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「出かけるぞ」
藤織さんがそう言い放ったのは、キスしてきた日からすぐの週末だった。
当方、居候兼手持ちのカード兼ゴクツブシですので、異論はない。しかしそれならそうと予告して欲しかった。作家買いしたBL小説七冊を今日読もうと思っていたのである。非常に幅の広い作家さんで、SFホラーから青春生徒会ものまでよりどりみどりなのだ。エロも充実。
しぶしぶ私はそれを置いて立ち上がった。
「泊まるから、そのつもりで」
ほいと大きなバッグを投げつけられた。パンツ一枚いれるにしては大きすぎる。
「なんでナベはそんな身軽なんだ?」
「パンツは持ちましたが」
「基礎化粧品!メイク用品!着替え!上下!ヘアアイロン!何も入ってないじゃないか!」
「えー、いるんですかそれ」
「空気と同程度には必要だと思え!」
暇になったら読もうと思っていた本は、バッグから出された。いつだって私の気持ちは一方通行である。
藤織さんのお車に乗って都内を出た。少々高速道路が混んでいるのは週末だからであろう。少し暑いくらいの日差しだった。お車は相変わらず人目をひく高級車である。
「どこに行くんですか」
「どこがいい?」
「は?」
「そうだな、ナベは絵が好きみたいだから、美術館にでも行ってみるか」
「どうしたんですか、藤織さん」
まるでデートである。
「ナベがあまりにもぼんくらなので、不安なんだ。世の中の常識とか知っているかどうか」
ちらりと横目で見られた。
「あー、怪しいですね、自己申告で申し訳ないんですけど」
「ということで、ちょっと外に連れ出してみることにした。そもそもなんでお前の料理は味付けがちょっとアレなんだ?ちゃんと本を見て作れば普通なのに、自分で作るといつもおかしい。化粧もせっかく教えてやってもいまひとつ乗り気じゃないし。そんなに難しいことを要求しているつもりはないんだが」
「藤織さんが要求する難しいことってどのくらいなんですか」
「学生なら、全科目、期末で一位とか」
「死ね、といわれた方がまだマシです」
予想以上のハードルの高さだ。人類は皆スパダリ様じゃねえぞ。
完璧な人というのはなんと扱いづらいのだろう。
私は伽耶子さんの言葉を思い出していた。
99.99%。FOUR NINE。
私がどうこう言うのは不遜だが、藤織さんがそんな自分でまったく困っていないというのは事実なのだろう。多分この人、一人が寂しいとか思っていない。
それならなぜ、私にちょっかい出しているのか。そして何ゆえ今日はお泊りなのか。
……私は別に、藤織さんが私を抱きたいというのなら、そりゃ別にそれでいいのだ。何不毛なことしているんだろうと、藤織さんらしからぬとは思うものの、それはおそらく私になんの影響も与えまい。
大体考えてみれば、相手が藤織さんである。
こっちが金払ったほうがいいのではないかと思われる(そして断られて納得!みたいな)。
藤織さんの完璧さに、私が介入できることなどないように、私の不完全さに藤織さんができることもない。
「何バカが休むに似たりなことを考えているんだ?」
それもお見通しか。
まさか私が日々練りに練っている妄想も駄々モレじゃないだろうな。それだったら軽く寝込むが。
「私はあまり、女の子みたいな受けは好きじゃないなって」
「……何?」
「せっかく男同士なんだから、もうちょっとがっつり男、みたいなのがいいです」
「何言っているのかわからないという事態は久しぶりなんだが……」
「解説しましょうか?」
「いや……なんか触れてはいけない世界があるような気がする」
カンが冴えていらっしゃる。
そんな藤織さんと、私は気がついたら箱根だった。美術館を見て、空気のよい林を散策し、湖まで来てしまった。
