兄の想い②
そこは荒れ果てた場所だった。
グニャリと折れ曲がった十字架。無残にも崩れ落ちた建物。地面に染みこんだ生々しい血痕。
『星野孤児院』。
つい先日まで、孤児院として機能していた施設だ。
その中心に一つの人影があった。自分を取り囲む数体の黒い獣たちを見て薄い笑みを浮かべている。その手には、一本の注射器が握られている。
と、前触れなく、一瞬にして、黒い獣たち――『フレイアX』が消滅した。首をおとされたモノ、真っ二つに斬られたモノ、その様は違ったが、すべてが一瞬にして葬られた。
黒煙のように上がる『ダークマター』は、まるで戦闘開始の狼煙のようであった。
中心にいた人物は、微塵も驚いた様子は見せず、どころか、まるで予想していたかのように、怪しく笑う。
「いらっしゃい、尊」
つめたく鼻をならすと、尊は鋭い視線をむける。
「やはり貴様だったか。律子」
「ええ。そうよ」
と、なんでもないことのように笑う。
「聞きたいことがある」
尊が会話の流れを無視して切り口上に言った。
「貴様、唯になにをした?」
「あら、なんの話かしら?」
律子は薄笑いを浮かべ、
「でも、よくここが分かったわね」
右手を腰に当て、尊の視線に殺気が混じるのを肌で感じながら、わざとらしく首をかしげる。
「……フン、そもそもここは養豚場だったのだろう? 新たな『フレイアX』を作り出すためのな」
律子は顔色一つ変えない。白々しく訊いてくる。
「どういう意味かしら?」
「そのままの意味だ」
吐きすてるように尊は言った。
「征十郎が言っていただろう。五年前から、いままでとは違うタイプの『フレイアX』が散発的に出現しだしたと。すなわち、“理性”を持った『フレイアX』だ。
五年前のあのとき、俺たちを襲ったのがそうだった。警戒するような動きを見せ、明らかに“理性”を持つ動きをした。
貴様らが造ったのだろう? 十五年前の惨劇を、繰り返しかねない愚かな実験を、また行っていた、ということだ」
五年前、尊がはじめて瀬戸と会ったとき、彼は後ろに”十数名の男たち”を従えていた。そのなかには、女である律子の姿もあった。
あのとき、仲間の目を欺き造ったのだろう。それが、尊たちと遭遇してしまったのだ。
律子はあら、とさも不思議そうに言った。
「どうしてそんなことしなくちゃならないの?」
「ウイルス感染者を軍事利用できないか、とでも考えたからだ。それができれば、失った既得権益も、多少は取り戻せるからな。だから貴様らは、中央省が公式に行っているものとは別に、水面下で実験を続けてきたんだ。
ああ、言うまでもなく、『危険区域』の人間が行方不明になっていたのも、貴様らの仕業だ。孤児院の連中だけでは足りずに、無差別に実験体にするとは、愚かというほかない」
そう言って、喉の奥でせせら笑う。
「まるで、防衛省側が全部悪いみたいな言い草ね」
「俺はまえにも言ったはずだ。動機があるのは貴様らだと」
尊は低い声で言った。
「最初から妙だと思っていたんだ。たしかに、ここら一帯の『フレイアX』は、ほぼ駆除し終えている。だが、『危険区域』という場所で、孤児院などと言う機関がまともに機能するはずがない。経営者も国防部の息のかかった人間だったのだろう? 金をにぎらせ、実験体のお守りをさせた。無論、将来、『安全地帯』でのそれなりの地位も約束してな。
団員が殺されたのは、貴様が孤児院の人間にウイルスを注入する現場でも目撃したからだろう。つまり、この孤児院は国防部の威光に守られた脆弱な組織だったということだ」
「ふぅん、なんでもお見通しってわけ?」
「貴様らの計画が浅すぎるせいでな。べつにこんなこと、知りたくもなかったんだが……」
肩をすくめると、さきほどとおなじあざ笑うかのような声で続ける。
「そうして『フレイアX』を造りだした貴様は、『安全地帯』へと侵入させた。けが人も、死者も、一人も出さないように命じてな」
「どうして? それじゃあ、侵入させた意味がないじゃない」
