第三章 『英霊館』殺人事件⑫
〝青龍地区ファンタジーパーク〟。通称、ファンタジーパーク。
その中にある『神聖ローマ帝国美術館』にて、柊兄妹は明香による解説をうけていた。
今朝は尊に怯えきっていた明香も、わずかながら好印象を抱いたようである。もっとも、当人はそんなことに興味はないのだが。
美術館を後にし、くだらないゴマすりをされたあと、三人は食後のデザートとして案静が言っていたアイスクリームを食べた。
そのあとのことである。尊の脳裏に、不意に、ある考えが浮かんだ。
――一人にならなければ。
という、なんともばかげた考えである。
最愛の妹、唯とともに過ごしているにも拘らず、そのような考えが浮かぶなど、およそありうべからざる事態である。加えて、無視できない、絶対に一人になるべきだという考えだった。まさに、〝天啓〟とでもいうべきひらめきだった。
――フン、ばかな。
尊は内心鼻を鳴らし、しかし自らの直感を信じて行動した。唯にちょっと用を足してくるよと言い置くと、尊は人気のない場所へ行く。『点検中』の札がかけられた、アトラクションの裏手である。
瞬間、前触れなく、その場の空気が清浄になったかのような、そんな異様な感覚を覚えた。
――綺麗すぎる。
そのような、奇妙な、バカげた感覚。
ふと、視線がある一点に吸い寄せられた。そこがもっとも、清浄な一点だったからだ。
そこに、一人の女が立っている。
腰まで伸びた長い黒髪。小づくりな顔は目鼻立ちがくっきりしており、人形のような完成された美しさがある。一方で、その表情にはあらゆる感情も浮かんではおらず、どこか作り物めいてもいた。体は細くきゃしゃだが、不思議とそういった感想を抱かせない、人の視線を引きつける圧倒的な存在感がある。色の白い、女。いや、女、というのは正しい呼び方ではない。
――聖女。
そんな言葉が、ふと頭をよぎる。
尊は、その女を知っていた。
その名を、小さく、口にする。
「――最上、みこと――」
「久しぶりですね、尊」
尊の脳裏に、十年前からの出来事が走馬灯のように駆け巡り、すぐに消えた。
「会いたかったですよ尊。本当に」
テーマパーク内にある喫茶店。コーヒーが運ばれ、ウェイトレスが下がったあと、みことがふわりと微笑んだ。以前一緒に暮らしていた時とまったくおなじ、やわらかな、口調。
嘘はついていない。いや、つくわけがない。
ただ言葉を聞いただけで、なぜかそう確信できる、奇妙な感覚。
「会いたかった? フン」
尊は不愉快そうに鼻を鳴らした。
「俺も会いたかったぞ。てっきり、貴様は死んだものと思っていたからな」
五年前のあの朝、突如、みことは姿を消した。まるで、最上みことという存在など、最初からなかったかのように。
「貴様には、訊きたいことが山ほどあるんだ」
「なるほど」
みことはふっと目を伏せた。
「しかし、その質問にはお答えできません。言ったはずですよ。疑問に答えてほしければ、結果を出しなさい」
「五年たっても相変わらずでなによりだ。しかし結果だと? 貴様なんの話をしている? 結果を出してほしいなら主語を入れて話せ。それがない言葉は独り言というんだ」
「そうね」
みことは薄く笑った。それだけで、場の空気が浄化されるような、そんな不可思議な感覚に襲われる。
「でも、予測くらいつくはずよ。言伝を頼みましたから」
「……」
言伝――。たしかに、それは預かっている。先日の一件で関わった西園寺克比古から、「近いうちに会いに行く」という言葉を。
そしてその後、西園寺は殺害された。彼だけでなく、『安全地帯』の最高主権者たる『君主』までが。
西園寺は孤児院の秘密を〝最上みこと〟と名乗る人物から聞かされたと言っていた。まさか、あの二人を殺したのも……。そこまで考えて、尊は内心鼻を鳴らした。訊いたところで、この女は答えまい。
「ゲームをしましょう」
尊の思考を断ち切るように、みことがふわりと微笑んで言った。
「ゲーム、だと?」
「ええ。あなたたちがいま泊まっている『英霊館』。これから、『英霊館』で事件が起きる。その事件を解決し、正しい形に落ち着かせる」
