17
という会話を交わしたのが、三日前である。
伽耶子、襲来から三日たち、四十九日もいよいよ半分になろうとしている。そしてあの日以来藤織さんがよそよそしい。
あの日、言い放った私の顔をまじまじと見てから、藤織さんはただ一言「そうか」と言って離れていった。なんだか酷く傷ついた顔で。
なにかがぎこちないのは掛井さんにもわかるみたいだ。掛井さんがくると藤織さんは出て行ってしまう。しかたないので、掛井さんにチューペット食べてもらっているところとか、腕立て伏せをしている姿とか、をスケッチして暇をつぶしていた。こんなことに付き合ってくれる掛井さんはまこと神のようなお姿である。私の意図はわかっていないようだが。
「藤織さんは最近機嫌が悪いね。あまり自分の感情を表にださないんだけど。多分、自己都合と感情と周りへの気遣いで板ばさみなんだろう」
なんて仏のように呟いてた。
「俺もそろそろ腹くくらないとだめなんだろうな」
「掛井さん」
私はぼんやりと窓の外を見ている掛井さんに声をかけた。
「私、もう藤織さんが自分の都合で動いていることはなんとなくわかってますよ。掛井さんだって知っているんでしょう?」
「……あー」
掛井さんは振り返った。苦笑いだ。
「藤織さんに対して怒っているの?」
「いいえ。私も自分が困ったらそうすると思います。それに私だって、藤織さんや掛井さんのためにここにいるような清廉潔白な自己犠牲な聖女っぽく見えますか?」
ちょっとノリすぎたかもしれない。
「ごめん、見えない。正直ものでごめん」
「いいえ、正直なのはよいことです」
掛井さんも、藤織さんを助けたいと思っているのだと気がついた。
いままで藤織さんが掛井さんを助けたいと思っているのだとばかり思っていたけれど、掛井さんのほうがよほど藤織さんを気遣っている。
「実際、俺より藤織さんのほうが、政治家には向いていると思うんだ。でも藤織さんはまったく政治の世界は望んでいない。俺は、藤織さんに過去いろいろと手助けしてもらったから、今、俺が後継者になることであの人が今までどおり自分の人生を送れるならそうしてあげたいんだけどね」
「遺言どおり『渡辺寧子と結婚します』か?」
「それもなあ」
掛井さんはため息ばかりだ。
「私も力になりたいですが、ちょっと無理です」
そんな少々息苦しいような日々だった。
「掛井はまだ来ていないのか」
その日、夕方帰ってきた藤織さんは気まずそうに言った。わたしが一人ぽつんとグラタンを作っていたからだ。私は箱に書いてある作り方をガン見である。
「はい」
「……じゃあ僕はしばらく出かけてくる」
藤織さんは、ここしばらく私と部屋で二人になることを恐れているようだった。しかし出かけるというものをとめることも出来ないので、私も見送ろうとする。
と。インターホンが鳴った。リビングの隅に行ってその画面を見た藤織さんが少し顔色を変えた。
「……お引取り頂きたいところですが、そうもいかないんでしょうね。今、開けます」
初めて聞くような冷たい声だった。
「ナベ」
「はい、お客様でしょうか」
「お前、部屋に行っていろ」
そうですね、急な来客のさい、散らかった部屋のものは押入れにつっこむのが筋ですからね。みっともないものは隠さないと。
私は特に反対する理由もないので、大人しく部屋に引き下がる。
一旦。
玄関が開いて入ってきた人の気配を感じてから、そろりそろりと廊下を進んで、リビングに向かった。玄関ではまだ藤織さんと来客が話している。その隙にリビングのクロゼットの中に入り込み、中から戸を閉める。
ここで立ち聞きしないのが当然淑女なのだろうが、当方今バトルの真っ最中である。このご時世、戦争は情報戦が主体。淑女なんて知ったことか。
私がリビングに潜むと同時に部屋の扉が開いた。ほそーく開けた隙間から来客を見る。