「死者が出ずとも、何度も侵入を許せば、必ず『騎士団』への不満はでる。そこで、打開策として『演習』という理由づけをしたうえで、今度はけが人と死者が出れば、これは言い逃れしようのない大失態だ。『騎士団』の信用は地に落ちる。そうやって、現在の組織の在りかたに疑問を呈し、指揮権を警察庁側から奪う。それが貴様らの書いた、シナリオというわけだ」
「だったら、2回目以降の『フレイアX』はどう侵入させたの? 警備は厳重になっているのよ。侵入させるのは、無理なんじゃないかしら」
「侵入などしていない。アレは最初から『安全地帯』にいたんだ。住民に、ウイルスを注射した。それだけの話だ。
だから征十郎は貴様に仕事を与えたんだ。貴様を泳がせて、計画を進行させるためにな」
「じゃあ、打開策をだれも言わなかったら? あんたが言ったから、よかったけど、言わなかったらこんなにスムーズには進まないんじゃない?」
「バカめ。俺が言わなければ、貴様が自分で言えば済む話だ」
尊は、なにを当りまえのことを、とでも言いたげな様子で言った。
「そして、仕上げとしてすべての罪を丹生にかぶせて自首させた、ということだ。
もっとも、俺は最初の侵入があった時点で、犯人の魂胆に気づいていた。騒ぎを起こしておきながら、死者はおろかけが人すら出ない。フン、じつに分かりやすい。危害を加えないことが分かりきっていたから、住民どもが騒いだときも、俺はなにもしなかったんだ」
したり顔で語る尊。
「動機はどうするの? 警察側の人間である丹生には、そんなことをする必要はない。これは、あんたが自分で言ったことよ」
「動機だと? フン、そんなものは必要ない」
バカバカしいとでも言うように、手をふると、
「言ったはずだ。指揮権を奪うのが、貴様らの描いたシナリオだと。そのためには、警察庁側の信頼を、ひいては征十郎の権威を失墜させなければならない。重要なのは、住民の意見ではない。中央省の幹部共の総意だ。だが、あの男はそんな隙など見せまい。そこで貴様は、あの秘書に目をつけた。時間をかけてアレを洗脳し、犯人に仕立て上げたのだ」
「洗脳、ねぇ」
律子はおもしろいように、クスリと笑った。
「ずいぶん簡単に言うけど、そんなこと素人にできるの?」
「分かりやすく謙遜するな。洗脳はなにも難しいことではない。すこし勉強すれば、だれにでもできる」
尊は一度言葉をくぎり、皮肉っぽく続ける。
「鬼のように強く、ときに優しく、ときに厳しく団員たちを律し、下についた者は、彼女を敬い付き従う、か。よく言ったものだ。
簡単なことだ。話術を持って、相手の考え方を変えてやればいい。貴様は、あの女の心理カウンセリングも担当していたな。玄人の貴様には、息をするより容易だろう。やつの自宅からは、実験に使ったと思われる注射器や、それに付随する書類が発見されたそうだ。これだけの大騒ぎだ。動機がなくとも、証拠があればどうとでもできる。まあ、送検の際には多少もめるだろうが……フン、しかし、そんな小道具まで仕込むとは、大した役得ぶりじゃないか」
そう言っておきながら、口調はやはりあざけるかのようだった。
しばらくうつむいていた律子だが、やがてゆっくり上をむく。
顔が上げられたとき、律子の印象は一変していた。いつもみせていた、凛とした、それでいて優しさもはらんだ “仮面”が剥がれ落ち、人を小ばかにした、傲岸ともいえる表情がうかんでいる。
「せーかいっ。よく分かったわね」
パチパチパチ、とかわいた拍手が虚しく響く。
「いつ分かったの? 私が犯人だって」
「貴様に無理やり病院に連れていかれたときだ」
尊はなんでもないことのように言う。
「貴様は団員が殺された写真を見て、『こんな殺し方』と言ったな。『フレイアX』に殺されたと思っていたのであれば、あんな言いかたはしまい」
「……なるほど。聞いてないように見えて、ちゃんと人の話聞いてるのね」
「つまり貴様は、防衛省側が『騎士団』に派遣したスパイだったということだ。最初は目立ちすぎず、徐々に頭角を現し実績を上げ、副団長にまで上り詰める。なかなか優秀じゃないか。もっとも、俺のまえでは無意味だが」
