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「フォーナイン、ですか?」
伽耶子さんは肯いた。
「99.99%」
伽耶子さんの指には、アクアマリンやピンクトルマリン、ぺリドットみたいな優しい淡い色合いの石がふんだんに使われた指輪がはまっていた。その光がちらちら壁に光を映している。その光を見て、ああ今はまだ真昼間なんだなと気がつく。
真昼間からこんなにがっつり酒やってていいのだろうか。
『バカ、まだ外が明るいじゃないか』『いいんだ、見せろよ』とか、BL的濡れ場定型文を思い出している場合じゃない。
伽耶子さんは一瞬だけ自分の指に目をやった。
「ゴールドの純度。K24とも言うけど。99.99%。四つも9が並ぶほどの純金」
「はあ」
そして伽耶子さんは伏し目がちなまま言った。
「兄を見ていると、その言葉を思いだす」
伽耶子さんは。
本当に藤織さんが好きなのだ。
好きという感情を、人は分類したかったから、恋愛とか家族愛とかアガペとかエロスとか友情とかとにかく名前をつけたんだろう。でもそれにきちんと分類されない感情だってあるんじゃないだろうか。
伽耶子さんの藤織さんへの愛情は、家族愛というには肉欲が混ざっていて、でも恋愛と言うにはあまりに純粋だ。伽耶子さんが望むのは、藤織さんが幸せになってくれればいいという成分が殆どに見える。
「身内びいきじゃないけれど、兄はかなり完璧じゃないかと思うのよ」
見た目良し、頭良し、腕っ節も強い、包容力もある、料理も得意、金も持っているし、生きがいとしての仕事もある、強引に見えるのも意志の強さだ。ちょっといじわるだがそれもチャーミングだ(時々度をすぎるが)。
これはむしろ腹だたしく思っていいくらいの完璧さじゃないだろうか。私だって逆に恥ずかしくてこんな攻め、漫画にできない。
「でもあまりに完璧なことが逆に唯一の欠点に思える」
「どういうことですか?」
「自分以外の誰も必要としないということは、欠点じゃないかしら」
どんな幼少時代を送ったのか私は知らない。
でもあの母親や、掛井さん、伽耶子さんの言葉を察するに、彼は様々な痛みを味わってきただろうし、だから強くならなきゃいけなかったはずだ。
歪まずに強くなれる資質があったこと自体は、欠点じゃない。でも藤織さんは必要以上に完璧になりすぎてしまったのか。
「……それほどの高純度の金は、逆に柔らかすぎて、装飾品には不向きなの。その現実味のなさが私は時々怖いのよ」
「伽耶子さん?」
「兄は、ちゃんと人として生きているのかしらって。一人で平気というのは、人間として生きているといえるのかしらね」
「それは杞憂ですよ」
そういいながらも私も伽耶子さんの不安が伝染していた。
「兄が、ちゃんとあなたを好きになってくれればいいのに。それで嫉妬とか独占欲とか、そういうくだらない感情に振り回されて、ダメな男の部分を見せてくれれば私も安心できるのかも」
それは逆を返せば伽耶子さんは、藤織さんがこれからどういう判断を下すのかを予想しているということだ。
「藤織さんは」
「きっとあなたと掛井をくっつけるでしょう。それが一番妥当だから。兄自身は、自分が一人でもちゃんとやっていけることを自覚している」
藤織さんは人生の選択を誤ることはないんだろう。
「でも、それであなたを諦めるまでに、また時間がかかるんだわ」
「……藤織さんはほったらかしておいても勝手に女が集まってきて網一杯という気がするのですが」
いつだって大漁旗だろう。
「でも兄は、好きになった人と一緒になったことはないの」
「あの藤織さんをふった女がいるってことですか?」
「そのとおり!まあ随分前に終わった話だけど」
伽耶子さんは一気にワインをあおる。
「罰当たりすぎて殺意を抱く」
藤織さんと付き合ったことではなく、ふったことで恋敵に恨まれるとは、藤織さんの片思いの相手も不運である。
そんなわけで、昼過ぎからはじまった宴会は、だらだらと続き、気がついたら伽耶子さんちのソファで寝ていた。伽耶子さんも毛布被って寝ている。化粧を落とさないと毒ですよ。
今窓から入っている灯りは翌朝のものだろう。玄関に新聞が入っている。
