36
だけど、と藤織さんの中には困惑もある。
「お前、あのアパートで電話にでたとき、相手と『ねーちゃん』と……」
藤織さんは言いかけてやめた。
「『寧ちゃん』か」
そう呟いて、諦めたように言った。
「お前、渡辺寧子の姉か」
藤織さんの言葉は苦い。
そもそもは私が寧ちゃんのアパートにいたことから始まる。
私は、会社がなくなって失職、寧ちゃんは、結婚に伴って退職。そんな状況だった。
私に至っては、会社の寮にいたので、自動的に住む場所も失ってしまったというわけである。
ただ、寧ちゃんは米国で次の仕事が決まっていて、あっちに行って手続きがあった。
『多恵ちゃん、お金ないでしょう。よかったら、私のうちにおいでよ。私も結婚したら引き払っちゃうけど、それまでは家賃の節約になるよ。私はアメリカかフリッツの家にいることが多いから、留守番いてくれると安心』
やったね、と転がり込みにいったダメな姉であった。
で、寧ちゃんがいない間に、藤織さん登場となったわけだ。寧ちゃんの家なんだから、そりゃ渡辺寧子あてのダイレクトメールも来るだろう。
藤織さんが勘違いしていることはわかったけど、もし、寧ちゃんがヤバイことに巻き込まれそうになっているのだとすれば、私はそれを放置するわけにはいかなかった。
アパート戻った時、殺されかかる程度には大問題とわかって、もう引っ込みつかなくなったわけである。
私には。
渡辺寧子だけは絶対守らなければいけない義務がある。
「なんで、渡辺寧子のふりをしていた?」
藤織さんは調子を取り戻したかのように淡々と尋ねてくる。どこまで正直答えたものか悩みながら私は迷う。
本当のことを言ったら、私が心底外道なことがばれてしまうからだ。
「一度だけ、藤織さんに言いましたよね。『私にだって守りたいくらい愛しい人がいる』って。それが渡辺寧子なだけです」
それが怖くてこんな綺麗な説明しか出来ない私はとことん卑怯者だ。
「……妹は、結婚することになっていました。会社の人達には退職理由をあまり言わなかったみたいだから、それを知っているのはわずかだったと思います。寧子もその御主人もしっかりした人だから、企業の守秘義務は守ると思いますが研究者同士で、しかも同業者で結婚するのは、言いにくかったんでしょうね。いろいろ調べたと思いますが、藤織さんもご存知なかったかもしれません」
親族も少ないから、寧ちゃんの結婚予定を知っているものが少なかったのが幸いした。もちろん藤織さんがしっかり調べればわかったかもしれないけど、遺言が明らかになってから、そんな時間の余裕がなかったんだろう。
「妹が結婚しようとしているのに、そんなくだらないトラブルに巻き込みたくなかったんです」
「自分が死に掛けたのに?」
「なおさらです」
「じゃあなんで、今日になっていきなり素直に……」
言いかけた藤織さんは多分気がついたのだろう、一瞬だけ悔しそうに目を伏せた。
「渡辺寧子とフリッツ・ディーゼルマン氏は昨日入籍しました。どうしても妹は、両親の命日に入籍したいって言ったんです。早くすればよかったのに」
「仮に、こちらがなんらかの圧力をかけて、今日離婚させたとしても」
民法733条、再婚禁止期間。
一度婚姻届を出してしまった以上、仮に今離婚しても、六ヶ月間、寧ちゃんは再婚できない。だから今となっては四十九日のルールにはもう間に合わないのだ。藤織さんが寧ちゃんに何かしても、それは意味を成さない。
「……だから逃げなかったんだな」
「私が逃げれば藤織さんは、渡辺寧子を探すでしょう。そしたら私が渡辺多恵で、寧子が別にいるということがばれてしまうかもしれないじゃないですか。ディーゼルマン氏はドイツ人、これからの二人はアメリカに在住。いくら藤織さんでもそうそう手を出せる相手じゃないですよね。とにかく入籍までなんとかごまかしたかったんです」
渡辺寧子だと思っているのなら、そこにいたほうが藤織さんは動かなくなる。だから私はあのマンションに存在し、藤織さんをひきつけていた。
寧ちゃんが入籍した今、やっと言えた。
「……もうばらしていいのか?」
「かまいません、終わりですから」
私がいった時、藤織さんははじめて見る顔になった。
私が彼を……傷つけた?