つまらなそうに言ったかと思うと、今度は一転してどす黒い感情の宿った声で言う。
「フン。まあ、俺にとって、そんなことはどうでもいいことだ。俺はここに、五年前の借りを返しにきたんだからな」
『銀狼』を抜刀し、切っ先を律子にむける。
「あら、そんなことのためにわざわざ来てくれるなんて、意外と律儀なのね。あんたのそういうところ、結構好きよ」
「フン、怖気がはしる」
尊は汚いものでも吐き捨てるかのように言う。
「つれないのねぇ……」
つまらなそうに言うと、スラリと、優雅なしぐさで『銀狼』――『雷剱』を抜く。
一瞬の沈黙があった。
まず、最初に、律子が動いた。
パチン、と指をならすと、四方から尊を取り囲むように、十体の『フレイアX』が現れる。
「知っていたぞ。外で待機させていたことは。勝負のまえから手札を失うのはあまりにも哀れだ。そのバカの一つ覚えで、どこまであがけるか見せてみろ」
「さぞかし気分が悪いでしょうね。そのバカに殺されるのは。でも、安心しなさい。悔しさなんて感じないよう、深い深い眠りにつかせてあげ、る!」
言い終わると同時に、三体の『フレイアX』が尊に飛びかかる。
尊は顔色一つ変えることなく、『フレイアX』を両断、返す刀で燕返しにもう一体も葬り去る。そのまま勢いを殺さず『銀狼』を振るい、三体目に攻撃したときだった。『銀狼』が体に触れた瞬間、『フレイアX』が爆発した。
「!?」
巻き起こった爆風と、破片が、尊を襲う。本来ならば、ここで終わっていたことだろう。
しかし、粉塵の中から出てきたのは、無傷の尊だった。
正面から繰りだされた斬撃を、彼女は『雷剱』で受けとめた。
「なるほど。体内に爆弾を仕込んでいたのか。何体に仕込んだ?」
「あれ一体だけよ。安心なさい」
素直に答える律子。自分から訊いておいて、尊はフンと皮肉っぽく笑う。
「仕込んだ数は、さほど重要とは言えん。重要なのは、俺に爆弾の有無をにおわせること。それさえできれば、俺の行動を制限できる。その隙をつくつもりなのだろう? 俺にそんなブラフが通用すると思っているとは、片腹痛いぞ」
したり顔で言う尊に、律子は露骨に顔をしかめるとわざとらしくため息をつく。
「相変わらず可愛げのないやつね」
でも、と今度は一転して不敵な笑みをつくる。
「私にこんなに近づくのは、ちょっと迂闊じゃないかしら」
グアッと、『フレイアX』が尊を食い殺さんと大きく口を開けて飛びかかる。
そして、尊の首を食いちぎった瞬間、律子を包みこむように、『ダークマター』が噴出し、尊を食った『フレイアX』をきれいに両断した。
「チッ」
「舌打ちをする暇があるとは余裕だな」
突如として、背後から声が聞こえた。それはついさっき、『フレイアX』に食い殺されたはずの尊のものだった。
それを理解したとき、今度は背中に激痛がはしる。
「ぐっ!?」
呻いている間に、尊は追撃を加えようとしている。律子はすんでのところで『フレイアX』を使って尊を攻撃、その隙に素早く距離をとる。
「どうした副団長。背中に傷を負うとは、ずいぶん迂闊じゃないか」
「おあいにく様。私は騎士道精神なんて、わけの分からないものは持ってないのよね」
それにしても、と傷口をおさえていた手のひらを見る。無論、そこには血痕が付着している。
「ずいぶん、ひどいことするのね……『ダークマター』で分身造るなんて……セコすぎ。決めたわ。あんたは、最高の苦しみを与えてから殺してあげる」
「フン、じつに陳腐な脅し文句だ。残念だが、苦しみを味わうのは貴様のほうだぞ」
「それはどうかしら?」
せせら笑うように言うと、ふたたび指をパチンとならす。
二体の『フレイアX』が尊を攻撃し、すんでのところで爆発するも、爆風から出てきた尊はやはり無傷だ。
「ほんっとうに、可愛げのないやつ、ねッ!」
号令するように『雷剱』を振るうと、一体の『フレイアX』が飛びかかる。その体からは、液体がしたたり落ちている。
「貴様それしかできないのか?」
とくに落胆した様子もなく、どうでもよさそうに言う。