私は痛む頭を抱えながら、伽耶子さんに『帰ります』というメモを残してこんどはエレベーターを上ったのだった。
昨日、伽耶子さんのところに出かけたいといったら藤織さんは素っ気なかった。
それはそうだ「触るな」といって気まずくないものなど、非常ベルのボタンくらいなものである。
「ただいま帰りました……」
ベルを鳴らしても音沙汰無かったので、一日だけ借りた鍵で開けて入った。マンション内はしんと静まり返っていた。普通なら休みの日でも藤織さんは起きているはずだ。居ないのか?ああ頭が痛くてだめだ。
私はとりあえず風呂をお借りすることにした。それから寝なおそう、起きたら今後についていいアイデアが浮かぶかも知れない。
私は藤織さんちのバスに向かった。黒と白のシンプルモダンな浴室で、湯船につかりながら眠たい頭で考える。窓からの明るい日差しがぬるい。
伽耶子さんの見立てを全て信じるわけではない。
でももし、藤織さんが私に好意をもってくれているのならそれはとても嬉しい。まさに身に余る……あまりすぎてもう一着できそうなくらい、身に余る光栄だ。でもそれは藤織さんの勘違いじゃないのかとも思うのだ。伽耶子さんほどのいい女を見てもまったく動じなかったのだから。藤織さんは今まであまり見たことない私を見て、面白いなと思っているだけかもしれない。
私だって基本王道好きだが、女体化やオメガバースも、たまにはいいではないかと思えるのだ。
でも藤織さんが私を好きだということは、いまの状況にはまったく関係ない事だ。
掛井さんは「渡辺寧子」と結婚しなければ意味がなく。藤織さんもそれを応援している。私も協力するような手前になっている。
もし私が藤織さんを好きだといったなら……私が素直に自分のことを告白したなら。
多分、身勝手な私に藤織さんは幻滅するだろう。
私はため息をついた。結局四十九日間が終わって片がつくまでは、どうしようもないのだ。
そんなことをつらつら考えていたら、いつの間にか浴槽内でうとうとしてしまっていたらしい。ああ、ちゃんと布団で寝なければ、と思って浴槽から上がったところで、めまいに襲われた。
のぼせたのか、私。
うわっ、と小さく呟いて、しゃがみこもうとしたが一瞬間に合わず、つるりとしたタイルの上にぶっ倒れてしまった。シャワーヘッドが落ちてきたその音がすごく遠い。
バカだなあ。
貧血もそれなりにままあることなので、私はそこでぐったりしていた。まあいい、そのうち動けるようになるだろう。
「ナベ?」
唖然とした声が上から降ってきた。
「どうしたんだナベ」
「……あっちいってくださいぃ」
信じられない、どうして藤織さんが居るのだ、不在じゃなかったのか。
今の私はすごいのだ。マッパである。ありえない恥ずかしさだ。しかし動けぬ。この焦燥感は、媚薬盛られて動けない受けを描くときに役に立つとしても、とりあえずこんな体験したくない。
「あっちけと言われても……僕はそこまで冷酷じゃないぞ……」
ちがう!今はここにいることが冷酷な行いである。
藤織さんは一端外に出ると、大判のタオルを持ってきた。それで私をくるむと抱え上げる。俗に言うオヒメサマ抱っこですね。惜しい、できれば掛井さんにされている藤織さんが見たかった。
「ナベはバカなのか」
「それ今更改めて聞くことでしょうか」
自分のベッドに運ばれて中に放り込まれる。藤織さんはため息付いてベッドの脇に座ると私を見下ろしていた。
「バカは死んでも治らないというが……」
「実験してみてもいいですが、私、来世はせいぜい虫だと思いますので判定不能だと」
「くだらないな。来世もあの世も幽霊もない」
藤織さんは笑った。あー、具合が悪い。
「なあ、ナベ」
藤織さんは頬にかかった私の髪をどけた。
「キスするぞ」
「なぜに、今」
「今なら突き飛ばされないからだ。この好機を利用しないなんてバカだろう。抱くとか言われないだけありがたいと思え」
確かに。
「だってそんなの不毛なのに」
「僕もとりあえず今しか考えない事だってある。それに突き飛ばされたままで、僕が黙っていると思ったか」
「でも嫌ですー」
「本当に嫌なのか」
ちっ。めんどうくさい質問してくる男である。
「……嫌じゃないのが嫌です」
ぼそっと答えた私に、藤織さんはやりきれないそうなどこか痛い笑みを浮かべ、そしてキスをしてきた。




