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ずっと、考えていたことがある。
なんで私は生きているんだろう。
そんなことだ。
どれほど寧ちゃんの力になれるように頑張っても、それは消えなかった。私は渡辺玲子さんのことが嫌いではなかった。父も好きだった。でもくだらないわがままは取り消せなくて、二人は帰ってこないのだ。
私なんて死んでしまえばいいのにと思いながら、それでも死ぬのは怖かったから、寧ちゃんを守らなければなんていう動機付けをして生き延びてきたわけである。本当は、寧ちゃんが私みたいなダメ人間だったらよかったと思うくらいだ。でも寧ちゃんは優しくて優秀で思いやりがあったから、私に負担をかけているのが苦しくて、あっさり高偏差値の大学を卒業して研究者として一流企業に勤めて、結婚までしてしまった。
そんなわけで、寧ちゃんをフリッツさんに引渡した時点で、別に私がおめおめ生きていなければいけない理由はなかったわけである。
人生の目的として掲げた錦の御旗も擦り切れた。
でも、その終わりで、藤織さんとか伽耶子さんとか、面白い人達にあって、やっぱりちょっと死ぬのは怖いなあとかつまんないなあとか、未練が出来てしまった。
だから。
うん、だからこれはちょうどいい機会だ。
目の端に光ったものに気がついた瞬間、私はとっさに飛び出していた。
彼が藤織さんを狙った理由はわからない。一番近くにいて、この場を仕切っていたからじゃないかと思う。背中も向けていたし。まあそんなことはどうでもいい。
藤織さんの前に立って、彼を突き飛ばそうとしたけど、そもそもドンくさい私にそんなカッコいいことが出来るわけも無い。ただ、まあ。
盾にはなれたようなので、よかった。
「ナベ!」
息が詰まるような藤織さんの声と、伽耶子さんの悲鳴が聞こえた。
包丁で親子丼の鶏肉を切っていたときのことを思い出す。あの肉と繊維を断ち切る感触。それが自分の中で起きていた。
ふらっと一歩下がると、藤織さんが反射としかいいようのない素早さで、後ろから私を支えた。
「この馬鹿!」
伽耶子さんがすっとんできて、呆然としているその男を蹴り飛ばした。そのうえ、馬乗りになってタコ殴りだ、なんて漢らしい。いや、やりすぎっす、と思ったけど止める余裕が私に無い。
「うわ……」
痛いとか、そんなことはまだ感じなかった。刃渡り五センチくらいだろうか、そんなに大きくないナイフだけど、それがぶっすり私に刺さっていた。ちょうど右の胸の下辺り。目を下ろすとそれが見えてしまって私は慌てて目をそらす。こちとら採血注射だって直視できないヘタレである。
ぺたんと冷たい床上に転がりそうになるのを、支えた藤織さんがゆっくり座らせる。
「おい、ナベ」
まだ痛くはない。
でも、怖い。
じわじわ服に染みてくる自分の血の赤さこそ、恐怖だ。
「伽耶子、救急車!」
「もう電話かけてる!」
なんて声が。
「ナベ、大丈夫だ」
藤織さんが後ろから声をかけてくれた。大丈夫か、じゃないところが藤織さんの機転だなあとか。
いろいろ切れ切れだった。
「藤織さん」
息を吸い込むと、激痛が走った。そこで言葉が出なくなる。
「後で聞くから今話すな」
後か。
あとってあるのだろうか。
あっ、どうしよう。
とっさには浮かばなかったことに気がついて、それこそ血の気がひいた。
藤織さんを庇った形だから、藤織さんが責任を感じてしまうかもしれない。私みたいに、このあと悩んじゃったら困る。困る困るヤバイ。私と違って藤織さんにはまったく責任はないが、優しいから絶対気にする。間違いない。
私も本物のアホである。カードから生き物にランクアップ、なんて能天気に喜んでいなければよかった。道具のままでいれば、藤織さんも気にしなかったかもしれない。
血と一緒に力まで抜けていくような気がするけど、一生懸命言葉を探した。何を言ったら藤織さんは「やれやれ、面倒なことに巻き込まれて実に災難だった」で済ませることができるだろう。
そうだ。『納得してます』これでいい。
私はようやくまとまった言葉を口にしようとした。でも。
「藤織さん」
「暴れるな!」
言われて、自分がもがいていることに気がついた。それを抱え込むようにして背後から藤織さんが一生懸命私を押さえ込んでいた。
「怖いです」
私の口から出てきたのはそんな本音だった。正真正銘の今の気持ちだ。バカバカ、私のバカ。それを言ってどうする。