「ずいぶんと露骨じゃないか。大方、毒でも仕込んでいるのだろうが、俺にそんな小細工は……」
尊が『フレイアX』を斬り殺そうとしたときだ。ふたたび『フレイアX』に命令を出すと、忠実に従い、おなじく液体をまき散らしながら攻撃する。ただし、尊にではない。『フレイアX』にだ。尊を攻撃しようとしている『フレイアX』に、飛びかかったのだ。
「フン、なんの真似……」
二体の『フレイアX』が互いに噛みついた瞬間、触れた個所がどろりと溶けて、混じりあっていく……。
そして、まばゆい閃光とともに、爆発した。
「!」
尊が爆発に巻きこまれたのは上空だ。逃げ場はない。死んだはずだ。
だが、三度の爆発でも、やはり尊は無傷だった。
「あらあら、これでも無傷なの? なかなか、いたぶりがいがあるじゃない」
「フン、バイナリ爆弾か」
「そ。物質Aに物質Bを混合させて、はじめて爆弾として機能する爆弾よ。さすが、よく知ってるわね」
「まさに窮鼠猫を噛むというやつか。いいぞ、もっとあがくがいい。そうでなければ、面白味がない」
「相変わらず生意気なやつ。そんなことだからモテないのよ」
「唯以外の女に好かれようとは思わんな」
いままで何度となくしたやり取りに、二人は笑い合う。無論、友好的な笑いでは決してない。
「そう、なら今日ここで死になさい! だれにも好かれることなくねぇ!」
「俺は唯に好かれている!」
四体の『フレイアX』が尊を取り囲む。
「ほう、大盤振る舞いだな。いいのか? こいつらがいなくなれば、貴様を守ってくれるものはなくなるぞ」
「構わないわ。だって、そんな必要もうないもの」
嫌味っぽい笑みをうかべて、『フレイアX』に命じる。
「殺れ」
と、自分の首を指で真一文字に斬る。
『フレイアX』は、飛びかからない。一歩たりとも動くことなく、その場で高らかに咆哮を上げる。
一体、また一体と溶けだし、ドプン、とまるで墨汁のように、地面を黒く染めあげる。
「なんの真似だ。獣の曲芸には、もう飽きたんだがな」
「そう言わずによく見ておきなさい。これが最後の演目よ」
溶けた『フレイアX』は、『ダークマター』そのものとなって、濁流のように尊にせまりくる。
異様な光景に、しかし尊は一瞬眉をひそめただけですぐに対応する。常人ならざる脚力で跳躍すると、それから逃れた。
「ムダよ」
律子が低い声で言う。
『ダークマター』は数秒前まで尊がいた場所で一つにまとまると、上空にいる尊にせまる。
「バカとサルは高いところが好き、とはよく言ったものね。あんたはすぐ上に逃げる。でも、それは悪手よ」
バカにしたように笑う律子。対する尊もわざとらしく鼻をならす。
「貴様らを見下すことのできる特等席なんでね。戯れるまえに結果を出してみせろ。俺を殺すんだろう?」
「ええ。すぐにでもね!」
せまる『ダークマター』を、尊は片手ではじく。尊の手からも、『ダークマター』が立ち上っている。霧散したかに見えた『ダークマター』だが、すぐにまた一か所に集まると、ふたたび尊を襲う。多少量が減っているように思えるが、その勢いに衰えはない。
「ムダだって言ったでしょ? その『フレイアX』たちには、確実にあなたを殺すよう言いつけてあるの。だからその子たちは止まらない。
その状態にするには苦労したのよ。最近、ようやく完成したの。形をもたないモノになれば、だれにも止められないものね。
何人もの『危険区域』の人間を犠牲にして完成した攻撃……ありがたく受けとりなさい!」
律子の言うとおり、何度弾いても意味はない。ふたたび一点に集まり尊を襲う。
地面に降り立った尊は『ダークマター』とすばやく距離をとるも、やはり攻撃がやむことはない。
ついには四体分の『ダークマター』が合わさり、尊を襲う。
「ムダだって言わなかったかしら、おサルさん? これで終わりよ!」
「それはどうかな」
言うや否や、突如地面から『ダークマター』が噴出し、律子の攻撃は真っ二つに両断された。
「な……」
驚きに目を見開く律子。いったい、なにが起こった?
