後日談:1010(1)
私はもちろん人格者ではないので、ムッとすることもあるし、嫌味の一つも言いたくなることはしょっちゅうある。嫌味については頭の回転の問題で概ね言えずに終わるが。
まあそれはともかく。
ただ、激怒というのは珍しい。
私は、今、すごく、怒っている。
おもわず息が荒くなってくる。試合後の力士並みに顔なんて真っ赤だろう。
「何を、言ってるんですか?」
私はその言葉をようやく声にした。あまりにも怒ると声もかすれる。
しかし私のその怒りになど、間違いなく気がついているだろうに、目の前の人は美しい微笑を浮かべたままだった。
常盤美鶴さん。
その名前については私は十五分前に知ったばかりだけど。
多分間違いなく五十歳以上なのにせいぜい四十歳くらいにしか見えない脅威の美貌。若々しくほっそりとしているのに着物がすっきりと似合っている。
「あら、遠まわしすぎたかしら」
かつて見たことのあるバナナが凍る冷ややかさなど想像もできない穏やかさで彼女は言う。あれを知らなければ思わず騙されてしまいそうだ。
「あなたの子どもが生まれたら、うちで……藤織で養育させて頂くわと申し上げたの」
……誰か土俵入りの塩もってこい!
おとといきやがれ、と私はもちろん怒鳴った、心の中で。
マンション近くの小奇麗なカフェで私は彼女と相対している。
彼女は、私の夫である藤織さんの産みの母親様であります。
ああ、そうなんですよね。藤織さん。夫なんですよね。
毎日思わず確認して起きてます。なかなか私のアイデンティティに馴染んでこないのはやっぱり世界が違うからだろうな……。世界が違うのは、大変だよね。異世界召喚物BLの「君は私の后となるため召喚されたのだ」というトンデモ異世界のトンデモ風習のトンデモ王の言葉に主人公は振り回されている。世界に馴染むのは大変である。
でも私、藤織さんの妻という立場よりは、男だけど后のほうがまだしも馴染める気がする。
えーと、四十九日の事件の一年後、藤織さんと再会して、そのまま連行されて、なし崩し的に同棲とかしてしまいました。
恥ずかしい。自分の主体性のなさが恥ずかしい。
「け、結婚はさすがに時期尚早だと思います」と言う言葉をカミカミの状態で言うのが私の精一杯だった。
でもあの勢いの藤織さんを押しとどめ、婚姻届を出すまで一年粘った私の努力はもっと評価されてしかるべきだと思うがどうだろう。
伽耶子さんも紗奈子さんも掛井さんなぜか失笑気味で私を見ていたが。
しかしそれも過去の努力であります。
私立高校教師である藤織さんの長期休暇は学生に合わせて夏休みである。例年、生徒からは蛇蝎のごとく嫌われている夏季補習に藤織さんは異常な執着を見せているのだが(高校の夏休みとは勉強するものだったのか、へえ)、その年は、それを半分他の教師に任せた。なんかその年は三年生の担任じゃなかったというのが大きいようだけど。
彼が最低限の仕事を済ませたお盆すぎ。
どういうわけか、私はモルジブにいた。
なんかその辺よく覚えてない。
商業誌の締め切りを片付けて、大事な祭りの入稿が終わって指先のインクも乾かぬうちに夏コミが終わって、ふーやれやれ、今年も良い御本がどっさりですよウヒヒ、さあ戦利品の鑑賞と行きましょうかね、と一年に二度しかない私のテンションがマックスに到達する瞬間に、藤織さんが、さあ出かけるぞ、と言い出した。
役所によってあれよあれよと言う間に押し切られ、婚姻届を提出してその足で成田空港。よくわからないのですが、藤織さんが私のパスポートを用意していて衝撃だった。もしかしたら偽造だったのかもしれぬと今でも思っている。
まあそんなわけで、大事な戦利品を一ページも開くこともなく、気がついたら、青い空、白いビーチ、エメラルドの海を前に呆然としていたわけです。
そこで二週間ほどグダグダしてから帰ってきた。頭が溶けるかと思うほど堕落していた日々だったが、でも普段気を使わずしてぴしっとしているのがデフォルトの藤織さんも少しぼんやりしているみたいだったので、それはよかったなあと思う。
ご飯食べて海で遊んで釣りして潜って酒飲んで以下ローテーションみたいな。何をしにいったんだと聞かれても、何もしていないですとしか言いようがない。
私は、かろうじてスーツケースに押し込んだ戦利品一冊を高級リゾート地で読むという無駄にセレブな素敵な思い出ができてよかった。よく考えたら税関でとがめられたら大問題になりかねかったな、表紙がおっしゃれーな小説本で良かった。はー冷や汗。
