第一章『英霊館』殺人事件②
城津という名のメイドによる朝食がふるまわれ、食後のコーヒーが出された。室内には、綾辻お気に入りのクラシック音楽――幻想交響曲が、蓄音機から奏でられている。
コーヒーを一口すすってから案静が言う。
「そういえば、今日君たちはどこかに遊びに行く予定なのかな?」
「貴様には……」
「今日はファンタジーパーク……? へ行こうと思っています」
関係ない、と尊が言うまえに、唯が言った。
「ほう。それはいいねぇ。あそこは青龍地区で一番大きなアミューズメントパークだから、きっと楽しんでもらえるんじゃないかしら。じつはね、僕もちょっと関わってるんだ。といっても、本当にすこしなんだけど」
「そうなんですか。いったい、なにをされたんですか? ひょっとして、テーマパークを作ったのが案静さんとか?」
「いやぁ、そこまでできたらよかったんだけどね。あいにくあのときは他のことで忙しくて。ただ、出資者の一人ってだけだよ。出資者の欄にはね、僕の名前は一番上に載ってるんだ。お金を一番多く出したものだから」
「あら、立派な立役者じゃありませんか」
「そう言われるとなんだか照れちゃうなぁ。おかげで優先的に入場出来もするんだよ。いや、お金は持っておくものだ」
そのとき、砂糖を三つ入れたコーヒーを啜っていた尊が軽蔑したように鼻を鳴らした。
「金か。あれは一体なんなんだろうな? たかが紙切れ、たかがコイン。だがこの世界はその紙切れとコインがなければなにもすることができないからな。だが、その紙切れとコインでなにをするのかと言えば、せいぜい他人にマウントを取るくらいのものだ。他人よりもすこし高価な服を着て、他人よりもすこし高価な車を乗り回し、他人よりもすこし高価な家に引きこもる……。貴様らは、畢竟他人よりも自分が優れていることを証明するためだけに、紙切れとコインに自分という存在を大安売りしているのだ。バカげていると思わないか? たかが紙切れとコインに支配されているのだからな! これではまるで奴隷だ。これこそまさしく〝悲劇〟だよ。 平安京と言ったか? 笑い事ではない。これは大変な問題なのだ」
綾辻の横で、明香が息を詰めて尊を見ている。この少年はもしかして酔っぱらっているのか、それとも単純に頭がおかしいだけなのか、必死に考えているようだ。
案静はといえば、目じりに涙をためて笑っている。
「いやぁ、柊君、君はやっぱり面白いなぁ」
「面白い? 悲劇を面白いとは、よほど根性のひねた男だな」
根性のひねた少年が言った。
「君の主張にも一理あると思うけど、君だってそういううちの一人なわけだろう? それについてはどう思っているのかな?」
「俺か? もちろん俺は貴様らとは違う。俺は自分のためになど金は使わない。俺の金は唯のためにある。俺は貴様らと違い、自分を安売りなどしない。唯は俺が自分をささげるに足る素晴らしい少女だからな」
「兄さん……またそんな……」
唯は照れ臭そうに尊を見る。妹の視線に気づいた兄は、ニコリと微笑んだ。
「なるほどねぇ。要するに、なににお金を使ったかが問題なわけだ。自分自身を売って手に入れたものなわけだからね。どうせ使うなら有意義に使わなきゃいけない。君にとって、他人の目を気にするのは、〝バカげたこと〟ってわけだ」
「すこしは話が分かるじゃないか。貴様は見所があるぞ。すくなくとも、征十郎よりはな」
「それはうれしいねぇ。でもね柊君、僕はマウントを取るために多く出資したわけじゃないんだ。僕は昔から楽しいことが好きでね。いまはこういう状況だから、皆に笑顔になってもらうために、あそこを作ったのさ。病は気からってね。〝笑う門には福来る〟。笑顔はやっぱり大事だよ」
案静はしかつめらしく語るが、尊はまったく興味がないらしく、
「それは素晴らしいな」
と上の空で言うのみだ。
それから、食堂に気まずい沈黙がおりた。コーヒーを啜る音や、明香の本のページをめくる音……その沈黙を破ったのは、館の主である綾辻だった。
「柊君、部屋のカギはちゃんと持っているかな」
「はい」
尊が答えるまえに唯が言った。
「そうか。昨日も言ったが、マスターキーはいますべて修理中だからね。なくさないように。案静もだ」
「はいはい」
案静は分かっているとばかりに肩をすくめてみせた。
「ところで、柊君、君に一つ頼みたいことがあるのだが」
「断る」
遮るように言うと、コーヒーを一口啜る。唯が「兄さん」と短くたしなめ、
「なんでしょう? もし、私たちにできることでしたら……」
「ああ、そうだな。こういうことは、君のほうが適任かもしれない」
特に他意のある言葉ではないように思うが、尊は皮肉と受け取ったのかもしれない。フンと鼻を鳴らしてそっぽをむいた。
綾辻は唯に向き直り、
「今日、出かける予定があるのなら、明香を連れて行ってはくれないか?」
