第三章 『英霊館』殺人事件⑳
突如聞こえたその声に、しかし驚いたものは皆無だった。
音もなく扉が開く。尊が入ってきた手前の扉ではなく、奥にある扉だ。
その瞬間、燃え盛る炎の熱と色、焦げた空気のにおいが風にのって鼻孔を刺激する。
そこから入ってきたのは、すっかり白くなった髪をオールバックにし、黒のスリーピースに紺のネクタイをしめた初老の男――『英霊館』に勤める執事、黒崎だった。
「フン。ずっと外でスタンバイしていたのか? ご苦労なことだ」
尊がバカにしたように笑う。
「それが私の役目ですので」
さきほどまでとおなじロボットのような話しかたで、黒崎が言った。
それに呼応するように、食堂に充満していた『ダークマター』の気配が消えた。瞬間、扉の隙間から煙が侵入し、食堂の温度が上がっていく。
「フン、見た光景だな」
三日前……黒崎の能力によって館の中で起きた出来事すべてがリセットされるまえ、すなわち、一回目のときに、まったく同じことを、尊は体験していた。
「一度目で成功していれば、二度もおなじことを目にする必要もありませんでしたよ」
黒崎の声に、からかうような色が宿る。尊は白い目をむけると、低い笑い声をあげた。
「まったく、どいつもこいつも。よほど人の足を引っ張ることが好きなんだな」
「〝ひっぱられたくないなら、失敗しないこと〟。彼女からの伝言です」
「面白い」
尊が獰猛な笑みを見せた。黒崎たちは知る由もないが、彼がこう言った表情をするのは、じつに珍しい。
「丁度いい。俺もあの女に伝えたいことがあるんだ。言付かってもらうぞ。この茶番を、終わらせた後でな」
「よろしいでしょう」
黒崎が無機質な声で言った。
「あなたがこの〝ゲーム〟をクリアすることができたら、責任をもって伝えましょう」
「ほざけ」
尊がまた喉の奥で笑った。
「では、時間もありませんので、そろそろ始めましょうか」
執事が言った。
彼は直立不動の姿勢をとると、ロボットのような平坦な口調で続ける。
「一応、自己紹介をしておきましょう。『アドラスティア』幹部、嵩本竹善と申します」
初めて聞く名に、尊は口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「律儀だな。言っておくが、テロリストに名乗る名前はない」
「構いませんとも。『騎士団』小隊長、柊尊殿」
黒崎……いや、嵩本の言葉に尊はつまらなそうに鼻を鳴らし、
「どうやら、最低限の知識はあるようだな」
皮肉っぽく吐き捨てた。
それを見止めると、小夜はゆっくりと立ち上がった。
「黒崎。では、お願いします」
「はい。お嬢様」
一瞬、食堂から音が消えた。
つぎの瞬間、嵩本が消えた。
いや、厳密には消えてはいない。彼はただ移動しただけだ。ただし、その速度が常軌を逸していたために、一見するとまるで消えたかのように見えただけだ。
それとほぼ同時、尊も動いていた。左足と左腕に『ダークマター』を纏った状態で。
嵩本の右手を左手でつかみ、真紅の左目で執事を見据える。
理由はただ一つ、嵩本が、小夜と朝巳を攻撃したからだ。
「お見事」
「何度も言わせるな老いぼれ」
尊の『ダークマター』が勢いを増す。
「ほざけ」
鋭く一閃、手刀をふるう。
バチンッ! というなにかが弾けるかのような音が響き、嵩本は押し戻される。
「どうした、自称幹部。大したことはないな」
その状況にあって、嵩本はふっふっふと笑った。
一切感情の宿っていない笑い声。井戸の底を覗きこんだかのような、得体のしれない不気味さがある。
尊は、それには不快気に鼻を鳴らしただけだった。
「おや、一度失敗した方のお言葉とは思えませんな」
ほざけ、と言おうとするが、結局口をつぐむ。代わりに言う。
「この俺を相手に戯言とは……その余裕だけは褒めてやる」