あまりにも気配が澄み切っていて、煩悩が消えそうだ。もっと毒々しい世界に連れて行って欲しい。清々しいと自分のアイデンティティがゆらぐ気がする。
「どうしたんですか、藤織さん」
私たちは湖でうっかりボートに乗ってしまっていた。
一対一で、藤織さんと真正面だ。なんの肝試しにトライしてしまったのであろう。
「どうしたって?」
「これではまるでデートです」
「そうかな」
違うのだろうか。
ゆらゆら光る水面に目をやった。
そうかもしれない。藤織さんはのぼせて顔が真っ赤な女にだってキスできてしまう人だ。なにかの基準が違うのだろう。
「こんなことやっていたら、伽耶子さんに恨まれそうです」
「お前、伽耶子とうまくやっているんだな」
うまくやっているというか……ほらアレですよ、伽耶子さんくらいハイクラスになると、むしろ私に下等な悪感情なんて持たないんですよ。
「年が結構離れているからかな」
「そんな、離れていると言うほどでも」
「女同士だとそうなのか」
ふうんと藤織さんは感心していた。
「なあナベ」
藤織さんが私を見つめていた。
「お前が守りたいっていうのは誰なんだ?」
「誰って……」
私は彼を見つめていられない。
「言えません」
「なんでだ」
「言ったら、藤織さんがいらんちょっかいかけそうだからです」
「しないが?」
「します」
絶対する。私だってそれくらいは確信が持てるのだ。
「見くびられたものだ」
「違いますよ」
私は目をそらしたまま言った。
「藤織さんには一目置いているからそう言うんです」
藤織さんがため息をついた。
「……男か」
「……尋問するのはやめてください」
私は話をそらす。そらすことがその後ろめたさを露呈させてしまうのだけど。藤織さんの視線が急に厳しさを増す。なに詰問されるかと気が気じゃなかったが、そのまま藤織さんは無言だ。その沈黙が恐ろしい、周囲は水ばかりだ、湖に顔つっこまれて拷問とかあってもおかしくない環境である。
しかし予想外に藤織さんは微笑んだ。
「ならどちらにしても手に入れるのは茨の道か」
その顔は、笑っているのにちっとも楽しそうではなかった。
藤織さんが最後に連れて来てくれたのは、山の中にある旅館だった。私道と思われるながい林道の先にあった、どうみても一見さんお断りな雰囲気な宿だ(私だったら申し込む前に出入り禁止になりそうである)。
「すごい宿ですねえ……」
「ほら行くぞ」
藤織さんが荷物を持ってくれた。周囲には何もない。
「まわりに何も無いですね」
「バーだのなんだのは、宿にあるぞ。必要なものはすべてあるはずだ」
ここに、アニメイトとまんだらけと虎の穴が!???
旅館とホテルの中間のようなレトロモダンな趣だ。フロントで藤織さんが何か手続きをしているあいだ、私はぼんやりと壁にかかった絵を見ていた。
と、仲居さんに声をかけられた。荷物も持っていて、部屋に案内しようとしているらしい。
「藤織さ……」
「いいから先行ってろ」
こんな高尚なところで一人にされたら挙動不審で掴まってしまいそうなのであるが、仕方ない。
私はがくがくぶるぶるしながら仲居さんについて歩き始めた。
黒光りしている木の床が美しい。しかしそれを楽しむ余裕がまったくない。仲居さんはさすがに落ち着いているがそれはむしろ私を逆上させそうである。
「お連れ様はもうお見えですよ」
仲居さんが微笑んだ。
お連れ様はまだフロントです、といいかけて私は部屋までついたことに気がついた。
「失礼します」
なぜ、無人であるはずの部屋に声をかけたのか。その意味がわかる前に、扉は開かれた。
品のいい和室だが、一部屋ではない、奥に寝室がありそうだった。
「え?」
わたしはあっけにとられてしまった。その部屋にはすでに人が居たからだ。
「掛井さん?」
「……ああ、お疲れ様です」
中に居たのは掛井さんだった。
掛井さんも私にかけるべき言葉に困惑したように、そんなことを言ってきたのだった。




