05
朝起きたら、藤織さんは不在だった。
キッチンのテーブルには、オムレツとサラダとパン、ポットに入ったコーヒーが置いてあった。『よろしければ召し上がってください、藤織』と書かれたメモと共に。
なぜだろう『食え』と書いてあるようにしか見えないのは。やはり字は心を現すというべきか。
ずるずる紐をひっぱって、私はこのマンションの中をうろうろしている。
昨夜、藤織さんが用意してくれた部屋は広かった。私が拉致られたあのアパートがその一室にすっぽり入ってしまうほどには。まあもともとあのアパートがワンルームなわけだから、ワンルームではない一世帯に入ってしまうのは実に道理である。
もしかするとアパート一棟が、このマンションの一世帯になってしまうかもしれないくらいだが。
お宅訪問、としゃれ込んでみたが、他の部屋には全て鍵がかかっていた。用心深い。とりあえず私が動けるのは自室としてあがわれた一室、浴室と手洗い、そしてダイニングキッチンである。十分すぎる。むしろ広くて落ち着かない。衰弱しそうだ、早く、早く、押入れをよこせ……!
こじんまりスペースへの禁断症状に苦しみながら、私はとりあえず朝食を食べ始めた。頂けるものはいただきます。くるもの拒まず。
ところで、妙齢の男女が一つ屋根の下、とあればやはりご期待する方向は一つしかないだろう。私の場合、妙齢の男男のほうがむしろ期待しまくりだが。
昨晩は。
別になにもありません。藤織さんに「それではお先に失礼します」と声を掛けて安らかに眠りました。ふっかふかの羽毛布団である。
間違いなく藤織さんは私を女だと思っていない。私を女扱いするくらいなら、同じカードでもハートのクイーンの方がよほどいい女であろう。ていうかきっと私、UNOだ。絵札なし。
ところでよく考えれば藤織さんは一体何者なのであろうか。
今出かけているのもまったくもって謎である。
そんなわけで、日中はワイドショーを見て、うとうとして結局手に入っていない18禁ボーイズラブゲームのことなど夢見ていた。
それに飽きると、掛井さんと藤織さんの受攻配分を考えたりしていた。(私的にはここが本日の盛り上がり最高潮)
「……さん」
四月とはいえ今日は小雨。なんとなく薄ら寒く、私は身を丸めてリビングでうたた寝中だった。
ゆすぶられたのは夕刻だった。
「渡辺さん、起きて」
むにゃむにゃ起き上がった私は、目の前にいるのが掛井さんだと気がついた。
「本日の結論は、鬼畜攻め藤織×流され受け掛井でお願いします!」
「すごくハキハキしてるんだけど、ちょっと何言われてんのかわからない」
おっと、寝ぼけていた。
掛井さんは相変わらずのスーツ姿だ。きちんとしていらっしゃる。私、昨日と同じジャージですが。
「ごめんね起こして。でもうたた寝しているといくら四月でも風邪ひいちゃうからね」
なんて親切。ごめんね、ごめんね、流され受けなんて言ってごめんね、やっぱり尽くし受けに訂正しておくから!
掛井さんはにこにこしながら立ち上がって、部屋のエアコンを入れた。なるほど、あるのは知っていたが操作方法がわからなかった。
「もう七時半なんだけど、おなか減っていないかい?」
掛井さんは食物の入ったスーパーのビニール袋を私の前に掲げた。そういえば今日は昼も食べていない。
「藤織さんは?」
「まだだよ。ああ、昨日、しばらくの間ってことで、鍵を預かったんだ。藤織さんはきっと遅いから」
「一体彼は何をなさっている方なのですか?」
「うーん、勝手に教えていいのかわからないな。でも3月4月はいつも忙しそうだ」
掛井さんはスーツの上着を脱いで、シャツの袖をまくった。軽くネクタイを緩める。
……いいなあ、スーツっていいなあ。
…………藤織さんが乱暴に掛井さんのシャツを脱がせるシーンが見られたらもう死んでもいいくらいである。
………………て、思っていることが藤織さんにばれたら死ぬ前に殺されるのは間違いない。
「ところで、チキンソテーでいい?あと菜の花の和え物」
「は?」
「いや夕飯」
「夕飯作るんですか?」
「料理が趣味なんだよね。普段は仕事が死ぬほど忙しいし、外食の機会が多いからめったに作れないんだけどね。四十九日までは少し余裕がある生活が出来そうだ」
「その期限はやはり……」
「あの遺言のせい。私を涼宮の後継者にすることを望んでいる人達が、その間は普通の仕事を少し軽減してくれたんだ。まあ具体的には藤織さんの鶴の一声なんだけど」
「あの人、妙に権力ありそうなんですが」
本人はイレギュラーな存在だと自分を評していたが、それだけにチートな能力をもっていそうな気がする。
「権力……うーん、それとはまた違うなあ」
キッチンでは、夕食の準備をはじめている音が聞こえていた。しまった、こんなことなら米くらい炊いておけばよかった。やはり私は生まれついての役立たず。
