその手段とか言い草は時々想定外すぎて震えが走るけど)。

「絶対、あなたになんて子供も夫も接触させない!」

 私の勢いに常盤美鶴さんは始めてみるあっけに取られた顔をした。誰かに怒鳴られたことなんてないみたいな人だ。


「私があなたより立派な親になれるとか人間としてまともだとか、そんなことは思いません。でも少なくとも私は自分の大事な人を失敗なんて言い捨てたくないし、なにかを間違えたってじゃあ代わりでやり直すなんて考えもしません」

 よくわからないのだ。

 常盤美鶴さんがまったく私と相容れないこんな考えを抱くに至ったのにはそれ相応の理由があるんだろうし、それを知ることもなく相手を全否定なんていうのはどうだろうと思うのだけど、でもだめなんだ。

 わかっていたことだけど。

 私は器の小さい人間である。

 許せんものは許せんのだ。


「……私の夫を侮辱しないで」

 気分的にはカフェの水くらいかけてやりたい気分だったが、どうみても庶民からしたら天文学的数値と思われるお値段のその着物を濡らすのはちょっと、えっと、無理。

 なので私は無言で立ち上がった。財布からぺしっと千円札だけだして例のお金と並べて置いた。


「失礼します。もう関わらないでください」

「結局あなたもあの子の味方なのね?」

 つまらなさそうに言った彼女の言葉についにキレた。

「そうですよ。あなたにはどうしたって味方したくなるような人はいないんですか。味方してくれる人も」


 意図的に相手を傷つけようとしている自分の言葉に私は苦味を覚える。うっすらとこれは言ってはいけない言葉だとわかっていた。常盤美鶴さんの表情は変わらない。でも時々わかることもあるじゃないですか、間違いなく相手が傷つく言葉ってやつが。

 己の愚かさに私もうんざりである。

 誰かを愛したからって、守りたいと願ったからって人として成長できるわけじゃない。ただ一部のエゴが突出するだけだ。結婚も出産も、ついでにいうなら仕事も地位も名誉もそれだけでは人の魂の格をあげたりしないのだろう。その証拠に私は今、夫を好きであるがゆえに不愉快な相手をあえて傷つけた。


 だからいいじゃんと漠然と思う。

 いいんだ、失敗したって。どうせもともと私達は完成なんてしない。永遠に満ち足りない。

 ……ただ、おかあさんが子供を大好きでいてくれたら夫は傷つくことはなかったのに。

 終わった話。今更言っても仕方ない話。だから誰にも言わないけど、それが悔しい。

 私は常盤さんの返事を待つ事無く席を立ち上がった。もう二度と会うことは無いだろうと思う潔さで去ろうとした。


 が。

 その時、下肢に違和感を感じた。じんわりとした不快感。

「……すみません」

 私はよろけてテーブルに手を突いた。シワとかシミとかつけた日には殺されそうな高そうな着物には近づきたくないが、この場合背は腹に変えられぬ。

「なにかしら」

 常盤さんはもちろんよそよそしさを隠さなかった。その目を見つめて私は言った。

「どうも破水したようなので、恐れ入りますが、タクシーを呼んでいただけないでしょうか」


 救急車呼ぶほどでは無いだろうか?でもここ公園なので、他に頼めそうな人もいない。自力で電車とかバスとかで行くのはなんとなく厳しい。自力でタクシーを捜すのは少々荷が重い。病院言って、この程度で来るな!と言われたらその時には諦めて頑張って帰る所存であるが、一応病院に向かったほうがいいように思うのだ。

 というわけで常盤さんに助けてもらうよ。たった今、傷つけた相手に助力を願う私のこの後先考えなさっぷりときたら!


