第三章 『英霊館』殺人事件⑭
部屋に下がったあと、尊はみことの仕かけた〝ゲーム〟について、本を読みながら思考を巡らしていた。コテージの本棚には、来客用の本が置かれていた。これはその中の一冊である。
その横では、ベッドの上で唯がちいさく寝息を立てている。
食堂で官僚たちを煽ったのは、その反応を見るためだ。三田村の……ではなく、綾辻の、である。
案静は『英霊館』から招待状がきたと言っていた。しかし、綾辻に確認したところ、送った覚えはないとも。
可能性としては、綾辻が送ったがとぼけている。あるいは、本当に綾辻は送っていない。その場合、つぎの候補としては明香、黒崎、城津だが、あの場にはいなかった。よって、館の主の反応が見たかった。
やつは招待状は送っていない。もし送っており、またあの〝声〟を使ったのだとすれば、もっと互いを疑心暗鬼にさせるためにも、客人たちを食堂に留まらせたはずだ。だが、なにかを隠している。犯人の目星がついているのか? だとするなら、第一候補は明香ということになる。
明香は綾辻は自分に興味がないようだと言っていた。それを裏付けるかのように、綾辻の明香の対する態度はどこか他人行儀だ。
一方で、唯が昼間指摘したように、気にしていないと言うわけではない。
――なにかある。なにがある?
尊は眉をひそめる。
もう一つ気になることがある。三田村の反応だ。
やつは名前を呼ばれた中で、もっとも大きな反応を見せていた。過剰と言い換えることもできる。
三田村は心当たりがあるのだ。〝声〟が言っていた、〝大罪〟の。
公安部参事官だった三田村にあるのだとすれば、やつの上司である綾辻にも思い当たることがあるに違いない。では、案静は?
そのとき、尊の思考を打ち破るかのように、その〝詩〟が聞こえてきた。
――女神は詩う すべての罪 罪人を浄化するように
浄化されれば聖人に 浄化されねば罪科に苛む
押し寄せる罪科に溺れ 藁をも掴むが是非もない
尊は読んでいた本からゆっくりと顔を上げた。
時計を見ると、針は午前2時を指している。
聞こえてきたのは、さきほどのレコードの声とおなじ、老若男女の声を繋ぎ合わせた不規則な〝声〟。
エンドレスに流れ始めたのは、聞くものの不安をあおる不気味な〝詩〟だ。
「兄さん……?」
雑音のせいで唯が起きてしまったようだ。まったく迷惑極まりない。こんな下らない〝ゲーム〟、とっとと終わらせなければ。
「心配ないよ唯。安心して。兄さんから離れないようにね」
やさしく語りかけると、リモコンで部屋の明かりをつけ、スタンドライトを消す。
「ちょっと外を調べてみよう。一緒に来てくれるかい?」
「はい。もちろんです」
唯が笑顔で答えた。
ここに一人で残すより、自分と一緒にいることが一番安全だ。それに、先日のある騒動で、唯は〝守るだけではなく頼ってほしい〟と言った。妹の言葉はいかなる状況においても尊重するべきだ。
唯の白いネグリジェの上から、ピンクのカーディガンを着せ、ドアノブをまわして外へ出る。〝詩〟の代わりに聞こえてきたのは虫の演奏であった。他人の好みの曲を聴くより、こちらのほうが心地いい。〝詩〟は普段は綾辻お気に入りのクラシック音楽が流れているスピーカーから流れているようだから、これはコテージだけでなく、本館にも流れているに違いない。
あの女の目論見など、俺の手で粉々に粉砕してやる。
尊はドアノブに手をかけ、それを引き開けた。
瞬間、尊の視界から光が消えた。上も下も、右も左も分からぬ暗闇……。
一泊置いて、その中心にスポットライトが当たる。
光の中に、みことと、幼い自分の姿があった。
「いいですか、尊」
みことが、感情のない平坦な声で言った。
「これから教えることは、すべて基礎知識です。知っていて当然、できるのが当りまえ、そう心得なさい」
目のまえの光景と、記憶とが不気味なまでに重なった。
これは四歳のときの記憶。このときから、彼女による尊の教育が始まった。
それは多岐にわたった。生物学や物理学をはじめとして、数学、医学、薬学、法医学、心理学、などの博士号の習得。また、トロッコ問題やカルネアデスの板をはじめとした思考実験。
あるいは、戦術家――孫氏やクラウゼヴィッツ――などの戦術論の議論。また、それを応用した実践訓練。
学問に関しては、一度の説明ですべてを完璧に理解しなければならず、またメモを取ることも許されず、一切の質問を禁じられた。失敗すれば、その日は唯との接触を禁じられた。故に、是が非でも成功させなければならなかった。
また、灼熱、極寒、あらゆる極限状態に対応できることが求められた。
例えば、着衣を着たまま冷たい水の中を泳がされたことがある。あるいは、真っ暗な冷凍庫の中に閉じこめられ、感覚がマヒした状態で拳銃を分解し、または爆弾の解体を要求されたあとで、もとの形に戻すよう言われたこともある。
精神的、肉体的にも常に限界を求められ、三日で白髪に生え変わった。それでも尊は彼女が求めた以上の結果を出し続けた。
それは決して自分のためなどではない。唯を守るため。唯を守るにふさわしい人間になるためだった。
――唯のため。
尊の行動原理はただその一点に集約された。
いまも昔も、そしてこれからも変わることのない、彼の至上原理である。
尊はきつく目を引き絞った。
あの女、一体なんのつもりだ……?
