断章 芽生え
昨夜の騒ぎがウソのように、無常とさえいえる速さで、ときは過ぎていく。
『フレイアX』を一撃で葬った男は、気づくと姿を消していた。
祥子はすぐさま防衛省――正確に言うと、中央省警保局の国防部――に連絡を取り、ことの次第を報告して警護について尋ねた。
上からの返答は、“朱莉への危機意識を植えつけるため”というものだった。
最近、“外の世界”への興味を募らせている朱莉を、『フレイアX』と邂逅させることで、“外”がいかに危険なところかを分からせることが目的だという。
あの『フレイアX』は、星野孤児院の表むきの存在理由――防衛省による“『ダークマター』運用実験”、それの『自分たちの手で新たな『フレイアX』を創る』という実験の成功例らしい。
――ブラフのほうも成果を上げている。安心してくれたまえ。
上の言葉がよみがえる。
そんなこと、自分はなにも聞いていないと抗議すると、『事前に連絡したら、きみは必ず反対するだろう?』と言われた。
じっさい、反対はしたと思う。それにしてもだ。
いくらアレが、防衛省が改良した理性を持つ『フレイアX』で、きみたちを殺すようには言っていなかったから問題はないと言われてもだ。
こちらは心臓が止まる思いをしたのだ。毎回こんなことをされたのでは、体が持たない。これからは事前に連絡してほしいとの旨を伝え、返す刀で男の素性を訪ねたのだが、
「知る必要はない」
と一蹴されてしまった。
男の経歴のみならず、氏名、年齢までもが、一切“詮索不要”と切り捨てられた。
――まあいい。
教えてもらわずとも、祥子はあの男のことは知っている。
わざわざ質問したのは、当然出るであろう疑問を言わなければ、怪しまれる恐れがある。だから質問したまでだ。
わざわざ自分で朱莉を助けにくるとは、じつにあの男らしい。
ついでに、予算をあげてくれとお願いしてみたが、
――予算はあげられない。パトロンがケチでね。必要最低限しかくれないのだ。
と吐き捨てるように言われた。
まあ、こちらも最初から期待していない。“パトロンがケチ”ということも、あの男から聞いて知っている。それに対して、上が自分たちのことを棚に上げて快く思っていないことも知っていた。
この質問は事前連絡なしに計画を実行したことに対する抗議のようなものだ。
問題は、これから朱莉をどうするか。
具体的には、外の状況をどう説明するか、だ。
それについては祥子に一任された。まったく、騒ぎを起こすだけ起こしておいて、事後処理は人任せとは。これだから上は嫌いだ。そんなことだから、警察庁に足をすくわれる。
「朱莉、話があるの」
怖がらせることがないよう、努めて優しい声で言う。
翌日の、昼間のことだ。
いつもは元気な朱莉も、今日ばかりは大人しかった。まだ、昨夜の恐怖を忘れることができないのだろう。昨夜寝たときからずっと、祥子の服の裾をつかんで離さない。ずっと後ろをついて回っているほどだ。
「……あの、オバケのこと……?」
うつむき、絞りだすような声だったが、朱莉は確信をついてきた。
祥子はコクリとうなづき、
「そうよ。私との約束覚えてるわよね? 外はとっても危険なところだから、絶対にでたらダメだって。外にはね、昨日のお化けがたくさんいるの。だから、でたらダメなのよ。
ここは、朱莉をあのお化けから守るための場所なの。ここにいれば絶対に安全。あの男の人が守ってくれるから」
あの男が何者なのか? それについて、祥子はなにも知らなかった。知ってはいるが、素性は分からない。知っているのは、自分よりも、おそらくは防衛省よりも多くの情報を持つ人物であろうということ。だが、ここを任され、はじめて会ったときから、朱莉を大切にしていることはよく分かった。
朱莉はしばらくうつむいたままだったが、やがて顔をあげると、
「どうして……?」
と問うてくる。
「どうして、わたしを守ってくれるの……? わたし、約束やぶっちゃったのに……」
泣きそうな顔で言われ、祥子は返答に窮してしまう。
答える代わりに、朱莉をやさしく抱きしめた。
ゆっくりと頭をなで、落ち着かせるように言う。
「それはね、朱莉が、とっても大切な子だからよ」
「たいせつ……?」
「そう。あなたは将来、たくさんの人の命を救う存在になるの。だから、みんなあなたを大切に思って、守ってくれているのよ」
それはウソだ。
防衛省が行っている、『ダークマター』の応用実験。それは人の命を救うものなどでは決してない。どころか、奪うためのものだ。
『ダークマター』の軍事利用、新たな『フレイアX』を創りだし、それを戦力とするための計画。朱莉は、そのために生まれた、生まれながらの“モルモット”、上からはそう聞いている。