………………は、まさか。
「だって私、寧子の無事さえ確認できれば、別に藤織さんと一緒にいなくてもいいんです。もう同居も終わりでいいんです。およそ一ヶ月間、楽しかったです。藤織さんには親切にして頂きました。掛井さんもいい人だし、伽耶子さんも私は好きです。でもそれだけです。どうもありがとうございました」
藤織さんが作っていた拳が開かれた。
ああ、ぶたれるかも、と目を伏せたときだった。
「多恵ちゃん!」
この場にはあまりにもふさわしくない、明るい声がした。店のほうを振り返ると、先ほどまでのウェディングドレスから普通よりすこし華やかなワンピースに着替えた寧ちゃんが出てくるところだった。
「今日はありがとねー!忙しくってお礼いうの今になっちゃった、ごめん」
そこまで言ったとき、花の生垣に隠れていた藤織さんを彼女は発見したようだった。
「あれ?こちらの方は……」
「なんでもない、ちょっと知り合い。藤織さん」
「えっ、まさか彼氏とか?すっごいかっこいいよ、多恵ちゃんがこんな人と知り合いなんて知らなかったー!」
「まさか」
私は藤織さんに笑いかけた。
「妹です」
寧ちゃんが、御主人を惚れさせ、私を救い続けてきたあの笑顔を藤織さんに向ける。
「妹の渡辺寧子です、はじめまして!」
彼女が、高学歴で、友人上司の信頼厚く、パット特盛りの貧乳で、涼宮の血を持つ、御年24歳、藤織さんの正真正銘従姉妹だ。
「……はじめまして」
藤織さんはそれでもなにか諦めたのか、余計な事はなにも言わず軽く頭を下げた。
「どうも姉がお世話になってます」
寧ちゃんはまだ若い。でも私よりずっとしっかりしている。
「多恵ちゃん、わりと人見知りするし、仕事以外で家から出たがらないから、心配していたんです。でもこんな素敵な人がいるならって少し安心しました。私のことは心配していろいろ聞くくせに自分のこと、なんにも話さないんだもん。そっかー、最近アパートにもいなくてどこいっているのかなって思った」
心配してたんだよ、と寧ちゃんは私を睨んだ。
「藤織さんちにいたんでしょー。そうじゃなきゃ、私があれほど言って変わらなかったのに、こんなに多恵ちゃんが綺麗になるなんてないもん。そういえばいつの間にか携帯まで持っていたもんね」
寧ちゃんはどうしてか異様に感が冴えている。私が困っていたとき、店からフリッツさんが出てきた。綺麗に整えてはいるものの髭面で、わりとガタイのいい、クマみたいな人だ。
「ああ、タクシー来たよ。二次会行くんでしょう?」
夫のフリッツさんも私達の前で足を止めて、ひとしきりお礼と挨拶を言った後、寧ちゃんを連れてタクシーで去っていった。
それを見送る形になって、藤織さんはしばらく立ちつくしていた。
タクシーが見えなくなったあと、ぽつりと呟く。
「御主人も、いい人そうだな」
「寧子と話したいがために、日本語のスキルを桁違いにあげたんですって。ベタ惚れなんです…」
藤織さんが基本的には他人にひどいことができないのをわかって、私はここに今日彼をおびき寄せたんだと思う。
あんな幸せオーラ撒き散らしている二人を裂けるほど、この人はひとでなしではないのだ。藤織さんにとどめとなったそれが、功をなしているのは見ていればわかる。多分これで寧ちゃんがちょっかい出されることはないだろう。
「……なんでそこまでして、妹を守りたいんだ」
藤織さんは質問のようだけどそれは独り言だった。
「まさか、ナベがこんなに嘘が上手だとは思わなかった」
「すみません」
「一つ聞きたい」
藤織さんの声は疲れていた。
「気をそらすためだけに、僕と寝たのか?」
……寧ちゃんは守れた。
……あとは藤織さんを守れればいいのである。
「そうです」
別に私みたいなクズと付き合わなくても、藤織さんにはいい人がちゃんと現れるはずだ。
藤織さんが私を見る目に侮蔑が宿る。いつも小バカにするようなことばかり言っていたけど、今までのは本当にこの人が私を気に入ってくれて、ただからかってたんだな、と今更にわかる冷ややかさだった。
……それがなんだ、私。藤織さんの好意など、本来何一つ私のものじゃないはずだ。
「私が藤織さんを好きだとでも思っていたんですか?」
「自分を安売りする女は嫌いだ」
「藤織さんを騙していたんだから、相当高値をつけたつもりですけど?」
笑え、私。ここで負けるな。
藤織さんは一度だけ、失望と名がつけられるため息をついた。
「……責める価値もない」
そういって、藤織さんは私に背を向け去っていった。