……まったくもってここ数日美男美女の豊作だ。
そこに居たのは、着物姿の美人だった。少し険のきつい感じはあるが、問答無用の美しさを持っている。年はいまひとつわからないが四十……歳……くらい……?伽耶子さんのような華やかさはないが、彼女より威圧的だ。
「こんなところに来るなんてどうしたんですか」
藤織さんの声はよそよそしかった。
「私も別に来たくはなかったのだけど、うちのものにどうしてもと頼まれて」
その女性の言葉はもっときつかった。氷を首筋に当てたような気分になる。
「今、涼宮はもめているんですってね、いい気味」
「そうですね、僕もそれには同意してもいい」
藤織さんのしれっとした物言いに、彼女は少し苛立ったようだった。
「あなたは昔からそうね。何があっても動じることもなくて、周りの大人をバカにしているみたいだったわ」
「そう思うのは自分がバカだという自覚があるからですか」
冷や冷やした。
藤織さんと来たら、幼児として最初の言葉が「パパ」とか「ママ」ではなく「このバカ」だったんじゃないかと思うくらい、いつも口が悪い。
掛井さんにも私にもそんな態度だったけど、それでも今のこの会話とはまったく違う。
私達に対しては、からかい半分だったのだと心からわかるような、冷ややかな声と言葉だった。
「でもあなたも今、涼宮のボケ老人の遺言で振り回されているのでしょう?結局あなたもつまらない大人になったのよ」
「つまらない子供でしたから順当ですね」
藤織さんは鼻で笑った。
「で、そのつまらない僕に頭を下げに来たんですか?」
「……嫌な男」
女性は苛立っていた。もともとあまり粗末に扱われたことがないのだろう。藤織さんの言葉の一つ一つに不快感を感じている。
「そちらだって、涼宮のことは今は笑えないでしょう。いろいろ巻き込まれていらっしゃるようですから。でも僕はそちら様だけは助けません」
藤織さんの声には闇がある。
「やっと縁を切らせていただいたんです」
「あいかわらずなんて嫌な子なの。あなたなんてどうして産んでしまったのかしら」
誰が?誰を?
私は顔に扉のあとがつく勢いで、彼女を凝視していた。
この人、そら恐ろしいほど若くて美人に見えるけど。
藤織さんの母親なのか!?しかも実の!?
「こんな時に、役にも立たない息子なんて、産むべきじゃなかったわ」
彼女も激情を露わにはしない。その苛立ちで告げる言葉はもっと胸が苦しくなるような重みを持っていたけれど。
「育て甲斐もない、と言わないところで、あなたも全然僕の成長に関わらなかったという自覚があるんですね」
「そんなふうに言う子だから嫌なのよ。もういいわ、あなたに頼みに来た私が間違っていた」
「ではお引取りを」
「そうするわ。本当になんの役にも立たないんだから」
「血縁だというだけで、何かしてくれると思うほうがおかしいとは思いませんか?」
「……そうね。それは同意見だわ。本当に私に似過ぎて嫌になる。小さいときに死んでいてくれれば、今、涙を流すことくらいしてあげられたのに」
「では僕はあなたか死んだときぐらいは泣いた方がよろしいですか?頑張ればできない事もないと思いますよ?御希望でしたら早めに言ってください。練習が必要ですから」
藤織さんは笑っていた。
でも私は。
彼女を玄関まで見送ってリビングに戻ってきた藤織さんは、一度だけ深くため息をついた。
「出て来い、ナベ」
いるのに気がついておられましたか……!
でも私はクロゼットの中で動けない。
余りにもひどい。悪意ばかりの会話で、私はうなだれていた。
「おい、ナベ!」
藤織さんが苛立った声をあげてクロゼットの扉を強引に開けた。
「……ナベ?」
その勢いが急に飛び去ってしまったのは。
「なんで、ナベは泣いているんだ?」