「あのね、渡辺さん」
妙に真剣な声で、掛井さんが声を掛けてきた。
「藤織さんはああいう言い方しかできないから反発したいかもしれないけど。あまりここから出ないで欲しいんだ」
「どういうことでしょう」
「私に涼宮を託したい人もいるけど、託したくない人もいるんだ。そういう人間が君になんらかの介入をしてくるかもしれない」
「それが私と掛井さんを引き離す、という方向ならむしろ願ったりかなったりなのですが」
「現世と引き離されたくないだろう?」
掛井さんが何かを炒める音がする。
まるで普通の家庭の夕飯時の音のように。話している内容はかけ離れているのだが。
「藤織さんは私に過剰な期待をしているから、こんな強引な手を使っているんだけど、さすがに力任せに君に何かをしたりはしないはずだ。まだマシだよ」
……もしや。
私はさすがに予想していなかったことに目をむいた。
「それって命がけてことですか。下手したら、反対勢力に……」
「ははは、君ははっきり言うねえ。そうだね、殺されちゃったら困るよね」
困るとか困らないとかの問題ではない。ますますもってこのまま引き下がれなくなってきたではないか。
「……あのですね」
聞くか聞くまいか悩んでいる場合ではない。
「結局掛井さんはどうしたいんでしょうか」
炒める音が不自然に止まる。
「何がどうなるにしても、掛井さんの胸先三寸だと思うんですが」
掛井さんが、涼宮を引き継ぎたいなら、遺言どおり『渡辺寧子』を手に入れるのは一番手っ取り早い。その是非はともかく。(プランA)
そうでもないなら、とにかく49日間、藤織さんをごまかせば逃げ切り試合終了だ。私も掛井さんも自由。(プランB)
当社としましては、プランBをオススメいたします。いえAのことは存在すら抹消したいくらいです。
「どうしたいのかなあ」
けれど、掛井さんからの言葉はそんなぼやけたものだ。
「よくわからないんだ。私も」
やはり流され受け決定である。いや、このヘタレ受けがっっ。
「ちょっと考えなければいけないことが多すぎて」
「考えなければならないことって……」
「醤油味と塩コショウのどっちがいい?」
チキンのことか。
私の怒りのこめられた視線を感じ取ったのか、掛井さんは笑いながら慌ててフォローしてきた。
「ごめんごめん、冗談だよ。君には本当に迷惑をかけているとわかっている。これ以上申し訳ない事はできないからね。絶対悪いようにはしない」
まあ世間様への迷惑度合いは掛井さんは私の足元にもおよぶまい。
「ただなあ、藤織さんは強引無比だから、それだけ不安だ……」
やはり私のファーストインプレッションは間違っていなかった。藤織さんが実は、買い物に行って店員に言われるがまま予算の倍の商品を買って帰るような優柔不断さを持っていたらどうしようかと思っていたが。人をみる自分の目を疑わなければならないところだった。
うーむ、とはたから見ていても難しい顔になっていたのだろう、私をなぐさめるように掛井さんは言った。
「藤織さんを止められなかったらごめんね」
謝ればいいものではないと思うのだが。
そんな生活が三日も続いた。
その間、藤織さんとは一度も会わないという摩訶不思議状態だ。私が起きる前に彼は出かけて行って、私が寝てから帰ってくるという状態。つまり私が惰眠をむさぼりすぎと言う話か、いや春だから仕方ない。
バイト先の書店には、がっつり無断欠勤である。
どう考えても「あのバイト、ばっくれやがった」と思われていること間違いない。まあまあホワイトだったので、この働き手不足の折、人道に外れる酷い話である。むろんそんな噂で地に落ちるような自分を持っているわけではない(すでにブラジル付近まで地中にめり込み済み)。ただひたすら申し訳ない。
かといって、連絡しようにも、電話は与えてもらえないのだ。そりゃそうだ、人質に電話を渡してフリートークを許す誘拐犯がどこにいる。でも藤織さんの甘いところは「かける相手がいない」という点に気が付かなかった点である。ククク愚か者め。余に友達などおらぬわ!
バイトにちょっくら休むと言ってくれろ、と藤織さんに頼めばそのくらいのことやってくれそうではある。ついでに新刊コミック買ってきてください、も受けてくれるだろう。しかしBLコミックは買ってきてくれないだろうな……ていうかさすがに頼めない。
ただ藤織さんにそのことをお願いするのは気がひけた。
そもそも忙しすぎて会えないのだから。
それに、彼が私のバイト先にいったら、間違いなく騒ぎになりそうだ。
そんなわけで、無職、ひきこもり、オタクの三冠王だというにの、さらにバイトバックレという新タイトルまで入手してしまった。
父母に申し訳ない気持ちで一杯である。なかなか人生を立て直すのは、難儀なことだ。やれやれ。