断章 終わりの始まり
朱莉が十歳になったときのことだ。星野孤児院に大きな変化が起きた。
具体的には、孤児が増えた。
仮にも孤児院などという看板を掲げておきながらいままで朱莉しかいなかったのは、表向きには計画には美神朱莉さえいればいいのだからほかのものは不要という考えだが、実際には予算がないというなんともお粗末な話だった。
そもそも“秘匿組織”なのだから、律儀に孤児を集める必要もないのだが、ここにきてそれをしだしたということは、一つは予算が増えたということ。もう一つは、増えた予算を使わなければ来年度からの予算が減らされてしまうという懸念があるためだろう。
あるいは、万が一孤児院の存在が明らかになったとき、『予算を使って身寄りのない子供たちを育てていた元防衛省』として、支持を集める魂胆かもしれない。
表向きの実験が、なまじ“成果”を見せてしまったために、パトロンが予算を増やしたということだろうが、状況が変化して真っ先に苦労することになるのは、いつだって現場の人間なのだ。
しかし、環境が変化すれば、人間というのもまた変化するものらしい。
「こらー! 待ちなさーいっ!」
風呂から上がり、裸で孤児院を走り回る五歳ほどの少女を、これまた裸の朱莉がバスタオルをもって速足で追いかけていく。
「こら、走らない! ほら、床がびっしょじゃないの!」
「だって……」
と朱莉は不満そうな顔で祥子を見る。
それもそうだろう。“妹たち”をお風呂に入れてあげなさい、と言ったのは祥子だ。言われたとおりに風呂に入れ、体をふかずに走りだした“妹”を追いかけただけなのだ。朱莉にしてみれば、言われたことをやっているだけ。怒られるいわれはない。
「ごめんなさい。朱莉はお手伝いしてくれてるのよね。ありがとう」
ニコリと笑って頭をなでると、
「じゃあ、ほかのみんなを見ててくれる? あとはお母さんに任せなさい!」
とガッツポーズをして見せる。
手伝ってくれるのはうれしいし、とてもありがたいのだが、朱莉が走っているところを見るときが気ではない。なにも全速力で走っていたわけではないので大丈夫だとは思うが……。
朱莉は祥子に頼まれたのがうれしいらしく、笑顔になる。
「うん! 分かったっ!」
“妹たち”――つまりは、孤児としてここに来た子供たちのことだが――は、共通している点があった。それは、全員少女だということ。少年……男は一人もいない。
エグイ話になるが、『危険区域』において、孤児という存在は珍しいものではない。十年前の事故により、両親を失った子供たち。彼らは成人するまえにそのほとんどが死亡している(散発的に派遣される『フレイアX』討伐組織、『騎士団』が、その死体を頻繁に確認していた)。
いま『危険区域』で言う孤児というのは、事故のあと、性行為によって生まれた子供たち。
いや、乳幼児をさす言葉となっている。
自分一人生きることさえままならない。
そんな場所で、子供など育てられるはずもない。かといって、以前のような医療体制が敷かれているわけでもない。結果、捨てるという行動をとるのも、致し方ないことなのかもしれない。
加えてもう一つ問題がある。その性行為が、必ずしも合意の上とは限らない。無理やりされるというケースも、すくなからず存在するだろう。
無法地帯である『危険区域』では、文字どおりなんでもありだ。そう言った過程で生まれた乳幼児が、そこら中に捨てられているといった話も聞く。
『危険区域』における孤児とは、乳幼児……正確に言えば、乳幼児の死体を意味している。
そんななか、彼女たちはどこから来たのか。
祥子の当然の疑問も、しかしたちまち分厚い壁によって跳ねかえされた。
彼女たちの経緯についても、一切が“極秘事項”として扱われていたのだ。
