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伽耶子さんが帰ってから、私はぐったりして何もする気になれず、ソファに倒れこんでいた。その手にあるものは、一枚の名刺だ。シンプルなのにセンスが光るデザインの名刺だった。
『アトリエギネヴィア チーフデザイナー涼宮伽耶子』
どうやら伽耶子さんは、ジュエリーデザイナーであるようだった。どうして政治屋一家からそんなきらびやかな存在が出てくるのであろうか。まあボーイズラブ的には、時には男が子供を産んだりするからなんでもありか……。
「なにかあったら連絡してね」
名刺はそういって彼女が置いていったのだった。
伽耶子さんは私を頼りにしてくれたし心情を吐露してもくれた。
しかしそれは少し胸が痛む。彼女にとって私は、掛井さんへとあてがわれると決まっている存在だということだからだ。それ以外の私の気持ちなど考えていない。
ヘタレへタレと罵っていたが、伽耶子さんもけして掛井さんを軽蔑しているわけではなさそうだ。(掛井さんのほうが年上だが)できの悪い弟を心配するような口ぶりだった。それに伽耶子さんが願っていることは、掛井さんにとってけして悪い話ではない。
『涼宮の女である渡辺寧子』と掛井さんが結婚すれば、掛井さんだって今まで忠義を尽くしてきた涼宮のあとを継げるのだ。
掛井さんだっていい人だ。多分彼と結婚した女性は、穏やかな家庭を築けるだろう。
それで損をする人間は居ない。
「しかし、私にも私の事情が……」
私はため息をつく。
「なんだ、ため息ばかりだな」
ソファの頭上から覗き込んだのは藤織さんだった。いつ帰ってきたのだろうか。
「おかえりなさいませ」
私はとびあがって頭を下げた。
居候の分際で申し訳ありません。ソファを生ぬるく温めるだけの能しかなくお恥ずかしい限りです。
「何か、作ったのか……カレー?」
「はあ、お粗末様な上、諸事情で量が随分へってしまいました」
伽耶子さんが半分食べて行ったのです。あの人どんだけ燃費悪いんですかね。
私は藤織さんがらスーツの上を受け取って、ハンガーに掛けた。最初はオブジェと思っていたセンスのいいコート掛けにつるす。それで、冷蔵庫に飛んでいって缶ビールを持ってきた。
「……うーん」
それを受け取って藤織さんが気持ち悪そうに私を見る。いい塩梅だ。もっと教室の机から出てきた三日前の給食のパンを見るような目で見て欲しい。
「どうしたんだ?気が利きすぎて薄気味悪いぞ」
「実は質問があります」
「なんだ?」
私はソファの下に正座した。
「藤織さん、女の趣味はどんなでしょう」
噴き出しはしないものの、藤織さんが明らかにぎょっとする。しかしそれ一瞬で沈めると言い放った。
「美人でスタイル良くて才能とガッツのある女」
なるほど、全て私にアンマッチ。そしてオールマッチングなのは。
「伽耶子さんのことですね」
「伽耶子が来たのか!」
藤織さんが珍しく叫んだ。
「はい」
「……なにか言っていたか」
「藤織さんラブ、と申されておりました」
「……伽耶子め」
「しかしそれならば両思いですね。コングラチュレイション近親相姦」
「言うまでもなく好みは血縁以外だ、バカ」
しかし藤織さんの今の言葉で、伽耶子さんの言っていたことが本当だとわかってしまった。
そうか、やはり藤織さんは涼宮の人間だったのか。
……私に優しくしてくれたのは、結局は掛井さんのためで、彼自身のためなのだ。
うむ、やはり好きにならなくて正解である。私のこの結論自体は藤織さんにとっても幸運以外の何ものでもない。私に好かれたということ自体、彼が知ろうが知るまいが、人生の汚点チックであるからして。
「……何を考えている?」
「伽耶子さんが男だったらすごくナイス攻めだと思ってました」
「?」
腹違いの弟と兄。弟は兄に淫らな感情を抱いていたのである。弟を拒絶する兄、衝動を抑えられない弟。その愛憎は悲劇に向かう……!