「死ぬのって怖いよう」
そんなわけで、私は最後まで、やっぱりヘタレ全開だった。
目が覚めて気がついたのは、まず寧ちゃんの号泣だった。
そして私に殴りかかってくる寧ちゃんを必死に止めているフリッツさん。
「わあー多恵ちゃんのばかーあああー」
身動きしようとして胸が痛み、看護師さんにとめられた。
どうやら病院の集中治療室らしい。なんだか計器が非常ににぎやかだ。
そしてようやくここにいたる経緯を思い出す。
……うーむ、今までろくに病院にいったこともなかったのに、わずか一ヶ月強で二回も入院してしまった。
寧ちゃんは猛烈に怒っているし、フリッツさんも泣きそうだし……結局二人にばらすまいとした様々な事はなんとか秘密にできたものの、バカ大学生に姉刺される、という方向ではもはやフォロー出来ず心配させてしまった。
結論としては、あの時死んだなと思ったが、どっこい死ななかったという話だ。
かっこ悪い事この上ない。読者アンケートのおかげで生き返っちゃった美形悪役くらい、気まずい。
限られた時間で、少しだけ寧ちゃんと話せた。寧ちゃんは泣きすぎて枯れてしまった声で問う。
「たっ多恵ちゃ、いつもなんにも言ってくれなくて……」
「ごめん、寧ちゃん」
ああ、新婚旅行に行くのに、心配かけてしまった。
「旅行なんていいよ!多恵ちゃんが元気になるまでいる!」
「向こうで仕事があるんでしょう」
「だって、多恵ちゃん」
寧ちゃんは鼻をすすり上げながらいった。
「今まで多恵ちゃんに寄りかかっていたから、私……」
寧ちゃんは一度言葉を切って、それから私の目をまっすぐに見た。そこにある光に驚く、それは私が持つものと同じだ。
罪悪感。
「多恵ちゃん、お父さんとお母さんが死んだのは自分のせいだと思っているよね」
私は目をそらすことができない。
「多恵ちゃんの様子があれからおかしくなったから、なんとなく想像ついたんだ」
「……ごめん」
それしか言えることがない。
そうか。気がついていたのか。そりゃそうであろう。あれだけ両親の死亡前と後で様子が違えば、ある程度は気がつく、か。
私はようやく、あの日にあったことを、彼女に話すことが出来た。もっと言葉に詰まるかとも思ったけれど、それはわりとあっさり言葉になったのだ。一回藤織さんに話したからではないかと思う。そうじゃなければ何から話したらいいのかもわからなかった。
「わたしの方こそごめんなさい」
断罪を待つ私に、寧ちゃんは血を吐くようにそう告げた。
「多恵ちゃんがずっと苦しい思いをしているのも私見てきたから。責められない。私こそ、その多恵ちゃんに甘えて、大学まで出してもらって……一度も多恵ちゃんの気持ちを聞いてもあげなかった」
時間切れだと示すように、看護師さんが近寄ってきた。
「ごめん」
私達は、仲がいいようで結局なにも語ってこなかったんだなあ、と思った。寧ちゃんも気がついていないふりは大変だったろうに。
誰もが藤織さんのように自分の感情を制御できるわけではない。寧ちゃんが私を好きな事は知っている。でもそれとは別に寧ちゃんは事実を知って私を恨むかもしれない。私はそれが怖かった。でも等しく寧ちゃんもそれが怖かったのか。恨むことも恨まれることも、自分自身ではどうにもならない感情で……知らないでいられるのならそれに越したことはない。
寧ちゃんがもし、私を許すとしても、それは別に私の今まで贖罪のせいじゃない。ただ、時間の経過だけが成しえたことだと思う。なんていうか、今となってはもう憎まれてもいいや、とか思うのだが、それでも寧ちゃんが誰かを憎むことなく心穏やかでいられるのなら、それはそれで『時間』というものに、私は心の底から感謝する。
「寧ちゃん、ありがとう」
私は疲れてそれだけ言うのがやっとだった。
「あ、あのさ、多恵ちゃんが退院するまで私が面倒見るから!」
「大丈夫だよ」
私は彼女を見つめる。
「だって、私ばっかり面倒かけっぱなしで……」
面倒なんて何一つなかったのだが。
寧ちゃんにして欲しいことが今あるとしたら、夏コミ用原稿の手伝いくらいだ。いや、ダメだ、彼女に局部のトーン処理をしてもらうわけにはいかない、白抜きもさせられない。寧ちゃんにあの原稿を見せるくらいなら落とす。
断っても断っても予定をずらすという寧ちゃんに、私は仕方なく言った。
「大丈夫、寧ちゃんにフリッツさんがいるように、私にも藤織さんがいるから」
でも、予想外に藤織さんはさっぱり顔を見せなかった。




