第二章 『英霊館』殺人事件⑨
夕食の時間となり、一同はそれを食した。
口に出す者はいなかったが、彼らの胸の内に黒い影がおりていたことは否めない。食後のコーヒーが出されることもなく、その場は解散となった。
ただし、前日とおなじく、必ず二人以上で行動すること、不用意に外を出歩かないこと、また、深夜零時まで一時間ごとに黒崎と城津が二人で見回りをすることとなった。
「なんだか、大変なことになってしまいましたね」
唯がすこし笑って言った。
コーヒーを入れると、それを音をたてないように尊のまえに置く。もちろん、砂糖は三つ入っている。
「そうだね。まあ、仕方がない。こういうこともあるさ」
兄も明るく答えた。
「あの、兄さん……」
唯がゆっくりと、うかがうように口を開いた。
「なんだい?」
「兄さんは……ひょっとして、どなたが犯人か分かってらっしゃるのですか?」
「どうして……そう思うのかな」
「いえ、なんとなく……そんな気がしたものですから」
いつもならば、すぐにでも返ってくる明瞭な答えが返ってこなかった。尊はちょっと驚いたように唯を見た。ただし、それは一瞬とも呼べないような短い時間だった。
それから尊は言葉を発さない。何事かを考えているように見える。ひょっとして、兄を困らせてしまっただろうか。
唯が発言を取り消そうとしたときだった。
扉が小さくノックされた。
「柊様。お二人とも中にいらっしゃいますか?」
執事の黒崎の声だった。取り決め通り、見回りに来たのだろう。
「ああ」
「はい。います」
尊がそっけなく言った。その声色には、ほんのすこしだけ苛立ちの色があるように感じられる。双子の妹で、いつでも兄と一緒にいた唯だからこそ感じとることのできた、極わずかな〝揺れ〟だった。
「なにか、問題はございますでしょうか」
城津の声が続いた。
「問題ない。とっとと失せろ」
「おかげさまで、とても快適に過ごさせていただいてます」
双子はやはり対照的な返答を返す。
「それは結構でございます。それでは、また一時間後に参りますので、それまでになにかありましたら……」
そのときだった。
黒崎の言葉を遮るように、それは鳴りだした。
『――女神は詩う。すべての傲慢 不遜を浄化するように
浄化されれば聖人に 浄化されねば咎人となる
女神も見放し 奈落へ堕ちるが慈悲は無し――』
昨夜とおなじように、鳴りだしたそれ――『女神の詩』。地下の拷問部屋で拾った紙に書かれていたのとおなじもの……。尊はとっさに腕時計を見る。時刻は午後十時。鳴りだしたのは、昨日より四時間はやい。
「兄さん」
唯が目配せをする。一刻もはやく行かなければ、昨日の二の舞だ。
「そうだね唯。行こうか」
妹の手を取ると、尊は扉を引き開けた。雨脚は弱まったようだが、まだ雨は降っている。
「ひ、柊様……これは……」
傘を差した黒崎が強張った声で言う。城津も怯えた表情をしていた。それは無理もない。この〝詩〟がなったあと、三田村がああなったのだ。怯えるなというほうが無理だ。彼らの脳裏に、まるで稲妻のように、昨夜の出来事が蘇る。
そして、これから起こる最悪の状況へと、否応なしに思考がすすんでいく……。
昨夜行われた〝告発〟によると、罰が下されるのは、三田村、綾辻、案静の三名である。三田村はすでに殺された。いまここにいない者は、綾辻と案静のみ。
「貴様らは主人のもとへ行け。平安京は俺たちが見に行ってやる」
ナチュラルに名前を間違えた尊だが、それを指摘する者はいなかった。理由は単純で、それどころではないからである。
綾辻を執事とメイドに任せ、尊と唯は案静のもとへとむかう。
すると、途中で傘を差した案静と出くわした。
「やあ、二人とも」
軽く手を上げて挨拶をするが、さすがに昨日のような軽口を言うことはなかった。
「フン。それだけか?」
「一応これでも自重してるのさ」
キザったらしく肩をすくめてみせる。
「なぜ外に出ている? 出るなと言われていたはずだ」
「そりゃまたこんなものがかかってきたら、出ちゃうよ。それに、君たちだってそうじゃないか」
尊はまた鼻を鳴らした。
「まあいい。しかし弱ったな。貴様が無事ということは、これはいったいなにを指し示すのだろう」
ちっとも困った様子もなく尊が言う。
「うん、そうなんだ。三田村君が殺されたときもこの〝詩〟が流れてた……でも、僕は無事だ。ということはだよ」
「〝告発〟に従うなら、つぎの犠牲者は綾辻ということだな」
いうや否や、尊は地面を蹴って駆けだした。その足の裏からは、『ダークマター』がまるで煙のように立ち上っている。