ついでに男がいない理由も訊いてみたが、それについても、やはりおなじ返答が帰ってきた。
――またか。
と思ったものの、もうこんなことには慣れっこだ。
教えてもらえないのなら、それでもかまわない。自分は仕事を全うするだけだ。
星野孤児院が設立されてから、十五年が経とうとしていた。
「ほら、またこぼして……もっときれいに食べなさい!」
「こらっ! 人のを食べない! ちゃんと自分の分は食べたんでしょ!?」
「もお、自分で食べなきゃダメでしょ? 甘えん坊なんだから……」
昔は“おてんば”だった朱莉も、いまではすっかり『お姉ちゃん』として妹たちの面倒を見ている。
「みんな、お掃除はじめるよ! 文句言う子はおやつ抜きだからね!」
「こら、ちゃんとやる! 適当にやらないの!」
あれだけ嫌がっていた掃除も、いまは妹たちとともにしっかりとやってくれている。
祥子が朱莉と出会ってから、今年で十五年目となる。これだけ一緒にいれば、もうじつの娘も同然だ。たしかに自分でお腹を痛めて産んだ子供ではない。
だが、祥子は朱莉を愛情をもって育ててきたつもりだ。祥子は朱莉を、もうじつの娘と思っていた。
「朱莉、そこに立って」
妹たちを昼寝させた朱莉に、祥子は言った。
「? なあに?」
不思議そうに首をかしげる朱莉にカメラを見せると、朱莉はすこし渋い顔になる。
「もう、また撮るの?」
祥子は頻繁に朱莉たちの写真を撮っている。
だが、今日の写真はすこし特別なものだった。
今日の写真は、あの男に送る写真だ。
毎年、朱莉の誕生日に、写真を撮って送る手はずになっている。
最初は送る分だけだったが、いつしか自分の分も撮るようになり、気づけば頻繁に撮るようになっていた。
朱莉はすっかり大きくなった。すこし色素の薄い髪に、とても優し気な、しかしたしかな強さを秘めた目。同年代の人間と比べれば体格は華奢だが、それは防衛省が予算をケチっているのか、最低限のものしか食べさせられていないからだろう。
最初は祥子がポケットマネーを使って取り寄せていたが、人数が増えたために、それもままならなくなってきた。
あきれ半分、うれしさ半分といった様子で写真に納まった朱莉を、祥子は優しく抱きしめた。
「ちょ、ちょっとお母さんっ!?」
「朱莉……」
最初はテレで慌てていたものの、名前を呼ばれて動きを止める。
「よく、育ってくれたわね……」
朱莉が心筋梗塞で倒れたときから、祥子は気が気ではなかった。
なにせ、その原因については一切が不明だと言われたのだ。
いつ、また倒れるか。いや、自分の目が覚めたとき、もし朱莉が息をしていなかったら。それを考えると、生きた心地がしなかった。
だが、幸いにも、朱莉は今日まで元気に育ってくれた。
それがうれしくてたまらなかった。
「お母さん……泣いてるの……?」
それは、はじめて見る“母”の泣き顔だった。
最初はただの仕事に過ぎなかった。だが、一緒に暮らすうち、いつまでもこの少女と一緒にいたいと思った。
だが、現実とは非常なもので、いつも思うようにはならないものだ。
先日、通知が来たのだ。
『美神朱莉が適正年齢となったため、計画を実行する』
いつまでも、続くと思っていたこの“日常”は、じきに終わりを迎える。
それまで、どれくらい朱莉と触れ合えるだろうか。
……最初は、このときを待ち望んでいたはずだった。だが、いまとなってはとても喜ぶ気にはなれない。
彼女との別れは、文字どおり今生の別れとなるだろう。
いや、そんなことはさせない。絶対に。どんな手を使っても、朱莉を守らなければ。
彼女の胸の内に、一つの考えが浮かんだ。
しかし、彼女は知らない。
現実は、自分で思っているよりもより非情であることを。
別れのときは刻一刻と迫る。
それがより少女を苦しめることになるなど、このときは知る由もない。