その言葉は明香にとっても予想外だったのだろう。彼女は本から顔を上げると、怪訝そうに綾辻を見た。
「明香さんを? はい、もちろんいいですよ。明香さんさえよろしければ……」
明香は不安そうに唯を見て、ふたたび視線を綾辻に移す。
「ご一緒してきなさい。ずっと館に閉じこもっていては気が滅入るだろう」
「はい……」
明香はうつむきながら、消え入りそうな声で言った。
「そういうわけだ。悪いが、よろしく頼むよ」
「はい。任せてください」
やわらかく微笑む唯の横で、不満気な顔をしているのはもちろん尊である。もっとも、これは彼にしてはかなり大人しいほうだ。承諾したのが唯でなかったら、たちまち長々と皮肉を飛ばし、皆を辟易させたに違いない。
「唯君」
と案静が言った。
「あそこに行くなら、はやめに出たほうがいい。なにせ混むからね。園長には僕から話を通しておくから、優先的にアトラクションにも乗れるし、入園もできる。だから、そこは安心してくれていい。それと、あそこは売店で売っているアイスが絶品でね。ぜひ食べてみてくれ」
しかし、それに反応したのは意外にも尊だった。
「柊君、君も普段から瀬戸にこき使われて疲れているだろう。仕事のことは忘れてゆっくり遊んでくるといい。明香君も、楽しんできてくれよ」
そう言って、コーヒーカップを目の高さまで持ち上げてみせる。この男、ひょうひょうとしていながら、こんなキザな仕草がよく似合う。
尊はそれを一瞥するとフンと鼻を鳴らし、
「おまけがついてこなければ、俺もその言葉に気の利いたことを返せるんだがな。人生というのは本当にままならないものだ。そう心配するな、面倒ごとには慣れている。貴様の箱入りも、せいぜい楽しませてやるさ」
と、せいぜい毒づくのだった。
――青龍地区。
この地区が『安全地帯』の中で最も〝アミューズメントパーク〟に力を入れているというのは、前述したとおりである。
地区長を務めるのは案静義満。『英霊館』にいた、あのひょうひょうとしたキザな男である。
彼は綾辻とは昔馴染みで、いまは休暇を利用して『英霊館』を訪れているらしい。
『安全地帯』建設の立役者の一人でもある案静は、「こういうときこそ、憩いの場が必要だ」という言葉のもと、青龍地区の運営に乗り出した。瀬戸が中央省を設立し、『騎士団』を率いて『フレイアX』討伐を行う中、案静は遊水施設や動物園や遊園地など、様々な施設を設置し、青龍地区を完成させた。
特に、いま尊たちが来ている施設は、案静が一番力を入れている施設でもあるらしい。
そうして青龍地区は『安全地帯』の中で、〝最も安全な地区〟とまで呼ばれるようになった。
と、ここまでが、昨日、訊いてもいないのに、案静がペラペラと喋っていたことである。
もっとも、その程度のことは、事前情報として知っていたし、永遠その話を聞かされるのは、兄は苦痛と感じていたことだろう。だから途中から辟易した表情だったに違いない。
「明香さん、大丈夫ですか? 疲れていませんか?」
唯の問いに、明香は俯きがちにこくりと頷く。
目的地に到着したときの唯の言葉である。その言葉と表情は、心から明香を気遣っているものであり、疎ましく思っている様子など皆無である。その感情を抱いているのは彼女の兄なわけだが、彼はそれを隠そうともしないので、明香は一度も視線を合わせようとしなかった。
〝青龍地区ファンタジーパーク〟。通称、ファンタジーパーク。それが、尊たちの目的地だった。
案静の言葉通り、ここはアトラクションも豊富なようだし、動物園スペースや、果ては博物館まであるようだ。
今日は平日だが、それでも客数は多い。アトラクションにも、長蛇、とまではいかないが列ができていた。
アトラクションの種類もじつに豊富だった。
ゴーカートや観覧車、お化け屋敷。絶叫系はジェットコースターというメジャーなものもあれば、両側の柱に長いゴムをしばりつけ、パチンコの要領で人を飛ばすというものまである。着地地点は綿密に計算され、余裕をもってマットレスが敷かれてはいるが、危険なアトラクションと言えるだろう。しかし、やっている人は意外にすくなくない。スリルを好む人間というのはどこにでもいるのかもしれない。
唯はいま、外出用の白いワンピースに身を包み、長い黒髪を一束にまとめていた。
明香もまた、白い肌とおなじ純白のワンピースを着ており、おなじ色の日傘を差していた。二人は、はたから見れば姉妹のように見えるかもしれない。すこし後ろで仏頂面で突っ立っている少年は、さしずめ用心棒と言ったところか。
〝楽しいことが好き〟とか、〝憩いの場が必要〟と言っておきながら、正式名称に『青龍地区』と付けたり、パンフレットには案静のインタビューが乗っていたりと、そういったところには抜け目がないようだ。記念碑には、彼の言葉通り一番上の目立つところに〝案静義満〟の名があった。
「さて唯。まずはどこに行こうか。どこでもいいんだよ。なんでも言ってくれ」