「柊くん……」
「黙れ」
尊は小夜には目もくれることなく言う。
「言ったはずだ。俺にはすべて分かっていると。貴様らはただ、そこでそうしていればいい」
尊は普段は垂らして左目を隠している前髪を、耳にかける。真紅の瞳がふたたび嵩本を捉えた。
――落ち着け。
尊は自分自身に言い聞かせる。下らん挑発に乗るな。冷静になれ。いつものように。
失敗に引きずられるな。すべきことをしろ。俺なら、柊尊であればできる。できないはずがない。
「もう一度言う。この事件は、今日ここで決着を迎える。この俺が二度も失敗することなど、ありえん」
嵩本はなにも言わなかった。ただ、受けて立つとでもいうように、彼の体から『ダークマター』がみなぎる気配がする。
「小夜様、朝巳様、お命頂戴いたします」
短い宣戦布告。その後、二人はふたたび激突した。
衝撃によって食堂が揺れる。壁にひびが入り、煙だけでなく炎の浸食もはやまった。
もはやほかの部屋となんら変わりはない。侵入も脱出も不可能な状態である。時間は残されていない。せいぜいに三分と言ったところか。その間に、すべての決着をつける。
――正しい形に落ち着かせる。
そのとき、嵩本のスリーピースの内ポケットから、『ダークマター』の気配がする。チャリ、と音を立てて、懐中時計が滑り降りてくる。
見ただけで分かる。これが、気配の元だ。
尊はふたたび手をふる。しかし、『ダークマター』を纏わせれば、それだけで十分な攻撃となる。懐中時計に伸びようとしていた嵩本の右腕は軽々と吹っ飛ばされる。
が、
「小夜様、朝巳様、お命頂戴いたします」
その、短い宣戦布告。
しかし、その言葉はつい十秒ほどまえに聞いた言葉だった。
――なんだ? どういうことだ?
尊はほんの一瞬、それとは分からぬほど怪訝な表情となった。
嵩本の腕を吹っ飛ばした直後、懐中時計から漏れ出る『ダークマター』の気配が、一層強くなる気配があった。
『ダークマター』の能力にとって時間が巻き戻された? 館内の時間を巻き戻したのはこいつの能力か? だが、いま巻き戻されたのはせいぜい十秒程度。腕が飛ばされる前まで戻しただけなのか、それとも、その程度しか巻き戻すことができなかったのか……。
一回目の記憶が残っているように、今回も十秒前の記憶はある。尊が記憶を保持しているのは、体内を侵食する『ダークマター』の影響か……。
一回目では、こいつの能力は見ていない。見るまでもなく、嵩本を片付けたからだ。ここからは、今回初めて経験することだ。
――試してみるか。
尊は床を蹴ると嵩本との距離を詰めた。さきほどとおなじように、手刀で嵩本の腕を切り落とそうとする。しかし、嵩本は体をひねってそれをかわした。つぎの瞬間には、反撃に転じていた。嵩本は右手で尊の心臓を一突きにしようと平手で攻撃する。
が、その攻撃はいとも簡単に受け止められる。尊は嵩本の手首をつかむと、そのまま左手を切り落とす。その直後、ふたたび懐中時計に『ダークマター』の気配が……。
「小夜様、朝巳様、お命頂戴いたします」
その、短い宣戦布告。
――またか。
尊は心中で眉をひそめる。さきほどとおなじように、十秒間……いや、今回は十五秒ほど時が遡っている。今回も、短いスパンでの時の逆行が起こった。
長いスパン……三日間の逆行の場合は、使用制限でもあるのか。だが、みことはこれをゲームと言った。自分がルールを守っている以上、彼女がそれを破ることなどありえない。
みことの使者らしいこの嵩本にしてもおなじことだ。嵩本はもう三日前に戻すことはしない。だが、腕を切り落とそうが、あの懐中時計がある限り、時は巻き戻されてしまう。
なら、あの懐中時計を破壊するか? 自分ならそれはたやすいだろう。十秒も必要ない。一秒折れば事足りる。
だが……。
「おや、どうかされましたかな」
