番外編:47.5
「あのアマ」
「兄さん、下品」
悪かったな。つい口をついて出てしまった。
『前略 藤織様
お金はいつか返します。
立派になったらお礼に伺いますが、すごく時間がかかりそうなので
誰かいい人を早く見つけてください。
ありがとうございました、さようなら。
あと写真は公開しないで下さい、後生です。』
そんな走り書きの手紙を、僕は手の中で握りつぶした。
ナベが病室から逃げ出したのは、退院前日のことだった。なるほど相変わらずいい根性している。
ナベがいないことに気がついた看護師から連絡が来て(何が「病室に御不在なんですが、そちらに戻ってらっしゃいます?」だ!)慌てて病院に駆けつけてみれば、そんな愉快な走り書きを残してナベは失踪していた。
「……」
しんとした個室で、取り残されたアホな兄妹はからっぽのベッドを眺めてしばし無言だ。僕は一度だけため息をついて、さっさとドアに向かった。
「……とりあえず、伽耶子は入院費を清算しておいてくれ、あとで返す」
「兄さんどうするの?」
「連れ戻す。行方を捜すこと自体は大した事じゃないが、なにかあってからでは遅い」
まさかとは思うが、樹海とか東尋坊とかホームセンターとかに行ってないだろうな、あいつ?!
「連れ戻してどうするのー?」
伽耶子の妙な落ち着き加減が気になった。
「伽耶子?」
振り返れば伽耶子も僕をじっと見ていた。
「兄さんが事件の後始末に追われていたころ、渡辺に相談されたわ。『藤織さんから逃げるにはどうしたらいいでしょうか』って」
「はあ?」
あいつ何を言っているんだ?
「私はあんたの独力じゃそれは無理、って答えたけど、なんで渡辺がそんなこと考えているかがそもそもわからなかった。追求してやっと意味がわかったけど、兄さんなら追及なんてしなくたってわかっているんでしょう。それを連れ戻すなんて、いくら心配していたって野暮の極みじゃない?」
頑張ります、とナベは言った。
自分の人生を愛しむことができる人間になりたいということだろうと僕はあの時思ったし、おそらくその解釈は間違っていない。でもその人生に僕は。
「僕が彼女に関わることは、不必要か?」
僕は不要か、とはっきり言えなかった。
「今はいらないんじゃない?まあ渡辺も相当意地張って我慢していると思うけど」
どうして僕は、僕が必要とされたいと願う人に必要とされないんだろう。やはり他人を僕の家になんて入れるんじゃなかった。自分以外の人の気配に慣れ親しむなんて僕らしくもなかったか。
馬鹿馬鹿しいほど晴れている空を切り取る窓を背景に、伽耶子はそこであっさり微笑んだ。
「やあねえ、兄さんらしくもない、そんな顔。高校生を相手にしているのに、何で渡辺のことがわからないの?」
「ナベは高校生じゃない」
「今、思春期なのよ、彼女」
伽耶子はナベがわかるのか?
「高校生の頃に社会生活からちょっとずれちゃったんでしょう?戻ったときには親代わりになって働いていたし。自分って何?とか考える時間はなかったんじゃないかしら。いろんな重荷から解放されてやっと自分自身について向き合えたんでしょ。今になってそんなこと考えるなんて、ご苦労な話だこと。やだやだ疲れる」
「自分の生徒なら微笑ましくニヤニヤ見守れるところだが、あれは僕の女だ。手元から離れるなんて許さない」
「余裕を持ちなさいよ」
伽耶子は呆れたように言った。
「渡辺が、兄さん以外の誰かのところに行くことは、絶対ないんだから」
「ナベが僕を好きだろうと言うことは、もちろん知っている。だがバカが手を出さないとも限らない、いや間違いなくそれはありえる。だってあんなに可愛いんだぞ」
ちょっと見ナベの顔は薄い。特徴らしさはない。でもそれがどれほど整っていて上品かということは、三十秒よくみればわかる。細い顎に切れ長の二重、小さくてつんと尖った鼻とかもう!歯並びの良さと染み一つない白い肌は天性の財産といっていい。
最初、ナベは五秒と人と目をあわせられなかったが、今はちゃんと相手の目を見て会話が出来るんだ。三十秒なんてあっと言う間だ。挨拶は許す、社会生活の基本だからな。でもそれ以上の他人との会話なんて許したくない。本音はせいぜいゴミの曜日についてご近所さんと話すくらいが許せるボーダーラインぎりぎりだ。
「兄さん」
伽耶子が僕からそっと視線をはずした。今「のろけんな」と聞こえた気がするが。
「私を雇いなさい」
「は?」
「渡辺だってバカじゃないから、ちゃんと相談する相手は選んでいるみたいよ。兄さんから自分を匿えるのは、涼宮伽耶子様しかいないって見込んだのよ。この間お願いされちゃった。『藤織さんから私をしばらく逃がしてくれないでしょうか』って。私、今日これで渡辺を拾って、彼女の自立のスタートにちょっと手を貸すわ」
「よくやった、伽耶子。じゃあその時に」
「だから余裕持ちなさいって言ったのよ!」
伽耶子は僕の肩に手を置いた。やれやれ、とばかりに首をふる。
「渡辺の状況については逐一教えてあげるから。だからちょっと彼女を見守ってあげましょう、ね?あんまり追いかけて、私からも逃げちゃったら、いよいよ探すのめんどくさいわよ」
「それは……」
僕は渋った。明日退院したナベを拾ってうちに監禁もとい連れて帰ってその可愛さを愛でる(方法については56通りくらい考えたんだが)という予定にまだ少し未練があったからだ。
でもナベが、もっと自信がもてるというのなら。
僕の庇護など必要なく、まっすぐ立っていたいと願うなら、僕はそれを見守らなければならないだろう。
渡辺多恵だって意地も誇りもあるんだろうから。
「……伽耶子は何が目的だ」
「婚約指輪はメインがダイヤ3カラット以上。脇石には合計1カラットコーンフラワー。どうせ毎日つけるもんじゃないからリングは派手にエタニティ。細かいデザインは私にお任せで。贅沢な指輪作りたーい。結婚指輪についてはゴールドとプラチナのコンビネーション。でも思い切り上品に作ってあげる。以上発注よろしく」
「好きにしろ」
「まいどあり」
あともう一つあるけど、それはその時がきたらでいいわ、と伽耶子は早口に言うと、僕に言い含めるように言った。
「渡辺には、兄さんに私が情報流していることは秘密にしておく。私だって、べつに兄さんが渡辺をさらいたいというのを止めるつもりじゃないのよ」
「止めたってやりたいときにはやるさ」
「そうでした」
兄さんの我慢がもつことを祈るわ、と伽耶子は言った。
ナベが満足するまでにどれほど時間がかかるかはまだ予想が付かない。仕方ないから、ナベが戻ってきた時に甘やかす方法を追加して考えておくことにしよう。
ナベの期限はわからないが、僕の期限はもう決めた。
誰かにちょっかい出されたら、その時点でアウトだ。
そんな時が来たらさぞ不愉快だろう、でも、もうとっとときてしまえばいいのに、などという相反する希望を抱きつつ、僕は伽耶子と一緒にその病室を出た。
おわり