「フン、ゲームねぇ……」
尊が白けた調子で鼻を鳴らした。
「貴様本当に変わらないな。いや、成長していないと言い換えるべきか」
「あなたはずいぶん成長したようですね。育ての親として、とてもうれしく思います」
「ほざけ」
喉の奥で笑い、コーヒーを一口飲む。
「いいだろう。この勝負受けて立つ。どうせ勝つのはこの俺だ」
「決まりですね」
みことがやわらかな声で言った。ただ喋っているだけなのに、不思議と人を引きつける。見ようによっては不気味にもとれる。この女は昔からそうだ。とにかく、本心が読めない。いまなにを考えているのか、さっぱり分からない。
もっとも、それを顔に出すほど、尊は殊勝ではない。
「勝利条件はよく分かった。では、俺が勝利したとき、貴様はいったい俺になにを与えてくれるんだ? 下らん茶番につき合わせるんだ。それなりの報酬はあるんだろうな?」
「もちろんです。あなたがゲームをクリアすれば、あなたの質問に答えましょう」
「質問にね」
尊は軽蔑したように鼻を鳴らした。
「つまり自分の言葉には、この俺を動かすだけの価値があると。ずいぶん傲慢な話じゃないか」
「受けるか受けないかはあなたの勝手です。どうするの?」
「言ったはずだ。受けて立ってやる、とな。貴様の茶番でも、暇つぶし程度にはなるだろう」
偉そうにふんぞり返って尊が言った。
「決まりですね。では、そう伝えておきます」
その、奇妙な言葉にほんの一瞬眉をひそめる。みことは立ち上がると、ふと思い出したように言った。
「それともう一つ、今回の事件で、あなたは自分自身の過去と向き合うことになるでしょう。これは、予言です」
みことは大真面目な口調で言うが、対する尊はバカにしたように鼻を鳴らした。
「それを聞くのはずいぶん久しぶりだ。成長していないようで安心したよ」
その皮肉に、しかしみことは反応を示さない。
「では尊。またあとで」
それだけ言うと、ゆっくりと歩きだす。
この間、尊とみことの視線が合わさることはなかった。
夕刻。尊たちは『英霊館』へと戻った。
みことのことは、唯には話していない。いま話したところで、動揺させるだけだ。まずは、やつが仕掛けた下らんゲームをクリアする。
せっかくの唯との旅行だ。こんな茶番は一分一秒でも早く終わらせなければならない。
くそっ。どいつもこいつも、なぜ唯との時間を邪魔しようとする。尊は心中で舌を打ち、黒崎が食堂の扉を開けた。
つぎの瞬間、尊の視界が暗転した。そこに広がっていたのは、完全な暗闇。上も下も、右も左も分からぬ暗闇……。
(なんだ?)
当然の行動として、妹の安否を確認する。しかし、唯の姿はない。どころか、明香と黒崎の姿も消えていた。
(なにが起きている……?)
一泊置いて、暗闇の中心に、スポットライトが当たる。
ライトの下にいたのは、ベッドで眠る唯、そして、その傍に立っているのは自分、そして、最上みことだ。
(これは……)
自分の姿は現在のものではない。これは、昔の……『危険区域』で生活していたときの自分だ。みことは昔から、まったく変わっているように見えないが、いつの記憶かはハッキリと分かる。これは……。
(俺の、記憶……)
十二年前の、尊の記憶だ。
「いいですか、尊」
みことが言った。鈴とした、鈴の音のような、聞くものに不思議な余韻を残す声……。
「彼女は、とても尊い存在です。私たちにとっても……当然、あなたにとってもね。だから、たとえ命に代えてでも、唯を守らなくちゃダメよ」
朽ちたイスに、さびれた電光掲示板。以前は〝駅〟として多くの人間が利用した場所だが、現在ここを使用しているのは三人しかいない。
ここは、尊たちの〝家〟だった。
「命に……代えても……?」
尊がぽつりとつぶやいた。その視線は、唯に固定されており、揺らぐことはない。
「そうよ」
彼女の視線もまた、唯をとらえて離さない。彼女はそのまま続ける。
「あなたは、唯を守るために存在しているの。唯なくして、あなたは存在できない。彼女に仇名す者は、だれであろうと……いえ、なんであろうと、あらゆる手段を用いて排除なさい。それができないなら、あなたに存在価値はない」
