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女神大戦 ‐The Splendid Venus‐  作者: 灰原康弘
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第三章 華京院凛香という少女⑧

 二人が帰ったとき、パンを焼いているような、香ばしい匂いが鼻孔を刺激した。

 リビングの扉を開けると、それはより一層強くなる。台所では、エプロンをつけた朱莉が食事の準備をしていた。


「あ、おかえり二人とも」

 フライパンの上でなにかを作りながら朱莉が言った。

「美神、起きていたのか……ひょっとして、起こしてしまったか?」

 申し訳なさそうに眉をハの字にした凛香に、朱莉は「違うよ」と笑う。

「最近ちょっとはやく起きるようになっちゃって……なんか最近、変な夢見るんだよね。……華京院さん、大丈夫?」


 凛香が疲れた顔をしていたのを心配したのか、朱莉は眉をよせて訊いた。

 けっきょく、凛香はあれから三十分以上、尊の攻撃をよけ続けた。〝修行〟ということを忘れさせるほどの鋭い攻撃を、しかし凛香は一度も目をそらすことなくよけ続けた。尊の課した〝ノルマ〟自体はクリアできたものの、決して楽にできることではなかった。もし攻撃に当たれば、無傷ではいられないということもその苛烈さから分かったからだ。


 しかし、ここで朱莉に無用な心配をかけるわけにもいかない。尊が面白半分にやっているのではないということも分かったし、彼は彼なりに、自分のことを考えてくれているのかもしれない。そう思うと、ちょっと見直してしまいそうになる。


「あ、ああ。大丈夫だ、問題ない」

「そう? ならいいんだけど……。尊くん、華京院さんに変なことしてないよね?」

「貴様最近律子に似てきたな」

 尊はいやみったらしく舌打ちをした後で、唇を嫌な形に歪める。

「ところで夢の話だが、蛇は出てきたか?」

「蛇? どして?」

「とある御大曰く、ペニスの象徴らしい。欲求不満な人間は、よく見るそうだ。で、出てきたのか?」

「な、ぺ、ぺ、ぺ……」

 朱莉は真っ赤な顔でなにやらぼそぼそとつぶやいている。なにか言おうとしているが、結局言葉になっていなかった。


「柊おまえ! いったいなにを言っているんだ!」

「ただ訊いただけだろう。朝から騒ぐな」

「おまえこそ朝からなんてことを訊いてる!? おまえのことをちょっとでも見直すところだった私がバカだった!」

「そうだ、貴様はバカだった。分かったら二度と俺に貴様の理想を押し付けるな」

「く、こ、く……」

 凛香は指をさしながら、地団駄を踏む勢いだった。なんとか頑張っていたようだが、朱莉ともども絶句する。

 今度は凛香に代わって朱莉が深々とため息をついた。


「なんかもうさ、やっぱりすごいよね、尊くんって」

「そう褒めるな。照れる」

「全然褒めてないよ」

 凛香と比べ、朱莉は尊と長く接している。したがって、比較的はやく正気に戻ることができた。そのおかげで、彼女は卵を焦がさずに済んだのである。

 尊は二人をまったく無視して、さっさとシャワーを浴びに行ってしまった。


「まったく、なにを考えているのだあいつは……」

 ため息交じりに言う凛香に、しかし朱莉はたぶんなにも考えてないと思うよ、とは言えなかった、昨日「意味のないことはしない人だよ」と言ったことが、彼女にそれをためらわせた。

「美神、私もなにか手伝おうか?」

「え? うーん、じゃあ、もうすこしでパンが焼きあがるから、それでサンドウィッチ作ってくれる?」

「分かった。具材はどうする?」

「レタスとハムだよ。レタスはもう切って冷水に浸してあるから」

「了解した」


 凛香は手を洗うと、てきぱきとレタスをちぎって切って、冷水に浸す。まもなくパンが焼け、彼女はマーガリンをつけ、スライスチーズをのせ、ハムをのせてレタスをのせ、パンで蓋をしてラップにくるむ。


「華京院さん、作るの上手だね」

「そ、そうか?」

 凛香はちょっと照れた顔になった。

「これでもいちおう自炊しているからな。こうしてだれかと一緒に作るのは初めてだが」

「いつもどんな料理作ってるの?」

「大したものは作っていないぞ。どうせ一人だからな。簡単なものだけだ。炒め物とか。美神はどうだ?」

「私も普段はそんな感じだよ。一人なのに凝ったもの作っても、食べてるときはまだいいんだけどね、後片付けしてるときがなぁ……」

「そうだな。ちょっとむなしいというかなんというか、複雑な気分になる」


 分かる分かる、と凛香がうなづく。二人は思わぬところで分かり合った。

 そうこうしているうちに、尊がシャワーから戻ってきた。

 尊はソファーにふんぞり返ってテレビをつける(無論、布団は朱莉によって上げられ、ソファーと机は定位置に戻されている)。


 尊の部屋では、朝のこの時間は時間代わりのニュース番組を見ている。事件や天気予報、いろいろと移り変わる画面だが、凛香に関するニュースは一切報道されておらず、また彼女の名前も一度たりとも出てこない。