嵩本が平坦な声で訊いた。
「さあ、俺はどうしたかな。当ててみろ」
尊は不敵に笑った。
時はたしかに巻き戻ったようだが、しかし嵩本は尊とおなじく記憶を保持している。それはさきほど、尊の一回目の攻撃をかわしたことを見れば分かる。尊は一回目とまったくおなじ攻撃をした。すると嵩本は、最小限の動きでかわし、返す刀で迎撃してきた。記憶を持っていなければ、こんなことはできない。
ということは、やつは二回目の記憶も当然持っている。このままではいくら攻撃しようと時を戻され、無限にループするだけだ。
――難儀な話だ。
だが、どうということはない。なにも律義に嵩本の相手をする必要もない。
なぜなら……。
尊の思考を打ち切るかのように、一気に距離を詰めてきたかと思うと、嵩本は頭めがけて蹴りを繰り出した。
「フン。ずいぶんと軽い攻撃だな。老体は大変だ」
「ほう、どうやら呆けていたわけではないようですな」
尊は軽々と、左腕一本でそれを防いだ。
食堂に伝わる振動。割れる窓ガラス。ひび割れる壁に天井。吹き込む熱風。食堂が崩れるまで、もう猶予はない。
尊は嵩本の間合いに深く踏みこみ、手刀をふるう。しかし嵩本はかわし切ることができなかった。それはわずかに彼の肩を切りこむ。
――来るか?
尊は身構えた。が、果たして時間は巻き戻らなかった。嵩本は尊から距離を取り、肩を気にする仕草をしただけだ。彼の懐中時計は沈黙している。
――時が巻き戻らない。なぜだ? 巻き戻すほどの深手を負ったわけではないからか? それとも……。
尊はもう一度嵩本を攻撃する。今度は右腕の骨を折った。通常の人間であれば深手である。しかし、今度も時が巻き戻ることはなかった。
――なるほど。やはりか。
己の仮説が立証されたことに、尊は満足げに唇をゆがめた。
「貴様の小細工が分かったぞ」
尊はすべてを見透かしたかのような傲慢な口調で言った。
「貴様の能力は無作為に使える代物ではない。長いスパンで時を戻そうとすれば、それだけ能力を使うことはできない。三日間巻き戻せば、三日間能力を使えない、といった具合にな。
短いスパンであればそんな制約を食らうこともないようだが、連続して使えば能力を使うことはできなくなる。いまのようにな」
嵩本はなにも答えない。尊は続ける。
「そして、これで終わりだ」
嵩本をふたたび襲った攻撃。それは彼の命を奪うためのものではない。衝撃によって、食堂は今度こそ限界を迎えた。天井が崩れ落ち、それは部屋の者たちへと襲いかか――
らなかった。
「お見事です」
未だ燃え盛る館のなかで、嵩本が言った。
「あなたの言う通り、長い期間を巻き戻せば、おなじ間だけ能力を使うことはできません。が、短い期間であれば、いくら使用しようと制約は発生しません。使う『ダークマター』が少量で済むからです。
判断を、見誤りましたな」
嵩本は続けた。その声には、ほんのわずかに失望の色がある。
うつむいていた尊は、ゆっくりと顔を上げた。
「それはどうかな」
尊はにやりと笑い、手刀を一振りした。
さらに深く入る亀裂。吹き荒れる熱気……。尊の後ろで小夜と朝巳が激しくせき込みんでいる。
その中で、尊は皮肉っぽい笑みを浮かべて言う。
「貴様なにを勘違いしている? 俺が気づいていないと、本気で思っていたのか? 舐められたものだな」
尊は失望したように肩をすくめた。
「貴様の能力が使えなくなるのは、連続して能力を使ったときではない。巻き戻した間に使うことができないんだ。三日だろうが十秒だろうがな。三日使えば巻き戻してから三日間。十秒でも巻き戻してから十秒間。貴様は無防備になる。そして……」
尊は嫌味な笑顔で親指をぐっと下にむける。
「これで終わりだ」
瞬間、食堂は限界を迎えた。炎を帯びた瓦礫が、一同に襲いかかった。