「フン、『ダークマター』を消すにはやはり『ダークマター』だな。おなじ力同士なら、簡単に相殺できる」
凛香との演習の最終局面。尊は凛香の『銀狼』――『ダークマター』の暴走をおなじ『ダークマター』で打ち消した。それとおなじことをやったというのか? だが、いま尊はなにもしていない。いったい、どうやって……?
呆然とする副団長に対し、小隊長は軽く肩をすくめて見せる。
「そう驚くことでもあるまい。俺はここに来た瞬間に攻撃を済ませていた。それだけのことだ」
「なんですって……?」
律子は思いだす。ここにきたとき、この少年はいったいなにをした?
――そうだ。
と、あることに思い至る。
尊の姿を確認する直前、『フレイアX』が黒い斬撃によって蹴散らされた。
まさかあのときに、地面に『ダークマター』を仕込んでいたというのか……?
最初に動いたのは、律子などではなかった。
それよりもはやく、気づかれることなく、尊は攻撃を完了していたのだ。
だが、地面に『ダークマター』を撃ちこみ自在に操る――それは華京院凛香が尊との決闘で見せた技のはず。
「フン、さすがサルだけあって猿真似がうまいわね。それとも、コピーでもしたの?」
「だれがそんな面倒なまねをするか」
律子の考察を、尊は一笑に付し、
「これはただ、やつの技を真似ただけのこと。俺は一度見た技は絶対に忘れない。『ダークマター』による攻撃であれば、簡単に使うこともできる。なんなら、貴様の真似事もしてやろうか?」
口調は笑っているくせに、実に冷めた顔をしている。この少年にとって、この程度のことはできて当然、という認識なのだ。息ができたところで、特別な感慨などなにもない。
「さて、これで貴様の攻撃は終わったか? ならば、つぎはこちらの番だ」
最初とおなじように、切っ先を律子にむける。
「覚悟はいいな、律子」
その言葉の直後、尊が律子の視界から消えた。
(!? どこに……)
呑気に視線を巡らしたのは、彼女のミスと言わざるを得ない。
腹部を襲った鈍痛、それは全身を駆けめぐり、口の中いっぱいに嫌な味が広がる。腹を蹴られたと気づいたのは、地面を転がり始めてからだ。
体をひねって無理やり回転を止めるも、吐き気には逆らえずにまわりに反吐をまき散らす。
「おぇ……ヴォェェ……! ブェッ……! グッ!?」
苦し気に嘔吐する律子の首を、尊は容赦なく踏みつける。
「どうした副団長。この程度か? 『フレイアX』を使った曲芸などではない、貴様の力を見せてくれ」
「ク、クククククク……いいわよ、見せてあげる。そのまえに、予言もしておくわ。あなたは、勝てない」
「フン、戯言を。挑発するなら、時と場合を選ぶがいい。そんなことで、俺が動揺するとでも思っているのか?」
「クククククク、さぁて、どうかしら?」
まだ体から痛みは消えていないはずだが、それでも律子は笑う。それが余計に、不気味さに拍車をかけていた。
バチンッ、と律子の『雷剱』がまるで電極のように火花を散らす。
それを合図としたように、尊の体が痺れたように動かなくなってしまう。
「ほう」
「死ね」
バチバチバチバチバチッ!