「そうですね……」
唯はちょっと考えてから言った。
「私は博物館に行きたいです」
「博物館?」
「はい」
と唯は答え、
「明香さん。さっき館で神聖ローマ帝国の本を読んでらっしゃいましたよね? 昨日案静さんからお聞きしましたけど、ここにはローマ帝国の博物館があるそうですね」
明香はこくりと頷く。
「青司さんが、案静さんに頼んで造ってもらったの。……あの人、興味あるみたいで……」
「もしよろしければ、博物館で解説していただけませんか? じつはわたし、まえから興味があったんです」
唯は明香の顔色をうかがうように言い、
「あ、もちろん無理にとは……」
しばらく俯いていた明香だが、やがて消え入りそうな声で言う。
「私で、よければ……」
「ありがとうございます。じゃあ、行きましょうか」
唯はやわらかく微笑み、明香の歩調に合わせてゆっくりと歩きだす。
その後ろから、仏頂面の少年が続く。なんでも言ってくれと言ったためし、文句を言うことはできないのだろう。兄は、いつもこうして自分のことを尊重してくれている。申し訳ないとも思うが、唯はそんなやさしい兄が大好きだ。
舌打ちもしなければ、憎まれ口も叩かないし、皮肉も言わない。柊尊という少年にしては、あまりに大人しすぎる対応である。もし彼と日常的に接している人間がここにいたら、心底驚くことだろう。
もちろん、明香はそんなこと知る由もないので、相変わらず尊とは視線を合わせようとしないのだが。
青龍地区ローマ美術館。その内部を、三人の少年少女が行く。
「帝国の成立は、九世紀から十世紀ごろと言われ、教皇と皇帝の二つの中心を持つ帝国なの」
神聖ローマ帝国はおよそ千年続いた国家である。美術館は五階建てで、一階につき二世紀分の歴史、調度品が展示されている。一階に展示されているのは、九百年代から千年代までだ。
「〝神聖ローマ帝国〟という呼びかたは有名だけれど、そう呼ばれるようになったのは千二百年半ばからで、それまでは『ローマ帝国』や、ただ『帝国』というように言われていたの」
ここには帝国に献上された物から、王が使っていたとされるグラスまで様々なものが置かれているが、そのすべてはレプリカである。
「十八世紀まで続いた帝国だけど、全盛期は十一世紀。十六世紀以降は衰退していくだけだった……」
明香の解説を聞きながら、柊兄妹は赤じゅうたんのひかれた螺旋階段を上っていく。
「宗教戦争は一切なかったとされてるローマ帝国でも、その裏側では、〝教皇派〟と〝皇帝派〟によって、熾烈な戦いが行われていて……」
静かに耳をかたむける唯だが、尊は興味をなくしたように白けた表情をしていた。
「その戦いは教皇派が勝った……でも、宗教戦争は戦い終わった後が一番厄介なの。皇帝派の人たちは、いままで信じていたものを否定された……だから、教皇派の人たちが禁じていることもいままでのようにしてしまう。そのたびに処刑される……」
そこで明香は物憂げに目を伏せた。
「それにくらべたら、いまは単純でいいよね。良いも悪いもない。自分が信じたいものを、自由に信じることができるから……」
ここまで黙っていた尊が、軽蔑したように鼻を鳴らした。
「思想は自由な国だからな」
皮肉っぽく言って続ける。
「それが本当に、考え抜いた末の答えであれば、なにも問題はないがな。この国の連中は日和見が過ぎる。この異常な状況下においても、『安全地帯』の連中は平和ボケしているのだから、まったく関心するよ。
すこし考えればおかしいと分かることも、連中は〝そういうもの〟としてしか考えない。あらゆることに盲目的になっているから、肝心なことに気づきもしない」
「そうだね……」
明香は尊の言葉に怯えることなく、短く同意した。唯はそれをすこし意外に思った。
「でも、宗教っていうのは、そういう人たちの為のもの……きっと、あの人たちは、なんでもいいから縋るものが欲しいんだと思う……」
「分かってるじゃないか」
尊が喉の奥で笑いながら言った。
「宗教には善も悪もない。善悪を決定するのは、それを信じる側の人間だ。盲目的になれば、それはたちまち悪となる。
いまは単純でいいと言ったな? そんなはずはない。『危険区域』を見ろ。外を我が物顔で跋扈するあの連中……あれこそ、文字通りの〝成れの果て〟ということだ。
常に考え、決定し、行動する。〝考える〟という人間に与えられた最大のアドバンテージを自ら放棄するなど、愚かというほかない」
尊の言葉には、いつものように、人を小ばかにしたような、見下したような響きはない。どこまでも真摯で、まっすぐだ。
それ故に、その言葉は明香が怯えることもなかったのかもしれない。
「うん。そうだね」
そう言った明香の横顔は、心なしか、すこし笑っているように見えた。もっとも、そう思ったときにはすでにいつもの表情に戻っていたので、見間違えだったのかもしれない。