 常盤さんは私をまっすぐに見返した。

 そういえば、この人の顔をこれほどしげしげと眺めるのははじめてであると気がつく。涼しげな目元とすっきりとした輪郭。言ったら双方にものすごく嫌な顔をされると思うが、常盤さんと夫はやはりそっくりであった。

 遺伝的にはちぐはぐであったはずの渡辺一家は、問題のある娘を抱えているのにそれなりにうまく言っていた。

 藤織さんは、これほどに似ている母と分かり合えなかった。きっとこの先も無理なのだろう。

 語り合えば許すことができるわけでもなく、一緒にいれば認め合えるわけでもない。

 それはやはり一種の悲劇なんだろう。でも。


「なんですって?」

 常盤さんの声は震えていた。冷たく無視されて叱るべきだと思ったので意外な反応だ。

「あ、えっと、なんか産まれそうです」

「何を言っているのあなた!」

 突然、常盤さんの声がカーンと跳ね上がった。美しい小箱のようなバッグから、携帯電話を出す。おっとバッグを取り落とした。

 地面に彼女のバッグの中身が散らばった。あらあらと思って拾おうとしゃがみかけた私に、常盤さんは鋭く言う。


「いいからあなたは座っていなさい!バカ!」

 バカ、の言い方まで藤織さんにそっくりな。

 常盤さんは迷う事無く救急車を呼んだようだった。しかし狼狽しまくって、救急隊の皆さんに説明することすら危うい感じだ。要領の得ない会話を幾つも繰り返し、常盤さんはようやく伝え終わったようだった。そのうろたえ方に、私はなんだかおかしさを感じてしまう。それは藤織さんが持ち得ないものだ。


「常盤さん、そこまで話を大きくしなくても」

「あなたは黙って!」

 きー、とかなっている常盤さんは、取りすました態度をどこかに置き忘れてしまったようだった。まったく違った様子に私は驚いていたが。

「……あ、いて」

 妙な鈍痛が腰から時折響き始めていた。遠いけどはっきりした真夏の入道雲のような確かな存在だ。こりゃいかん。


「痛いの!?どこが!?というか、いやだちょっと、死なないでよ?」

 常盤さんは「藤織の跡継ぎ候補」を心配なさっているのであり、私のところはどうでもいいはずである。でも狼狽しまくっている常盤さんからはその辺りの区別をしている様子は見受けられない。いでで。

 救急車のサイレンがもう聞こえ始めた。が、常盤さんの混乱は収まる様子は無い。というか、そろそろ私を見捨てて立ち去るではないだろうか、なんて考えていた私の予想に反し、なんと常盤さんは到着した救急車にまで乗り込んできたのだった。

「と、常盤さん!?」

 いだだ、油汗が浮いてきた。


 常盤さんが救急隊員に話す病院は、確かに私のかかりつけ産科がある。怖い!何で知っているのだ。そのリサーチ能力は息子さんにがっつり受け継がれていますよ。

救急車にそぐわぬ着物姿で常盤さんは私の横に寄り添う。病院についてもストレッチャーにぴったりくっついてくる始末である。


 その頃にはもう陣痛も宴たけなわ、意識も吹っ飛び加減であまりよく覚えていない。以前、刃物で刺されるという体験をしたが、痛さでいったら正直陣痛のほうがやばかった(まああの時は速攻病院に運ばれて鎮痛剤とか盛りだくさんだったけど)。


 なので、常盤さんのこともうろ覚えなのだ。

 ただ、分娩室に私が放り込まれるまでずっと握った手があったことを覚えている。あとで気がついた時、私の手にはきらきらしたジェルネイルの破片がのこっていたから、相当強い力で握り締めていたのだろう。

 このネイルが看護師さんや助産師さんのものということはないだろうから、間違いなく常盤さんのものだ。


 私が手をつかんでいた人が、ずっと最後まで、私を励ましていた。まるで自分の娘に対するみたいに。

 ……それが私の覚え違いであればいいのに、と私は望んでいる。

 そして気がついたら常盤さんはいなくなっていた。あの出産祝いと共に。

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