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なぜ藤織さんはこうも強引なのか。
翌日首根っこ掴まれるようにして私は病院に連れてこられた。しかも藤織さんときたら、まだ途中だというのに診察室の中に乱入してきやがった。
先ほどなにやら病院の廊下で、知り合いらしい男性看護師に話しかけられていた。男前だが妙に怖い顔の人で迫力があったので、当方は一応無関係なふりを貫いてみた。彼らが話をしているときに診察室に呼ばれたから、これ幸いと一人で入ったのに乱入である。
こちとら医者に大口開けてバカ面さらしてい最中だ。そんなもの見て何が愉快なのであろう。
「で、どうなんでしょう」
患者、ていうか私そっちのけで、診察内容を聞くな。権利の侵害である、私のプライバシーは!(吹けば飛ぶ)
「だから、私自身はなんとなく知っていたんですよ」
受診を終えて、私と藤織さんは病院の駐車場に向かっていた。何を怒っているのか、背を向けて早足で歩く藤織さんを必死で追う。
診察の結果は、はいどんぴしゃり味覚障害。障害もいろいろあるようで、苦さとかしょっぱさとか、一部だけ機能不全になることもあるみたいだけど、私は全般的に感覚が落ちているそうだ。
口腔外科で異常なし、神経内科で血液検査して異常なし、脳神経外科で画像検査で異常なし。亜鉛はいっぱいもらえた。
さらに藤織さんは精神科にまで連れて行こうとしたので、さすがにそれは拒否した。大体、見ず知らずも同然の女の医療費をまるっと持つバカがどこにいらっしゃるのですか、と、はい……。大声では言えない。
そもそも自分でなんとなくわかっていたんだと申し上げているではないか。
「だから昨日言ったじゃないですか」
車のドアの前でようやく藤織さんを捕まえた。
「多分味覚障害だからって。結果は明らかなのに、なんで病院なんですか」
「わかっていればいいというもんじゃないバカ!」
バカ、と罵る様さえ男前である。
どうしていらいらしているのだ、藤織さん。にぼし食べるか?
藤織さんの声は、病院の臨終間際の老人も飛び起きそうな迫力があった。こんな勢いで怒られちゃたまらんだろうと、私は彼の教え子連中に同情する。
「とにかく車に乗れ」
説教されるとわかっていて、正座でスタンバイする奴がどこにいるのか。
はいここに。
私はその迫力に正直びびっていたので、素直に助手席に乗り込んだ。車のいいところは、皆が一方向を向いているので、相手の顔を見ないですむというところである。やはり人生前向きであることにはきっと意味があるに違いない。
「いつからだ」
運転席に座った藤織さんが低い声で言った。
「あ、別に藤織さんや掛井さんの料理がどうということはありません。ずっと前です」
「そんなことは聞いていない。いつからだ」
藤織さんは、その切れ長の目を私に向ける。凝視されているのが視界の隅でもよくわかる。
私は別に、藤織さんに私を知って欲しかったり、理解を求めていたりするわけではない。
はっきり言ってしまえば、藤織さんを私の人生に介入させるつもりはない。だからここで、私に何か気にかかるようなことを持ってもらいたくないのだ。藤織さんは、私の人生とは早く無関係になってほしい。
味覚障害なんて大した事じゃない。
私はためらうことなく口にした。
「え、ずーっと前からです。これって味覚障害って言うんだってのはさっき納得しましたけど」
藤織さんは、とても聡い。言動に注意してしすぎることはない。
「どうりで味がしないと思いました。教えてもらえて嬉しいです。ちょっと箔がついた気がします」
「なんで医者に行かないんだ」
「いや、こんなもんかなーって」
「こんなもんかなって」
藤織さんは絶句した。
「お前、前は太っていたとか言わなかったか。食べること好きだったんだろう」
「ええ、だから、味覚障害になって味しないなーおいしくないなー、ということでようやく食事量が減って痩せられたようなものです」
だから料理は出来ないままである。藤織さんはしばらく無言だったが、やがて何かを察したように言った。
「……いただきますとごちそうさまとありがとうございますは、土下座並みに丁寧に言えるのに、だからお前は何食べても『おいしいです』と言わなかったんだな」