『女神の詩』が流れ始めて、まだ何分と経っていない。いまなら、部屋にいる犯人を拘束することができるかもしれない。もっとも、綾辻が襲われているなら、の話だが。彼の部屋には、明香もいるはずだ。ということは、彼女に危害が及ぶ可能性も考えられる。
当然、それを考え、兄は急行したのだろう。唯はそう考えた。
『ダークマター』を使用した尊が綾辻の書斎に行くのに、そう時間はかからなかった。ものの数秒で到着することができた。
このとき、尊は書斎の周りには黒崎と城津の足跡しかないことを確認した。
「柊様」
尊の姿をみとめた黒崎が言った。
「状況は?」
「それが、さきほどからお呼びしているのですが、返事がなく……」
見ると、城津が扉をノックし綾辻と明香を呼んでいたが、たしかに返事はない。
尊は一瞬眉をひそめ、
「退け」
その直後、城津の顔の真横をなにかが勢いよくすり抜けた。城津が退くまえに尊が扉を思いきり蹴り開けたのである。
ノックしようと振り上げたこぶしが虚しく宙を叩き、その間に尊はスタスタと書斎に押し入る。
広い部屋だった。床はフローリング。天井は高く、恐らく二階部分をくりぬかれている。天井――天蓋部分はガラス張りで、青白く輝いている。本館とおなじく、壁につけられた照明はついたままになっている。これも、暗闇が苦手という明香に配慮してのことだろう。
争った様子はなく、部屋は整頓されている。ただし、それは無駄なものがないと言ったほうが正しい。本棚にデスクにチェア、必要最低限の物しかない。本館とおなじであった。
しいて言うなら、テーブルの上にティーカップが二つ置いてあるくらいだ。
書斎というだけあって、本の数は多い。大きな本棚にはぎっしりと本が敷き詰められている。
部屋の奥に視線をやると、ベッドが見えた。ほかの物に比べ、この場ではよく目立つ。
シーツが乱れているから、ではない。そのベッドの横で、うつぶせに倒れる一人の男がいたからだ。
そのとき、後ろから案静と唯が追いついてくる気配がする。
「綾辻! 無事……」
無事かい、と言い終えるまえに、案静もその男を見つけたらしい。
「遅かったのか……?」
苦虫をかみつぶしたようにつぶやいた。
「そのようだな」
尊は吐き捨てるように言うと、踵を返し、スタスタと唯に歩みよる。
「唯。見てはダメだ。すこし外で待っていてくれるかい?」
と言うと、今度は執事とメイドに視線を移し、
「あの娘を起こせ。さっさとしないと、あれも死ぬかもしれないぞ」
尊の言葉に、執事とメイドが部屋に踏み入る。ただし、仮にも殺人現場を荒らすことはないよう、綾辻のベッドには近づかないよう言いつける。
明香のベッドは綾辻のベッドからすこし離れた場所にある。綾辻のベッドは部屋の最奥。明香のベッドは手前、外側だった。ベッドは、今回の騒ぎがあってからわざわざ運び込んだらしい。
しかし、いくら呼びかけても、明香が目を覚ますことはない。まさかと思い脈を確認するが、脈はあるし、息もしている。仕方がなく、黒崎と城津が二人係で運ぶこととなった。彼らが出て行くさい、案静は体温計を持ってきてくれと頼んだ。
その後、尊は唯を書斎に入れ、綾辻の死体を見ないよう、離れた場所にいてくれと言った。尊はしゃがんで一応脈を確認する。綾辻の死体はまだ暖かく、死後硬直も始まってはいないようだった。
「ない。やはり死んでいるようだ」
「これで二人目の犠牲者か……。ってことは、つぎはいよいよ僕の番かしら」
案静がいつもとおなじひょうひょうとした口調で言った。この状況でそれとは、なかなか肝が据わっている。
「満を持してと言ったところだな」
尊も軽口を返す。案静は気分を害した様子もなく、はははと笑った。
そうこうしていると、黒崎は体温計を持ってきた。尊がそれを受け取ると、それを綾辻のわきの下に挟む。数分経って、ピピピと音が鳴る。
体温計は35.2度となっていた。
「平熱が三十六度として、まだ死後一時間もたっていない」
「たしかに、死後硬直もしてないね。でも、三田村君の時みたいについさっき殺された、ってわけでもないみたいだね。いまが十時十分だから、死亡推定時刻は九時二十分以降ってところかな」
尊は答えずにまたスタスタと歩いて扉の近くまで行く。彼はさっきぶち壊した扉を調べているようだった。
この書斎のカギはコテージのような簡単なものではなく、内側から錠で閉めるタイプのものだった。そして、そのカギはたしかにかかっていた。それだけでなく、チェーンまでかけるという徹底ぶりだった。
「自分の書斎だけきっちりカギをつけているとは……これはどうしたことだろうな」
尊は鼻を鳴らすと、皮肉っぽい笑みを浮かべて言う。
「つまり、三田村同様、密室殺人ということだ」




