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さて、いかに私が虫のごとき存在であっても、それなりに人語は解するので、なにかできることはあるはずだ。
藤織さんがどれほど私に対して本気であると、妄想抱いていようとも(私は何の暗示もかけた覚えはないのだが、まあ頭いい人の考えることはわからん)、この先どうなるかなどまったくわかったものではない。ただ、私が思うのは、紗奈子さんが少しでも掛井さんを好きかもしれないなら、やはりその真意を問うてみたいということだ。
三十七に二十二は率直言ってそれはないと思う。思うが、だったら奇跡と言う言葉はなんのためにある!という心意気でねばってみようと思うのだ。
しかし先日伽耶子さんが言っていたように、今紗奈子さんとは不思議な事に誰も連絡とれない状況である。時々一方的に伽耶子さん宛てに無事を知らせるメールが来たり、電話で話をしたりするそうだが、伽耶子さんがかけても出ないことが多いという。
すごく忙しいようだと言っていた。
でも。
「紗奈子さんちも……立派ですね……」
私は横の掛井さんに呟くように言ってみた。
「このくらいで驚いていたら、涼宮本家なんていったら世界遺産「かと思うよ?」
本日掛井さんといっしょに訪れたのは、紗奈子さんが住んでいるマンションだ。さすが政治家のお嬢様である。藤織さんや伽耶子さんのマンションよりこじんまりとはしているが、セキュリティはしっかりしていそうである。
おかしい、私がいきなりひっかかるべきトラップはどこだ。落とし穴とか針の壁とか……不法侵入者にはそれ相応のファラオの呪いが。
「おや、こんにちは」
入り口の警備員さんが、掛井さんを見て愛想よく声をかけてきた。
「涼宮さん、まだ帰ってきていないみたいだよ」
「そうですよねえ」
掛井さんは警備員さんと顔見知りのようだ。
とりあえず、ロビーのインターホンで紗奈子さんの部屋に呼びかけてみることにした。掛井さんが何度も呼びかけるが、応答はない。
「帰ってないんですね」
掛井さんが残念そうに、でもどこか安堵したように言った。
掛井さんは紗奈子さんを心配しつつ、それでも再会することを恐れているんだろう。どこか及び腰なのは私にも見えている。
……まあこの人も、相当食わせ者なんだろう、やれやれ。
「掛井さん、暗証番号」
「は?」
「紗奈子さんの住んでいるフロアに入るための、ここのセキュリティの番号」
「し、知りません」
「そんなことないでしょう」
私は掛井さんに詰め寄った。
「だって、警備員さんに顔覚えられているんですよ。よほどここに足しげく通っていたんじゃないんですか?それも紗奈子さんも一緒に」
「なんで、そんな」
「そうじゃなきゃ、あんなに警備員さんが親切なはずないじゃないですか」
掛井さんは一瞬私から視線をそらした。
「掛井さん、実際の関係については、微妙にはぐらかしていたけど、別に掛井さんの片思いってわけじゃなかったんですよね?」
「い、いや俺はただ、紗奈子さんに一方的にいかがわしい感情を」
「片思いだったのは」
「……私のほうです」
私の掛井さんへの追及をとめたのは、背後からの若い女性の声だった。
はじめまして、の、涼宮紗奈子さん、である。
涼宮紗奈子嬢は伽耶子さんに比べて、確かに華やかさでは劣る。けれど、シャープな印象を持つ黒髪のショートカットの美人だった。
マンション前での私と掛井さんの口論を止めたのは、彼女自身だった。
彼女と連絡がとれない。
それは伽耶子さんの電話での印象と、掛井さんの報告でしかなかったのだ。伽耶子さんは紗奈子さんを信用しているから、わざわざここまで見に来たりはしない。藤織さんは掛井さんを信用しているからその報告は信じている。
……紗奈子さんは普通にずっとここにいたのだ。
マンションの上階。あげてもらった紗奈子さんの部屋は、きちんと生活しているうえでの整然とした雰囲気が満ちていた。
「はじめまして。渡辺寧子……じゃなくて、あなたはお姉さんの多恵さんだったのよね」
しかも紗奈子さんは事態を把握している。私は横に座った掛井さんを見つめた。
「ダダ漏れじゃないですか、状況」
ロリでヘタレだと思っていた掛井さんは、一応顔だけは申し訳なさそうにして言った。
「ごめんね」
棒読み極まれり。こっちの事情は全部紗奈子さんに筒抜けであったようだ。
「私が寧子を守らないとと思っていたように、掛井さんは、紗奈子さんを守りたかったんですか」
「違うんです」
紗奈子さんは一応私が年上ということを知っているためか、丁寧に私に呼びかけてきた。
「掛井は私の王子様だから」
綺麗な色をした冷やし緑茶を出してくれながら紗奈子さんは掛井さんの代わりに答えた。
「私が掛井を守りたかった」
