あの日を遠く離れて②
「あれ、柊くんは?」
しばらく詩織と談笑していた朱莉が、一人減っていることに気づいたらしい。あたりをきょろきょろ見回して言った。
「お帰りになりましたよ」
「ええっ!? もう、なんでそんな……」
面倒になって帰ったのだろうか。
一言声をかけてくれてもいいと思うのだが、なにも言わずに帰るほうがあの少年らしいと言えばらしい。
「ひょっとして、私たちに気を使ってくれたのかな?」
そんなふうに好意的な解釈ができる詩織がうらやましい。自分もほんの一か月前まではこうだったのだと懐かしく思う。
そんな妹に対し、とてもではないが「唯ちゃんに会いたくなっただけだと思う」とは言えなかった。
「まあ、彼のことはいいではありませんか」
いままでのことを思い出したのだろうか、西園寺は辟易したように言った。
「それより、お二人はどんな話をされていたのですか?」
「夢の話です!」
と詩織。
「夢?」
「はい! 西園寺、私たちすごいんですよ! おなじときにお互いの夢を見てたみたいなんです!」
「はあ……?」
首をひねる西園寺に、朱莉が説明する。
「私が詩織の夢を、逆に詩織は、私が孤児院で暮らしている夢を。夢のなかで、入れ替わっていたみたいなんです」
「ほほう、それは興味深いですね」
「そうでしょうそうでしょう!」
なにが面白いのか、詩織は笑顔で言う。つられて西園寺も笑顔になった。
「ほかにはどんな話を?」
「いままでの話をしていました」
と答えたのは朱莉だ。
「私が孤児院でどんな生活をしていたのとか、逆に詩織はどんな風に生活していたのとか」
「ここでの“しきたり”はいまもきらい。覚えるのも大変だったし、ちょっとでも間違えるとすぐに怒られるんだもん」
「それは申しわけない」
西園寺はすこし困ったように笑う。
詩織が宮殿で行っていた“しきたり”とは、すなわち『女神』が『女神』であるべき条件を満たすための決まりごとだった。
計画を成功させるために、かなり厳しく叱責されたこともあった。
詩織にとって、ここでの“しきたり”は、煩わしいものでしかなかった。
もっとも、『女神』は朱莉に宿った可能性が高まり、最近はあまりうるさく言われることもなかったが……。
「西園寺が謝ることじゃありません」
「では、これからはきちんとやってくださいね」
「うっ、がんばります……」
肩を落としながら言う詩織は、うつむきがちに続ける。
「あの、それで……お願いがあるのですけれど……」
「なんですか? 私はこの通り、もう無理はできませんよ」
「ほかの人がいないときは、私のことを“詩織”と呼んでくれませんか?」
顔色をうかがうように詩織は言う。その姿はまるで捨てられた子犬のようだった。
最初は意外そうな顔をしていた西園寺だが、やがて父が娘にむけるような柔和な笑みを浮かべる。
「分かりました、詩織。これからはそのようにしましょう」
「! ありがとうございます!」
まるで太陽のように明るい笑顔に、西園寺はまぶしそうに目を細める。
「じゃあ、私のことも“朱莉”って呼んでください。詩織がいいんだから、私もいいですよね?」
「……はい、朱莉」
「はい、西園寺さん」
笑う朱莉を見て、西園寺はしみじみ思う。
いままで、この少女たちを見守っていてよかった。自分の知らない間に、とても大きく成長していたのだ。
子供の成長はとても速い。間近で見ていて分からないのだから、写真などでは分かるはずもない。もっとも、まったく成長が見られない少年もいるようだが。
「あ……」
と、朱莉がふと思い出したように言った。
「詩織まえに、私に名前考えてって言ったよね? 本当の名前は分かったわけだけど……どうする?」
「できればその名前も教えてほしいな。お姉ちゃんが私のために考えてくれたんだもん」
「ごめん……あれからいろいろあったから、まだ考えてないの」
「そっか……」
詩織は残念そうにうつむいた。
「で、でも! きっと考えるから!」
慌てて言いつくろうと、詩織は微笑んでくれた。
「うん。待ってるね」
仲睦まじい二人を見ていると、どんな疲れも吹き飛ぶようだ。
西園寺は親心から訊いてみる。
「朱莉、あなたはこれからどうするおつもりですか?」
「私は普通の生活に戻ります。大丈夫ですから、心配しないでください」
しかし、西園寺はまだ心配そうだ。
「本当に大丈夫ですって! なにかあったら、今回みたいに柊くんも力になってくれると思いますし! ……たぶん」
前半の勢いがウソのように、最後の一言は消え入りそうなくらいちいさくなってしまった。
「お姉ちゃん、困ったことがあったら、なんでも言ってね? 私、力になるから」
「うん。ありがとう。詩織は……」
「私はこれまでとおなじかなぁ……」
詩織は辟易したように言った。
「正直、ちょっと面倒くさいけど、仕方ないよね……」
急に元気をなくした声で言うと、今度は妙案を思いついたというように言う。
「そうだ! お姉ちゃん、今回みたいに、ときどき入れ替わってくれない?」
「えー……」
朱莉にしては珍しく、いやそうな声を出す。
西園寺も呆れた目をむけていた。
大好きな人たちとの普通の会話。
これが詩織が望んでいたものでもあった。
ようやく手に入れることができた、幸せな空間。この時間は、もっと続くものだと思っていた。
しかし、それはあまりにも唐突に、いとも簡単に終わりを告げる。
カツン、
その足音は、静かに、耳の奥まで響き渡った。
「「「!?」」」
