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「お疲れさまでした!」
背後から話しかけれられて、私は慌てて振り返った。そこにいたのは、同じアシスタント仲間だった。
「ねえ、聞いたよ」
彼女は明るい顔で言う。
彼女が聞いた私の話については心当たりがあった。どきりとした私に彼女は自分の事のように嬉し気に言った。
「おめでと!」
季節は真夏になっている。
でも、藤織さんと一緒に暮らしていた春の続きじゃない。あれはもう去年の話。あの四十九日の一件からすでに一年たってしまった。なんだか一年以上前の話に感じるが。
病院からの逃亡。あれから私がしたことは。
……とりあえず、滞っていた夏コミの原稿である。
あまりにも進んでなさすぎて、実際取りかかった以降はまさに修羅場であった。よく入稿が間に合ったものだと思う。奇跡だ。半分記憶を失くしつつも夏コミ。その後はW7のオンリー。終わる前から冬コミの新刊考えていた。怒濤の創作で新刊も出せた。我ながら神がかっていた。
斜陽とはいえW7もまだ人気があり、全身全霊で作った同人誌で私はなんとかまとまったお金を手にることができた。それで新しくアパートを借りて、一人暮らしを始めることができたのである。それまではなんと伽耶子さん経由で涼宮家の持ちマンションに匿ってもらっていた。さすがに二度も伽耶子さんのマンションに隠れて実は藤織さんに居場所バレバレなどという愚をおかす私でもない。最初はしぶっていた伽耶子さんだが、私の心意気を理解してもらい、藤織さんに秘密にしてもらっている。
伽耶子さんにお願いしてよかった。
しかし藤織兄妹双方に、迷惑をかけたなど、おそらく私ぐらいなものであろう。稀少種としてレッドデータブックに載ってもいい。
一人暮らしを始めたところで、私は同人仲間のつてをたどって、商業作家のアシスタントの口を手に入れることができた。一つだけでは食べていけないのでいくつか掛け持ちではあるが。
それとは別に、売れないなあと思っていたオリジナルのBLマンガは描き続けている。
最近ちょこっと売れるようになってきてうれしい。
退院後どうしようもなくて伽耶子さんに借りていたお金も最近やっと返し終わった。
アシスタントの仕事はそれなりに充実している。ヤングアダルト向けでちょこっとグロ入りの伝奇マンガ描いている先生と、先日ドラマ化した原作を書いた少女マンガ家さんと、もう問答無用男性向けエロマンガさんのかけもちである。
伝奇作家さんはダークな作風にも関わらず若くてイケメンである。少女マンガ家さんはリリカルな表現に定評がある方だが実はものすごくガタイのいいあんちゃんだったり。エロ漫画家さんに至っては小柄できゃしゃな女の子なんだからみんな作風と自身は一致しないものだなあと勉強になった。
今日も伝奇作家さんの月刊誌締め切りが終わり、よれよれで彼の仕事場を辞したところだった。同じようにボロボロなアシ仲間の子と並んで歩く。
「先生は?」
「お風呂入って寝るっていってました」
なんだか空がきれいだ。一瞬、朝焼けか夕焼けかわからなかったけど、人の往来で夕方だと気がつく。
「今回も大変だったね。先生さあ、こだわりすごいもん」
アシ仲間の彼女の声にも眠さがぎっしりである。
「それより、おめでとう。ごめん気がつかなくて。雑誌に載ったんでしょう」
「え、えと……ありがとう」
素直に裏表なく褒められてたいへんこそばゆい。が、一応真実である。
先日BL系のマンガ雑誌に私のマンガが載った。ほんの十二ページの掌編ではあったけれど、私の描きたいものをつめこめたので、私としては満足だ。もちろん技量不足もはなはだしいので、もっとうまくなりたいとは思うけど。
「よかったね、連載も決まったっていうし。おめでと!あー、私もがんばらなきゃな」
努力友情勝利な少年マンガを目指している彼女は、電車の時間があるから、と言って走っていってしまった。
そんな彼女の後ろ姿をみながら私は不思議に思う。ずっとあちこちバイトとかしてきて。それでもさっぱり知り合いらしい知り合いもできなかったけど、なぜか今、私の世界もちょっとずつ広がっている。
寧ちゃんが結婚するって知ったとき、これでお役目ごめんなんだなとか……ネガティブに、それなのに自分では潔いつもりで決めていたことが嘘みたいだ。
結局それは私が一人でできた変化じゃない。
朱色の風景の中を私はのんびり歩き始めた。
藤織さんには、あれから一度も連絡をとっていない。入院費とか、一ヶ月分の飲食代とか、具体的な数字はわからないけど、なんとか余裕をみて送金している。でも私がいる場所は秘密だ。伽耶子さんにもそれだけは言わないでとお願いしている。
なんていうのか……私が藤織さんの横にいるのはどうも適当だとは思えないのだ。たとえば女顔攻め、それはまあありだと思う。でもその受けとしてけむくじゃらマッチョとかだったらなんとなく困る。BLの作法的にいかがなものかと。いや、ありだけど個人的にはちょっと…それと同じような違和感が、私が藤織さんとおつきあいするとかそんなことを考えたときに感じるのだ。
そして藤織さんからも連絡はない。
「多恵ちゃん!」
突然後ろから声をかけられた。振り返ると先ほど担当さんに滝のような冷や汗をかかせたあげく、締め切りはハンパなくすぎてやっと原稿を完成させた伝奇作家様が息を切らせてたっていた。
「先生どうしたんですか。あ、お疲れさまでした」
「お手伝いありがとうございま、じゃなくて!」