この光景も、尊は直ちに思い浮かべることができる。
人間の記憶は迷宮のようなものだ。〝記憶の迷宮〟に事柄を関連付けて配置すれば、それはいつでも、正しい順番で、また正確に思い浮かべることができる。これもまた、彼女に叩きこまれたことだ。
彼女が尊を教育するのには理由があった。地上……〝家〟の外には、『フレイアX』と呼ばれる怪物が跋扈しているという。それらから、唯を守るための、いわば〝義務教育〟なのだと、彼女は言った。その後で、
「いいですか、尊。あなたはこれから、『フレイアX』と戦うことになる。そうしなければならない状況に、自分から身を置くことになります。これは、予言です」
彼女は、顔色一つ変えず、大真面目に言ったのである。
しかし、結果として、この言葉は正しかった。事実、尊は瀬戸との〝契約〟――唯の『安全地帯』での生活を保障する代わりに、自分の手足として働く――を果たすため、日々こき使われる羽目になった。
「にいさん、今日もおべんきょうですか?」
引き絞った目のさきで、唯が不安そうな声を出した。
このころから、唯は尊を「にいさん」と呼ぶようになり、口調もすこし大人びたものへと変わった。おそらく、彼女の影響を受けたものだろう。
「ああ、唯。いってくるよ」
このときには、尊は現在の性格がほぼ出来上がっていた。絶対に唯を守らなければならないという使命感、彼女の教え、そして『危険区域』での生活……そのすべてを全うするための処世術が必要だった。したがって、尊がいまの性格となったのは当然の帰結といえる。
「にいさん」
唯がうつむきがちに、尊の服の裾をつかんだ。
「なんだい唯?」
「あの……」
それから、唯はしばらく言葉につまった。尊はなにも言わずに、二の句を待つ。やがて顔を上げると、ぎこちない笑顔で言う。
「気をつけて、くださいね」
唯は、いつもそうして尊を見送ってくれた。だから、尊は厳しい教育に耐えることができたのだ……。
前触れなく、広がった光景が泡のように消え失せた。
眼前に、もとの『英霊館』の光景が広がっている。
「やあ、二人とも。おはよう」
部屋を出てすぐ、間の抜けた言葉をかけられた。
見ると、案静が笑みを浮かべて立っている。
「案静さん。ふふっ、おはようございます」
唯がすこし笑って言った。
「よく眠れたかい?」
唯が乗ったからだろうか、案静は続けてとぼけたことを言う。
「おかげさまでぐっすりです。まだちょっと眠いですけど」
「僕もだよ」
案静はキザな仕草で肩をすくめて言った。
「まったく、今日は妙なことが続くね」
会話を聞きながら、尊は内心舌を打った。
また下らんまやかしを……。いや、それはもういい。ともかく、唯に気取られてはならない。いつもとおなじように、振舞わなければ。
「フン。そういう文句は主人に直接言うんだな」
尊は皮肉っぽい視線をむける。そのさきには館の主・綾辻の姿があった。その後ろには、明香もいる。
「やあ、綾辻。おはよう」
誰もが予想しただろうが、綾辻はそれには答えなかった。
「あれは管理室から流れているものだろう。いまから行くつもりだ。うまくいけば、仕掛けた下手人を捕らえられるやもしれん」
言う間に、黒崎と城津も姿を見せる。彼らの寝室は本館にある。彼らも寝ていたらしく、パジャマに身を包んでいる。
「黒崎、城津。さきに行ってみて来てくれ。私もすぐに行く」
「はい」
二人の使用人は小走りに管理室にむかう。
〝詩〟が途中で途切れたところをみると、黒崎たちが止めたようだ。