ならば祥子にできることは、朱莉が生きている間は、最上の愛で育てること。それだけだった。
「だから、もう外にでたらダメ。あなたがケガしたら、たくさんの人が悲しむわ。もちろん、私もすっごく悲しい」
祥子は甘くささやいて、もう一度抱きしめる。
「おかあさん、かた痛いよ……」
「あら、ごめんなさい」
朱莉はしばらく固まっていたが、やがて祥子の背中にちいさな手を回した。
そのときは、それで終わったと思っていた。
だが、終わってなどいなかった。むしろ、始まってもいなかったのだ。
「おいしい?」
「うん」
と朱莉は短く答えるが、
「なんか歯が痛い……」
「あら、虫歯? 見せてみなさい」
朱莉はあーんと口を開ける。
しかし、
「虫歯はないみたいね……」
祥子は安心させるように笑って、
「大丈夫よ、朱莉。なんともないから」
「ホント?」
「ええ」
二人がいつものように食事をしていた、同日の、夜のことだった。食事を終え、いつものように食器を運んでいたとき。
突然、食器が割れる音、それに続いて倒れる音が聞こえてくる。
音の発生源を見ると、祥子は息をのんだ。
視線のさきで、朱莉が倒れていたのだ。
「朱莉!」
――ただごとではない。
なにが起きたのか分からないが、それだけは分かる。
祥子ははじかれたように駆けだすと、状況を確認する。
「朱莉! あか……」
なんだ? なにか妙だ。朱莉はピクリとも動かない。
これではまるで――。
おそるおそる、鼻先に手をやった瞬間、祥子は心臓が止まるかと思った。
朱莉が……朱莉が息をしていない……!
考えるよりさきに体が動いていた。震える指で無線を操作し、急いで連絡を取る。
上――防衛省ではない。
あの男から、万が一のことがあったときにかけるようにと教えられた緊急チャンネルだ。
わめく祥子の言葉を、男は冷静に分析し、なにか気になる点はなかったかと訊く。
歯と左肩の痛みを訴えていたことを伝えると、五分で行くといいおいて通話を切った。
祥子は飛ぶようにして朱莉の元に戻る。男に言われた緊急蘇生法を行うためだ。
体をゆすらぬよう気を使いながら、軽く肩をたたいて名前を呼びかけるも、なにも反応はない。言われたとおりの手順で気道を確保し、そのまま朱莉の鼻をつまんで人工呼吸を二回繰りかえす。
つぎは心臓マッサージを十五回行った。人工呼吸を二回、心臓マッサージを十五回、一サイクルとして交互に繰りかえす。
何度目のときかは分からない。
扉が開くと数名の男女がなだれ込んできた。そのなかには、あの男の姿もある。
力なく横たわる朱莉を見たとき、男の能面のような表情が、ほんの一瞬揺らいだように見えた。
男が軽く顎さきをふると、控えていた男女が朱莉を担架に乗せて運んでいく。
最初は気づかなかったが、全員白衣を着ている。ひょっとして、この人たちは医者なのだろうか。
しばらく放心していた祥子だが、ハッとわれにかえると男につめ寄る。
「朱莉は!? ねぇ、朱莉はどうしたの!? もしかして、このまま……し」
そのさきを言うことはできなかった。男が祥子の機先を制するように、唇に指をあてて見せたからだ。
それだけで、祥子はなにも言えなくなってしまう。
なにがなんだか分からぬまま、結果が報告されるのを待つしかなかった。
結論から言うと、朱莉は心筋梗塞だった。
男がその可能性に気づけたのは、祥子の“歯と左肩の痛みを訴えていた”という報告を聞いたからだ。
それは、心筋梗塞の前兆の症状でもあるという。
朱莉は一命はとりとめた。
その代わり、一生運動のできない体になってしまった。
医学的には、“心臓ポンプの機能の低下”というらしい。多少の医学知識はあるが、専門的なことになると、祥子にはよく分からなかった。
要するに、全身に血液や酸素を送る機能が低下しているため、壊死した部分を補助するために心臓がいままで以上に働く必要があるという。
足のむくみ、疲れやすい、息切れがあるなどの症状には十分注意するように。さらに、これから朱莉が毎日飲む薬についてもつくこく念を押された。
医師とみられる一団の素性については、例によって“詮索不要”と切り捨てられた。
もっとも、そんなことはどうでもよかった。一つ確実なのは、彼らによって朱莉の命が助かったということだ。
それだけで、祥子には十分だった。
ダメもとで男に名前を聞いてみるも、やはり答えはかえらない。
ただ、注意していなければ聞き取れないほどの小声で、たしかにこう言っていた。
「――私はただ、約束を果たしているだけです」
どういう意味かと訊いてみたが、むろん、答えはかえってこなかった。