……多分。
私が人並みの結婚式をしたいです、といえば藤織さんは指をぱちんと鳴らして全てのものを用意したんだと思う。でも藤織さんは、誓うべき既存の神を持っていない。
実際藤織さんが、結婚式はどんな形でしたいんだ、とくどいほど私に聞いてきた時期があった。ただ、私にもこうしたいというものがなかったので、藤織さんはこういう形を選んだんだろう。
「……ナベのドレス姿は見たいことは見たい」
藤織さんはぽつりと言ったことがあるけど、そのころはまだ彼もいろいろ悩んでいたのだろう。
そんなに難しく考えなくても、式場に任せていろいろやってしまえというくらいのいい加減さはもちろん藤織さんも持ち合わせているはず。でも私がその背中を押さなかっただけだ。藤織さんが見たいものだけ見せられれば、そこに付随するいろんなわずらわしいことはどうでもいいじゃないかと私も思ってしまったのだ。
私はドレスと言うには質素だけどワンピースと言うには贅沢すぎる白い服を着た。それで二人で夕日を見ながらお酒飲んで、その時にさらっとお互いに指輪を付け合いっこするのはなんだか楽しかったです。はい。ノロケは以上です、すみません。もうここまで読み飛ばしていいくらいですね。終わり終わり!ごめん!
まあそんなわけで、日本に帰ってきて、夫婦として暮らしはじめたわけです。親しい人々が個別にお祝い会をしてくれた。ありがたい。
そして驚いたことに一年たたずして子どもができました。
そりゃそうだ。そういうことというのはそのためにおこなうものであったのだ。
もちろんそういうことをしていたのだ。
なのに、私は最初「……なんでこんなに吐いてばっかりなんだろう」とかぼんやり考えていたのだ。アホか。ググルの検索ワードにノロウイルスとか逆流性食道炎とか食べてもいない牡蠣中毒を叩きこんでしまった。
「もしかしたら悪阻かもしれません、あはは」と言ったら伽耶子さんが究極の冷静さで「それは悪阻じゃないかしら」と指摘してくれたのである。
だよねー。
というわけで、あっという間に伽耶子さんに連行され、ガンダムとかエヴァのコックピットかとおもうようなあの産科の内診台に放り込まれてしまった。もう慣れたけど最初は衝撃体験だった。
ちなみに、伽耶子さんが知ってしまったので、あっという間に藤織さんに知られるところになってしまった。
私の性格的に「こんな私が産んでも……」とか「私に育てられるのだろうか」とか悩むところだったのかもしれないが、あまりにもあっけらかんと純粋に藤織さんが喜んでいるので機を逃してしまったのだった。
だって私の何十倍もある意味で不遇な幼少時代を送っている藤織さんがあんなに楽天的なんだから、私の悩みなど男性の乳首くらいどうでもよい。ちなみにBL的には受けに限り乳首は重要アイテムである、ここ大事。
藤織さんは別になにも悩んでなくて楽天的なんじゃなくって、いろんな葛藤を乗り越えた上でのものだということは一年暮らしてぼちぼちと私もわかってきていた。
私は社会人としてちょっと難があるかもしれない。藤織さんの子ども時代はあまり幸せじゃなかったもしれない。でも、人生と言うものをある一時期だけで語ってしまうのもつまらないような気がする。
藤織さんは宗教も肉親も信じていないけど、この世の良心は信じている。良心というものは、それほど頼り無いものではないのだろう。その正体を友情とか家族愛といってしまうととたんに陳腐になってしまうので、藤織さんは口にしたことはないけど、きっと多分そういうことではないかと思う。
だから、藤織さんが大丈夫だというのならそれは大丈夫なのだ。
なので私も大変リラックスした妊婦でいられた。
ただ、私への気の使い方とマタニティハイっぷりに関しては藤織さんが、かなり大丈夫ではなかったと思う。
淡々とハイなので怖かった。ストレスはそれくらいか……。
名前の候補を絞りきれずに、「僕はなんて決断力がない男だ……」と言った。
藤織さんの泣き言というのは一生にアレ一回だと確信している。ていうか、藤織さんがこれ以上決断力をもってもらっても困るのでこのあたりで勘弁してもらえてよかったと思う。
ということで、とおつきとおか。
もうすぐ臨月な私に降りかかってきたのは、今までの気楽さが吹っ飛ぶようなスーパーストレスだった。