まったく、夜中だというのにとんだことに付き合わされている。だが、いまは唯がいることだし、みことも絡んでいる。今回は口を出さずにおいてやろう。
「どうだ?」
管理室につくなり綾辻が言った。
「これがセットしてありました」
黒崎がカセットテープを綾辻に手渡す。
どうやらここは、監視カメラの映像を確認する部屋でもあるようだが……。
「ここに来るまでに、だれかに会ったか?」
「いいえ、会っておりません」
黒崎が答えた。
「我々もだ。これを何者かが仕掛けたとするなら、もう館の外に逃げたのか……?」
「その可能性は低い」
こいつらだけに任せていては唯に負担がかかる。さっさと終わりにしなければ。尊が発言したのは、そんな意図あってのことだった。
「管理室近くの窓は壊されてはいないようだし、すべて施錠されている。〝外に逃げた〟可能性はゼロに近い」
言いながら、唯の手をやさしく握る。
「第一、こんな下らんものを仕掛けるためだけに館に侵入する人間がいるのかどうか、怪しいものだ」
「そりゃそうだ」
案静が飄々とした口調で言った。
「念のためだ。カメラを確認しよう」
綾辻の命に従い、黒崎と城津がカメラの映像をライブから録画へと切り替える。しかし、〝詩〟が流れた前後の映像には怪しい人影はなく、また、いかなる異常も見当たらなかった。
しかし、これは予想通りである。あの女が、〝ゲーム〟において、証拠を残すはずもない。残すとすれば、それは……。
「うーん。こりゃどうしたもんかねぇ……」
困ったような声で顎を撫でているが、冗談なのか本心なのか、本心がつかめない。そういうところも、あの男を連想させ、深夜だというのに尊を無意味にイラつかせた。
「弱ったなぁ」
「べつになにも弱らないだろう」
尊がイラついた調子のまま、吐き捨てるように言った。
「外部犯でないなら内部犯というだけの話だ」
「内部犯だと?」
「この中に犯人が……あぁ、なるほどねぇ」
得心が言ったらしい案静が面白そうに顎を撫でた。
「侵入された形跡はない。だとするなら、言うまでもなく、内部の人間の犯行ということだ。おや、ところで一人足りないな」
尊は額に手を当て周囲を見回す。
「三田村か……」
綾辻がしわがれた声で言った。
「そういうことだ。こんな下らんことはさっさと終わらせることにしようじゃないか」
一同は三田村のコテージまで移動する。
このとき、尊はドア付近の床が揺れているのと、壊した鍵が湿っているのを確認した。ゆえに、密室トリックを理解するのに時間はかからなかった。
そして、三田村は浴室にいた。が――。
「唯。見ないほうがいい。こっちへおいで」
自分の後ろから覗きこもうとしていた妹の視界をやさしくふさぐと、そのまま浴室を出る。
彼らの視線のさきに三田村はいた。
青白い顔。その顔は苦痛に染まっている。目にはうっ血が浮かび、なにか、恐ろしいものでも見たかのように見開かれている。彼はタイル張りの床に倒れていた。その手には一本の藁が握られている。
もはや、三田村がこの世の住人でないことは明らかだった。
「おやおや。これは本当に……まいったね、どうも」
案静が、やはりひょうひょうとした口調で言った。表面上は普段とおなじよう取り繕っているが、さすがに微妙に声が上ずっていた。
それが、一同が異常な状況下にいることを、鮮明に知らしめているように見えた。
――女神は詩う すべての罪 罪人を浄化するように
浄化されれば聖人に 浄化されねば罪科に苛む
押し寄せる罪科に溺れ 藁をも掴むが是非もない
尊の脳裏に、あの不気味な〝詩〟が蘇った。