アオリ文までできてしまった。自分の才能が怖い。
「さっきの好みだが。別にあれ限定というわけじゃない。僕はこの性格だから、この口調でへこたれる人間は付き合うのが面倒くさいと思っていただけだ。イキがいい方がきゃんきゃん言ってきて楽しいしな。でも最近は、言われたことを右斜め上にしてするっとかわす奴もいることに気がついて、それはそれで気が楽だなと思っているところだ。そいつは妙なところで根性あるし……考えていることが良くわからなくて興味深い」
悲劇かあ……シリアスって描いていると魂削られるから大変なのだ。
「……聞いているのか?」
「あ」
妄想ど真ん中でした。
「人に話をふっておいて、なんでぼんやりしているんだ!」
藤織さんにひっぱられてソファにうつぶせで倒れこんだ。藤織さんが私の足を掴む。だめだ触ってはいけません、バカがうつります!
と思ったら足の裏の一点を指の関節で押された。
「ぎゃー!」
私もめったにない事だが絶叫してしまう。
「いだいだああい、藤織さっ、マジで痛いです。死んじゃう!死んじゃう!」
「ふーむ、足裏のツボはなかなか効くんだな」
私、精神的にはマゾだが、肉体的な痛みには激弱である。柱の角に小指をぶつけたら即死フラグが立つ。
「でも冷えに効くツボらしいぞ」
「これだけ叫べは血行もよくなります!」
「痛いのは弱っている部分だからだそうだ」
「素人判断勘弁してください、ぎゃー!」
藤織さん御乱心だ。
普段はただ無理難題を突きつけてくるだけなのに、今日のこれは明らかにDのVである。肉体的苦痛を伴っている。
「伽耶子についてどう思った?」
藤織さんの低くていい声はうっすら笑っている。でもそこに苛立ちが確かにあった。
「他には特に話してないです。かかかかかやこさんはいい女だなあってくらいしか私には思いつきません!」
知性と教養がないので、美を褒め称えるのは苦手なのだ。大体文章で説明するのが苦手だから、漫画描いているのである。とはいえ、伽耶子さんを描いてみろといわれたらそれはそれで困る。もっぱら美青年しか描いていないのだ。
「兄に惚れている変人だぞ」
「それでも純粋に相手を好きなら軽蔑なんてできません」
藤織さんから逃げようとソファの上で、屠殺場まであと一キロくらいのブタよろしくのた打ち回っていた私だが、身を捩って彼を見た。
「それに藤織さんも、伽耶子さんのことは嫌いではないでしょう」
「なんでそう思う?」
「藤織さんは自分を好いて頼りにしてくる相手にそっけなくできるほど、冷たい人ではないからです」
口調はアレだが、そういう人だと思うのだ。
そうじゃなかったら、こんな掛井さんの問題なんて、知らぬ存ぜぬで過ごせばいい。できないから最善を探っているんじゃないだろうか。
「別に兄と妹だって、おおっぴらに誇れるものではないですが卑下するほどのことではないと、私は思うのです」
伽耶子さんは堂々としすぎだが。
「いいじゃないですか、好きなら。お似合いだと思います」
……おそらく、私は苛立っていたのだ。
伽耶子さんの自信と才能と美貌ににすっかり圧倒されて。藤織さんと伽耶子さんが並んで立っていたら、一枚の絵のようであろう。私と藤織さんでは一体なんのコラージュだという塩梅だが。
馬鹿馬鹿しい。
どうして私はいつだって、自分には到底叶わない相手を欲しいと願ってしまうのだ。
「とはいえ、私にはまったく関係ない事なので、口を挟む権利もないのですが、相すみません」
気がつけば、藤織さんの指は足の裏の激痛ポイントから離れていた。その代わり、私の両脇に手を置いて、藤織さんが覗き込んでいた。
「そうだな、関係ないな」
吐き捨てる。
「でもナベ。お前には、兄妹愛と恋愛の区別もつかないのか」
どうして藤織さんが苛立っているのか私にはわからない。ただ、質問にはなるべく誠実に答えたいとは思うのだ。
「わかります。私も守りたいくらい愛しい人はいるんです」
藤織さんの表情が険しいと言っていいくらいのものに変わる。でも私は続けた。
「私にだって、好きな人はいます。藤織さんには言わないだけです」