突然の来訪者に、三人ははじかれたように視線をむける。
入り口に、一人の女が立っていた。
白い肌を黒いリクルートスーツで包み、感情の読めない、能面のように平坦な表情をしている女。三人は、この女に見覚えがあった。
「……白瀬、さん?」
朱莉が名前を呼ぶまに、彼女は詩織との距離を詰めていた。
「!?」
その手に、握られているものを見た瞬間、西園寺の顔色が変わった。
「詩織ッ‼」
無理やり体をたたき起こし、両者の間に割って入る。
ギィンッ、
と硬質な金属音が響き、朱莉と詩織を両脇に抱えあげると、素早く距離をとる。
「これはいったい、どういった趣向ですか? 白瀬さん。冗談ではすみませんよ」
白瀬――玄武地区元地区長、朝桐の秘書だった女は、答えずにナイフの切っ先を三人にむける。
「お二人とも、私のそばから離れないように」
二人を守るように一歩前にでると、腰を屈めて柄に手をやる。
尊との戦いで、体は疲れ切っている。この状態では、満足に『銀狼』を使うことも、戦うこともままならない。
だが、相手は女一人。持っている武器も『銀狼』ではない。ただのナイフだ。
一撃で決めるしかない。
西園寺は白瀬を見据える。このような状況でも、西園寺の構えには一分の隙もない。
「これが最後通告です。武器を捨てなさい」
白瀬は答えない。どころか、眉一つ動かすことはない。息をしているかどうかさえ危うい、人形のような不気味さがある。
――致し方ない。
それはほんのわずかな動きだった。この距離では、目視することさえ敵わないほどのちいさな動き。
「――」
目にもとまらぬ速さで抜刀された――しかし、斬撃が飛ぶことはない。
これはブラフ。だが白瀬は、いまので『ダークマター』による攻撃を警戒したはずだ。
本命は……。
「そこだっ!」
振り向きざま、西園寺は懐から取りだしたナイフを背後にいた白瀬に投射した。
それは見事に肩に突き刺さる。神経毒の塗られたナイフだ。
これで身動きは――。
なかば勝利を確信した、その慢心が、彼の目算を打ち崩していく。
いままで無表情をたもっていた白瀬の唇が、ほんのわずかに、皮肉な形に歪む。
毒でしびれているはずの体をしなやかに動かし、彼女はナイフをふるう。
その狙いは――。
「詩織!」
反射的に叫ぶと、なんとか自分の後ろに引き寄せようとするが、ダメだ。
――間に合わない。
「詩織っ!」
白瀬のナイフが、詩織にとどくその刹那、両者の間に割って入った人物がいた。
「い……いやぁあああああああああああああああああああああああああああっっ‼」
言葉を失う西園寺とは対照的に、詩織は狂ったような叫び声をあげた。
「そ、そんな……! お姉ちゃん……! お姉ちゃん目を開けて! ウソだ……ウソだぁああああああああああああああっ‼」
自分に覆いかぶさり、ピクリとも動かない姉に、もはや詩織は正気を失っていた。瞠目した目からは涙が滝のように流れ出て、壊れたように頭を掻きむしっている。
そしてそれは、詩織だけではない。
さきほどまで自分に笑いかけていた少女は、ときがとまったかのように動くことはない。
――あの子たちをお願いね。
美神との約束が頭によみがえる。
しかし、もうその少女は、永遠に動くことは……。
「貴様ぁあああああああああああああああああああああああああああああああああッッ‼‼」
それは叫び声などではない。獣の咆哮だった。
全身が軋みをあげることもいとわずに、『銀狼』を一閃、居合の斬撃が白瀬を襲う。
――が、
「な、なん……だと……?」
たしかに西園寺の『銀狼』は白瀬の肉体を直撃した。
にもかかわらず、
「無傷……そんなはずは……」
白瀬は傷一つ負っていない。それどころか、スーツにも切り傷一つついていない。
いったいなにが起こっているのか……。
だが、いまの西園寺にはそんなことを考える余裕すらない。
軽々と、じつに軽やかに繰りだされた白瀬の蹴りは、西園寺を数メートルほどふっ飛ばした。
「さ、さいおん」
名前を呼び終わる直前、それは強制的に止められた。
白瀬のナイフが、詩織の頸動脈を掻っ切ったのだ。
西園寺が見ている、そのまえで。
にもかかわらず、彼はなにもすることができなかった。
まるで噴水のように血が噴き出し、あたりに鮮血をまき散らし、その目からは見る見るうちに生気が失われていく。全身から力が抜けた詩織は、朱莉に覆いかぶさるようにして倒れこんだ。
「朱莉……詩織……」
その名の少女たちは、たとえ自分の命に代えても、永遠に守ると誓ったはずの少女だった。
いままでの記憶が、残酷なまでに鮮明によみがえる。
生まれたばかりの二人を見たとき、目元がミカミと似ていると思った。
“しきたり”を必死に覚えようとする詩織。間違えて叱責されたときは、いつも西園寺が慰めていた。そばにいて見守るだけで、とても幸せだった。
朱莉の写真を見るたびに、美神に似てくると思った。双子なのに、なぜか朱莉のほうがそう感じた。
孤児院でも、孤児たちの姉役となり元気に暮らしているという話を聞き、とてもうれしかった。
美神から頼まれた、それだけが理由ではない。
あの少女たちを見守ることが、西園寺の幸せだった。
それなのに――。
「……な、なぜ、こんな……」
しぼりだすような言葉に、返答はなかった。
もう、体に力が入らない。
西園寺の心臓に、ナイフの切っ先があてられる。
「――」
最後に、なにか言葉が聞こえた気がする。
その直後、西園寺の意識は途絶えた。