「唯、なくして……」
これは、柊尊の最初の記憶。一番古い記憶を手繰り寄せると、決まってこの光景が思い浮かぶ。
脳裏に、さきほどの尊の言葉が鮮やかによみがえった。
(―― 「それともう一つ、今回の事件で、あなたは自分自身の過去と向き合うことになるでしょう。これは、予言です」――)
これも、みことの仕業なのか? あの女が、下らんまやかしを見せているのか? 尊は皮肉っぽく鼻を鳴らした。
「しっかりと、唯を見ていなさい。決して目を逸らしてはいけません。でなければ、取り返しのつかない出来事が起きる。これは、予言です」
みことが平坦な声で言った。
視線のさきで、幼い自分が妹の頭をなでる。
「んっ……」
唯はすこし頭を動かしてくすぐったそうな声を出す。
「あっ。ごめんよ唯。起こしちゃったかな……」
「うぅん。だいじょうぶ」
眉をハの字にする兄に、妹はやさしく笑いかけた。
「おにいちゃんは……だいじょうぶ?」
「うん。大丈夫だよ」
尊は安心させるようにニコリと笑った。
胸が締めつけられるような痛みに、尊は思わず顔をしかめた。妹に心配をかけてしまった。その事実にだ。
このとき抱いた感情を、今でもはっきりと覚えている。
――守らなければ。
使命にも似た、思いだった。
このかけがえのない、大切な少女を。なにがあっても、守る、と。
唐突に、目のまえの光景が泡となって消え失せた。
見慣れた『英霊館』の食堂が、そこにあった。まるで、さきほどの光景など、最初から存在しなかったかのように。
「兄さん?」
棒のように立ち尽くす尊を、唯がうかがうように呼んだ。
「なんでもないよ、唯」
すぐさま笑みを浮かべ、安心させるように言った。
あの女がなにを企んでいるか知らないが、下らん過去を見せて動揺させようとしているのだとしたら、なんともバカげた話だ。あの女を買いかぶっていたことになる。
相変わらず無表情の黒崎の横を抜け、二人はドアをくぐって食堂へ入る。
そこには見慣れない男の姿があった。おそらく、仕事で遅れると言っていた来客だろう。
楽しめたかいと訊く案静には、唯が応対してくれた。
「そりゃよかった。楽しんでもらえたなら、地区長冥利に尽きるよ」
案静が唯に言った。
「金銭面でしか役に立っていない男が言う言葉とは思えんな。あれを造ったのは、べつに貴様ではないだろう」
尊がバカにして言った。
「そうは言うけど柊君、やっぱりお金は重要だよ。先立つものがなくちゃなにもできないからね。お金がなければ、『安全地帯』だって、できなかったんだから」
やはり案静は気にしたふうもないが、綾辻の体面に腰かけていた男は、尊に対し、軽蔑したような視線をむけた。
「柊君、いちおう、彼を紹介しておこう」
綾辻がしわがれた声で言って、今朝まで見なかった男を視線でさした。
「彼は三田村義彦。警視庁の元公安部参事官だ。いまは、中央省警保局にいる」
「よろしく柊君。君の噂はいろいろなところで耳にするよ」
皮肉っぽく言うと、尊を挑戦的に見た。
「その若さで『騎士団』幹部とは、よほど優秀なんだね」
その言葉に隠された糸と敵意を、尊は正確に読み取った。そのうえで言う。
「フン。貴様こそ、元上司の館に重役出勤とはなかなか大物じゃないか。だが残念だな。言いたいことがあるなら、もっとハッキリ言うべきだ。貴様ら官僚の悪い癖だぞ」
場の空気が張りつめるも、尊は一切気にしない。
「噂どおりの男だな」
そのあらゆる意味にとれる言葉に、尊は挑戦的に笑う。
「どうやら、噂が本当かどうかを実証する程度の知能は持ち合わせているらしいが、俺は貴様になにかしたかな?」
「君はなにもしていないし、私はなにもされていない。そう身構えないでくれ。いまの発言に他意はない。単なる感想だよ」
ニコリと、胡散臭い笑みを見せる。
――なるほど。
尊は唇に皮肉な笑みを浮かべた。三田村がどういった人物なのか、この短時間で正確に推察することは、そう難しくなかった。
「あいさつもすんだところで、そろそろ食事にしようか」
尊が口を開きかけたとき、綾辻がくいこませるように言った。