先生はその端正な顔を不満そうに歪めていった。藤織さんほどではないがこの方もハンサムだ。惜しむらくはまだ私と同じ年なので、ちと深みが足りないと言うべきか。しかし実は担当さんが攻めで伝奇作家様が受けなら、それはそれで当方不満は何一つございません。年齢など些細。
「ひどいよ、電話している間に帰っちゃうなんて」
「後片づけは他の方がやってくださるということでしたので。すみません、お言葉に甘えてしまいました」
「いや、それはそうなんだけど」
伝奇作家様はようやく整った息で言った。
「ほら、前に一緒にご飯食べようっていったじゃん」
「はい、今日も昨日も一昨日もみんなで一緒にホカ弁と牛丼とマックを食べました。ごちそうさまです」
「いや、そういうのじゃなく」
困惑したように先生は一瞬言葉を探す。私が駅に向かう足にあわせてゆっくり歩き始めた。私と一緒に散歩している暇があれば、早く帰って寝た方がよいのではと思うが……。
「ていうかですね」
思い切ったように先生は告げた。
「多恵ちゃん、好きな人とかいるの?」
「います」
「即答?!」
先生はあきらかにがっくりした顔で……でも突っ込みは忘れない。ダークなマンガ描いているが実は一言一言が愉快な方なのである。
「あ、そーう。いるのかあ。つきあってるの?彼氏?」
「違います。でも超大好きなんです。他の男の人には興味ないです。もちろん世の男性諸氏も私ごときに興味などもたれないでしょうが」
「アニメのキャラ、じゃない?」
「いいえもちろん現実の人です。まあW7のキャラ以上ですね。あれ以上の人いません」
「うん、すごく俺今、精神的に惨殺された!」
私がこよなくW7を愛しているとご存じの先生は、私のその一言で、どれほどの人物かを見抜いてしまったらしい。
駅まで行ってそこで私を見送ることにした先生は、どこか懲りなさを含んだ声であっけらかんと続けた。
「まあ、多恵ちゃんにとってのW7を越えている時点で、人としてむしろどうなのと思うので、俺は現実の男として努力します」
うーむ。藤織さんが実在の人物だとさっぱり信じられていない。
……まてよ、それが正しかったらどうしよう!?
まさか彼は私の脳内妄想じゃないだろうな、と一瞬不安になって、でも次の瞬間それはないと再認する。
あの葡萄の味を私は覚えているからだ。
じゃあね、といって道を引き返してく伝奇作家様を私も見送って、私は切符を買おうとした。
藤織さんは妄想ではない。だって彼がいなければ私は変われなかった。
藤織さんと会えたことは私の最大の幸運。
だがちょっぴりの不幸でもあるのかなと思う。
高校時代につきあった(つもりだった)彼氏とは、ずっと片思いがつらくて、そして好きであったことを後悔した。
藤織さんとは絶対につりあわないとわかっているし、もうお目にかかることさえないだろうけど。でもこの好きだなあと思う気持ちに、切なさはあっても後悔や苦しさはまったくない。藤織さんを好きになれてよかったと思うばかりだ。だから他の人とかそういうのはあまり考えられない。
……まあ正直いって伝奇作家様の意図はわかっているのだけど、そういうんじゃないのだ。あれだけはっきり言えば、私としては上出来だろう。仕事切られたら次のアシ先は女性漫画家さんにしよう。
藤織さんのきれいな手を思い出す。
あと、あの容赦ない罵倒と、揺らぎない自信と、臆することのない態度。
そして、彼の。
すべて私の手の届く範囲のものではないが、でも他の人だって星とか手に届かないものを愛してるじゃないか。
すごく大事な記憶をきれいに磨いて、それで記憶の引き出しにしまって、私は改札に向かった。
私と彼の49日間は、そんなハッピーエンドでおしまい。
の、はずだが。
「しけた電車で通っているのね」
「伽耶子さん?」
ふと顔をあげると、目の前に伽耶子さんがいた。締め切りの連続で会うのは久しぶりである。しかしなぜ伽耶子さんがこのしけた山手線沿いに?(伽耶子さんにとってしけてないのは、エアフォース・ワンくらいじゃないかと言う気もするが)
「もうしびれきらしちゃった。言っとくけど私は『もうちょっと待ってあげたら?』って進言したのよ」
周囲の連中を圧倒する美貌で伽耶子さんは微笑む。徹夜明けの目にはまぶしすぎるくらいである。私の手をつかんだ伽耶子さんは楽しそうだった。まさかこの話は百合展開で終わりなのであろうか?
伽耶子さんは、改札前の混雑もものともせず、私を道路に引きずっていく。その先に見たものに、私は本気で逃げだそうとした。
見覚えのあるぴかぴかの赤い高級車。その脇に立ってにこやかに微笑むのは、紗奈子さんである。
「はいこれ招待状」
紗奈子さんは、特殊紙フルカラー金箔加工ありの封筒を私のバッグに押し込んだ。
「寧子ちゃんと一緒に来てね、私と掛井の結婚式」
「おめでとうございます!しかし本日はこれにて失礼仕りたいと思う所存です!」
紗奈子さんは恭しく助手席のドアを開ける。
「勘弁してください」
「それは私じゃなくて兄さんにお願いしなさいねー」
伽耶子さんと紗奈子さん、二人掛かりで車の中に放り込まれた。風圧でふっとびそうな勢いでドアを閉めると伽耶子さんは手を振って笑う。脇には紗奈子さんがいて同じく、きらきらした笑顔だ。正面のラブコメ背後のホラーという気がする。間髪いれずにがちゃと不吉な音を立ててしまったドアの鍵は、びくともしない。
ゆるゆると動き出した車の運転席からは、懐かしい声が。
「さて、僕の忍耐力も限界な件についてだが」
怖くて振り返れない。