え、ちょっと待って、今のところストップ&巻き戻し。
「王子様?」
そんなことをつっこんできた私に紗奈子さんはちょっと唖然としたけど、その後恥ずかしそうに笑った。
「お姉ちゃんもお兄さんも両親も、誰も掛井のほんとの力なんて見えてないんです。真面目で誠実、それしか言わない。それだけじゃ政治家に向いてないってわかっているのに。それじゃ掛井が可哀そう。涼宮の連中は掛井を食いつぶしても惜しくないみたいに考えているし。みんな勝手に相手を決められた私のことは気の毒に思うけど、私は別に何一つ困ることなんてない。勝手に決められたのは、掛井だって同じなのに」
紗奈子さんは、掛井さんを見つめる。
「まあ、確かに、私が大学生になって丸三年、なんだかんだでしょっちゅうここに来て、しかも私が全力をもって迫っても、びくともしないのを誠実というか不能と呼ぶかは微妙だけど」
「そんなことできるわけないでしょうが!一体俺と紗奈子さん、年いくつ離れていると思うんですか」
「うるっさいわね」
紗奈子さんはきついひとことだ。
「年の差なんて埋めようがないんだから、それじゃいつまでたっても進まないじゃない!いつまで私に処女でいろっつーの!」
「俺はそんな言葉を吐くお嬢さんに育てたつもりはありません。しかも高校生のとき、彼氏がいたことはちゃんと俺も知っているんですからね」
「無言で見てないで嫉妬ぐらいすれば?」
あーもー、どうせ痴話喧嘩目の当たりにするなら、せめて美青年同士にしてほしいものである。
「ともかく私は掛井と今結婚するのはどうかと思っていたから、あなたが渡辺寧子じゃないとわかるまで、兄さんに捕まりたくなかった。兄さんはあなたを好きなんでしょう?だったら絶対自分の自由のためにって私を掛井の嫁にすると思っていたし。その展開になったとき、自分がこの先の涼宮に挑む勝負に、有利に働くか不利に働くかわからなくて」
「あのですね、紗奈子さん。それじゃ紗奈子さんは、掛井さんの嫁にされるのが嫌で逃げていたわけじゃないんですね?」
「嫁にしてもらえるなら、ほんとは明日にでも嫁ぎたい幼な妻」
「紗奈子さん、幼な妻は高校生が上限です」
掛井さんは本当はやっぱりロリ趣味なんじゃ……?実はすごく謎の人である……。
「私が腹を立てていたのは、あの腐れ遺言の方よ。ジジイめ」
他にどこが腹の立つポイントだったんだろうか。
「『掛井が涼宮の地盤を継ぐ条件として、涼宮の女と結婚するべし』」
苦々しげに紗奈子さんは続ける。
「この国最高偏差値の大学の法学部に通い、当面の目標は警察庁国家一種、ある程度まで出世したら、政治家に転身して、ちゃんと涼宮を継ぐって私は言ったのに」
紗奈子さんの声は、静かではあるけれど、何かに対して心底憤っていた。
「どうして涼宮の連中は、男に拘っているのか私にはさっぱりわからない」
え。
紗奈子さん、涼宮を継ぐ意思があるのか?
「掛井!」
「はい!」
掛井さんは真顔でうなづいた。
「いい、私は十年以内にあのドアホの涼宮の年寄りを全員黙らせる。そして私が絶対あそこの後を引き継ぐわ。男がどうとか二世議員がどうとか、とにかく私が涼宮を継ぐという夢を邪魔する連中は許さない」
掛井さんじゃなくて、自分が政治家やりたかったのか、紗奈子さん!
「私が姿をくらましていたのは、それだけの覚悟が自分にあるかってことの確認と、いざって言う時味方になってくれそうな年寄りを説得していたから。時間がかかってしまったけど、その間に渡辺寧子が結婚してくれたし、結果的には悪くなかった。あと、自分の中で結論が出たんです。絶対負けない。とりあえず今は一歩引いて遺言に従ったふりをして掛井と結婚します。そうすれば掛井がやるというのは大前提。でも掛井にやる気はない。こっそり私が継ぐ足固めをします」
伽耶子さんのように、人を圧倒する華やかさとかは確かにまだ見受けられない。でもこの人は、淡々と自分の願うことのために地固めしていくことが出来る人だ。地味だけどその確実な仕事っぷりは、なんというか。
藤織さんがいっていた「紗奈子は優しいから」という印象ががらりと覆る。伽耶子さんを見て、藤織さんに良く似た妹だな……と思っていたけど、むしろその内面がそっくりなのは、こっちの妹の方だったんじゃないだろうか。藤織さんの一歩間違ったら粘着、くらいな段取りのよさが恐ろしい。その本性の見事な隠蔽っぷりは藤織さんに生き写しだ。
あの三兄妹、みんな少しずつ違っているけど、少しずつ似ている。どちらにしても、周囲が迷惑なくらいの才能を持ち合わせていることは変わりない。
そのはた迷惑さを噛み締めていた私に、紗奈子さんはしみじみ言った。
「で、今なら言える。私以上に涼宮継ぐのに相応しい人間なんていない。雑魚はひっこめ!」
この言葉。すっごいデジャビュである。