いえ、私にとって土下座は会釈程度の挨拶ですから。九十度お辞儀だと……ハラキリというところでしょうか……。
「すみません」
「考えてみれば、お前、ずっとカップラーメンとキャベツで生きていたとか、作り方を見ればちゃんと料理が作れるのに、目分量で謎の親子丼とかを作り出していたりとか……おかしいと思う機会はいくらでもあったな……」
なぜか。
藤織さんは打ちひしがれていた。
「藤織さん?」
エンジンもかけず、藤織さんはただハンドルに両手をかけて視線を前に戻した。連れてこられた総合病院は盛況で、駐車場は車や人の動きが激しい。それを私達はぼんやりと見ていた。
「僕は、わりと人の気持ちを察するのは得意だと思っていたんだが、思い上がりだった」
「多分、自覚していることなら、藤織さんも察することが出来るんだと思います。私は自分で味覚障害だって自覚なかったから仕方ないです」
藤織さんのせいじゃない。何一つ。
「なにがあったんだ?」
彼はゆっくりと私に顔を向ける。
『精神的なものの可能性が強いかと』
最後の脳神経外科医のその言葉を彼は追及している。
「思い出せ」
「……思い出すまでもありません」
私はそれを思い出すことはない、忘れたことが無いからだ。
あの日は雨が降っていた。どしゃぶりで、今でも雨が降っている日は私をだるく憂鬱にさせる。雨の音は、どうしていつだって違うのに、同じものを連想させるんだろう。
「両親は、交通事故で死にました」
私は思ったより自分の声がかすれていることに気がつく。
「病院のICUを出たところで、誰かがくれた缶コーヒーを飲んだときには、もう何もわからなかったんです」
……ああ良かった、自分が泣かなくて。
いきなりのことに私は弱い。だから藤織さんに以前「悔しくないのか」と問われたとき、思わず泣き出してしまったが、この一件については考えつくしたからいいのだ。親は死んで帰ってこない。
「でも別に何も」
困ることないから心配御無用、と言いかけた私は急に視界を遮られた。それが引き寄せられた先にある藤織さんの肩だと気がつく。
「なんて手がかかる生き物だ」
藤織さんの声が真上からふってくるがそれどころではない。
藤織さん、これ手駒ですよ、カードですよ!
無機物から生物への昇格である。J2からJ1とかそういうレベルではない、ダーウィンだって裸足で逃げ出す進化といっていい。
……そして、藤織さんに抱き寄せられているのはなんとなく、気持ちがいい。
「藤織さん」
私は思い切って言う。
「いつも、ちゃんと御飯作ってくれたのに、本当は何にもわかってなくて、ごめんなさい。掛井さんも、一生懸命つくってくれたし、伽耶子さんも、すごく高価なワインあけてくれていたのに、私、何もわからなかったんです」
それだけは申し訳ないと思う。
私はいつだって卑屈だけど、ちゃんと謝ったことは無かった。
「それは気にするな。掛井は趣味だし伽耶子は自分が飲みたいだけだ」
藤織さんはけろりとしていった、さすが人類皆下僕。
「仕方ないから、ナベがちゃんと治るまで、付き合ってやろう」
あくまで大上段なその発言にしびれる。しかし正直迷惑だ。
「そんないつかわからぬ話に付き合わせて許されるほど、藤織さんはおヒマなかたでもないでしょう」
「うるさい、僕の時間をどう使おうと僕の勝手だ」
もったいない!夏コミ用の原稿の仕上がったデータを、入稿前日ロストしてしまうくらいもったいない話である。
「お前、ちゃんと自分について話せ。どうもナベについてはカンが働かない。こんなことは本当に久しぶりだ。言われないと僕も気がつかないかもしれない」
藤織さんのフォーナイン。どうしたんですか。その完璧さが揺らぐなんて。
「いつも完璧なのに、どうしたんですか」
「そりゃナベが特別だからだ」
……。(特別バカ?)
それについて発言しようと思ったら、いきなり胸に頭を押し付けられて、言葉がくぐもってしまう。発言を封じやがった。
「まあ、遺言の件が片付いたらな」
私の予定はどうでもいいようである、もちろん私に先の予定は無い。
「でも僕も不安はある」
「藤織さん」
「今まで僕が好きになった女と言うのは、しっかりしていて僕があれこれ世話をやかなくても問題ないような相手ばかりだったから」
藤織さんはため息をつく。
「ナベの飼育の仕方がわからなくて困る」
よし、次の目標は『人間扱い』である。不遜であろうか。