 瀬戸が布いた緘口令が、まだ生きているということだろう。

 それを見て、凛香はすこし複雑そうな表情を作った。

 不穏な空気を察した朱莉が、いちはやく口を開く。


「華京院さんって、いつもランニングしてるの?」

「ん?  ああ……」

 急に話しかけられ、すこし驚いた様子を見せた。

「起きたら華京院さんだけじゃなくて、尊くんまでいないんだもん。びっくりしちゃった」

 いちおう、凛香は朱莉に対して「尊と一緒にランニングに行ってくる」旨を記した書置きをしたが、いつもたたき起こされるまで起きない尊がいないことに、よほど驚いたようである。いったい、普段どれだけ人に迷惑をかけているのか。凛香が尊に目をやると、彼はいまだテレビを見ている。なにをするでもなく、ただ見ているだけなので、すこし間が抜けて見えた。凛香はため息交じりに言う。


「朝のランニングも、なかなか乙なものだぞ。まだ町が目覚めるまえとでもいうのか……景色もいつもと違って見える」

「そっか。たしかによさそうだね。気分もすっきりしそうだし。私はできないから、ちょっとうらやましいな」

「べつに走らなくても、散歩でもいいと思うぞ。よければ、明日は君も一緒に来ないか? 一緒に朝の散歩をしよう」

「いいの……? 迷惑じゃない?」

「なぜだ? そんなはずないだろう」


 キョトンとした顔で凛香が言った。そこで朱莉は、昨日凛香が「もしなにかあったら、私に話してくれて構わない」と言ってくれたことを思い出した。

 彼女なりに、自分に気を使ってくれているのかもしれない。いよいよもって目覚めが悪い。これが朱莉の〝カバーストーリー〟を聞いての態度なら、本当に心が痛い。


 しかし、それもあるかもしれないが、たぶん凛香は朱莉と仲良くなろうと、歩みよってくれているだけなのだ。以前、尊と唯とともに服を買いに行ったとき、親身になって対応してくれた。あれは〝仕事だから〟という事務的なものではなかったように思う。

 いま朱莉と凛香の関係といえば、せいぜい〝クラスメイト〟止まりだ。朱莉自身、凛香とは仲良くなりたいと思っていた。ここはありがたく、申し出を受けることにする。


「うん。じゃあ、お言葉に甘えちゃおっかな」

「ああ。ぜひそうしてくれ」

「フン、人情味あふれる素晴らしいお言葉だな」

 和気藹々とした雰囲気の二人に、水を差すというか、ぶちまけた少年が一人。

「貴様らよほど嘘っぱちの道徳論が好きなんだな」

「もう、どうしてそういうこと言うかなぁ」

 朱莉が呆れたように言った。もはやため息も出ないといった様子である。


「貴様らがどれだけ仲良しこよしの関係になろうと興味はないが、そいつにいまの状況を失念してもらっては困るんでね」

 そう言って、ちらりと凛香に視線をやる。

「忘れるな。貴様はいま、条件のもと、〝保釈〟となっているんだ。決して疑いが晴れたわけではない。貴様を保釈させるために、何人かの人間が下らん雑事をする羽目になったんだ。それを忘れて浮かれているんだぞ? 同業者として、叱咤するのが当然の務めだ」

 はたして尊がそんな殊勝なことを考えて発言したのかは甚だ疑問であるが、言っていることは一理ある。たしかに、いまの自分は状況を忘れて浮かれていたかもしれない。


「そうだな。おまえの言うとおりだ。すまなかった」

 ぺこりと頭を下げる凛香。

 それを見て、朱莉は思う。普段、傍若無人で傲岸不遜なくせに、尊にはこういう一面がある。彼はよくわけのわからないことを言うときもあるが、あとから思い返してみると、「ひょっとして、こういうことが言いたかったのかな」と理解できるときもある。

 今回もそうだ。人が言いにくいと思うことを、この少年は息をするように言ってしまう。言いかたがアレだから素直に褒めたくないが、この点においては一概に欠点とは言えない。事なかれ主義の自分からすれば、正直、すこし尊敬……。

「分かればいい。まあ、貴様の保釈が取り消しになって、俺の仕事が減るのが一番の理想なんだがな」

 できそうもなかった。思ったそばからこれである。尊敬するまえで本当によかった。


 見ると、凛香もなんとも言えない表情をしていた。反省したことを後悔しているような、でも反省すべき点があったことは事実だから謝罪を撤回するわけにもいかない。でもいまの尊の発言はいかなる精神のなせる業か。生真面目な彼女の脳が混乱しているようである。

 その気持ちはよく分かる。尊と話していると、なんだかよく分からなくなったり、あるいはどうでもよくなったり、凛香のように一時的に混乱したりといったことがよく起こる。

 こうなってはもうどうにもならない。無理やり話を変えるしかない。


「華京院さん、ごはん運ぶの、手伝ってくれる?」

「あ、ああ……」

 いまだ混乱した頭で、凛香は刻々とうなづいた。

 二人が準備をすすめる中、しかしもちろん尊はなに一つ手伝わない。これはもう見慣れた光景である。

 今日のメニューは、ハムとレタスのサンドウィッチに、ベーコンエッグだった。


「やれやれ、ようやく朝食か。ずいぶん待たせてくれるじゃないか」

 なに一つ手伝っていないくせにこの物言い。仕事とはいえ、この少年に五年間食事を作り続けている律子は本当にすごい。

 普段はギリギリまで起きないから、尊が起きたときにはすでに食事ができている。だからちょっと長く感じただけだ、なんてことを言えるほど、いまの朱莉には余裕がなかった。


 一日は長い。今日はまだ始まったばかりなのだ。いまからツッコんでいては身が持たない。どんな話を華京院さんに振ろうかな、と思いつつ、朱莉は席に着いた。

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