スタンガンのように電気ショックが与えられる。
「あんたは知ってるわよね? 私の力は空気中の酸素を圧縮して電気を作り出すこと。便利な力よね、『ダークマター』って……。さあ、黒焦げになりなさい!」
爆発的に電圧が上がった。紫電が尊を包みこむ。
常人がくらえば、ショック死していることであろう。
だが、
「いい攻撃だ。最近征十郎にこき使われているからな。いいマッサージになったぞ。で? つぎはどうする?」
じつに涼しげな顔で、軽く肩を動かしながらそう言うのだ。
一瞬、驚きに目を見開いた律子だが、一転してクックックとこもった笑い声を出す。
「虚勢ね」
マジックのトリックを見破ったように、あざけり笑う。
「電撃をくらって無事な人間なんていない。あんたはいま、体が痺れて動けない。そうでしょ?」
尊はなにも答えない。
卑しい笑みをうかべた律子は、尊の足から抜けだすと、お返しとばかりに顔面をぶん殴った。
さきほどの律子のように地面を転がる尊は、左半身を使って態勢を立て直す。
口から垂れてきた血を袖でぬぐい、律子を見てニヤリと笑う。
「フン、消える寸前の炎は、一瞬その強さを増す。それが貴様の最後の輝きか、鬼柳律子」
「本当に口数が減らない……。まったく、かわいげのない男」
『雷剱』を構え、
「ねっ!」
居合でもするかのように一振り。紫電が尊を襲う。
それを避けることはしなかった。左手をまえにつきだすと、紫電を受けとめる。
「ハッ、あんたバカなの? そんなことしたら、さっきの二の舞よ!」
律子の言葉が聞こえていないのか、尊は紫電を止め続け、やがて腕一本で防ぎきる。左腕が焼けただれ黒く変色し、血が滴っている。
「顔を殴られて、頭でもわいたの? 大口をたたいておいて自殺行為なんて、結構なご身分ね小隊長!」
楽しそうに笑いながら、迂闊にも正面から突っこむ律子。
「それはどうかな」
尊もまた、ニヤリと笑う。
顔面に裏拳を叩きこんだのはその直後だった。およそ人間の放った威力とは思えない攻撃で、律子は吹っ飛ばされる。サッカーボールのように転がる律子は、なんとか受け身をとって体勢を立て直すことに成功する。
「バガな……あの攻撃を受けどめて無事なはずは……」
鼻血をたらし、くぐもった声でよろめきながら立ちあがる。
「普通の人間であるならそうだろうな。だが、俺にそんな小細工は通用しない」
言う間に、もはや使い物にならないと思われた左腕から、煙のように『ダークマター』が立ちのぼったかと思うと、傷一つない綺麗なものに回復する。
にわかには信じられないが、自由に動けている以上、本当に電撃が通用しないらしい。
だとするなら、さきほどの行動も演技ということになる。律子を油断させて罠にハメるため、わざと攻撃をくらったのだ。
「あんた……いったい、何者なの……?」
わずかに恐怖を含んだ声で問う。五年間もつき合ってきて、いまさらこんな質問をするとは思わなかった。
ここだけの話、尊の異常な身体能力については、何度か防衛省側の上司に訊いたことがある。
しかし、そのたび、“一切詮索不要”と切り捨てられていた。瀬戸や、時には本人に訊いても、はぐらかされるばかりで満足のいく回答は望めなかった。
だが……。
「言ったはずだ。この世で最強の男だと。フン、そんな顔をするな。仕方がない。昔からのよしみだ。俺が貴様に手本を見せてやろう」
尊が軽く『銀狼』を振るうと、そこから独立した電撃が律子に直撃する。
「ぐっ!?」
体がしびれて動かない。あせった様子で体を無理やり動かそうとするが、
「動きたいのか? なら、手伝ってやる」
尊が思い切り蹴り上げた。勢いよく吹っ飛ばされて地面を転がった律子は、苦しそうにむせながら尊を下から睨みあげる。
いままでは受け流していた尊の軽口。だが、この光景を見た以上、尊の言葉は皮肉などではない、そのままの意味として律子の体に浸透していく。
いままでは嘯いているのだと思っていた。尊と自分は、おなじ人種だと思っているからだ。だが、尊はうそぶいてなどいなかった。彼は、自身にとっての事実を述べているだけなのだ。
そして、律子にとっての事実とは、全力で戦わなければ、決して勝つことはできないということだ。
「まったく、面倒なことになってきたわね……」
だが、自分ならできる。いや、できなければならない。自分は、鬼柳律子なのだから。
律子は唇を皮肉な形に歪める。そのときだ。体全体に衝撃が与えられ、尊は顔をしかめる。
つぎの瞬間、尊のまわりだけ重力が増したかのような感覚に襲われる。
まるで重りでもつけたかのように、身動きをとることができない。
さらに、ありえないことが起こる。無残に崩れ落ちた孤児院の瓦礫が、重力に逆らって宙に浮き、竜巻のようにぐるぐると回転したのだ。
「ほう。これはまた、派手な見せ物だな」
「お褒めに預かり光栄だわ。お礼と言ってはなんだけど、その見せ物で葬ってあげる」
律子が『雷剱』を振るうと、瓦礫は一斉に尊へと直進する。
重い体をものともせず、尊は身軽な動きで瓦礫から逃れるも、
「首、もーらいっ」
その動きを予期していたかのように、背後をとる。
容赦なく頭部を切り落とそうとする律子。その行動には一切の迷いがない。さすがは『騎士団』の副団長と言ったところか、それはじつに見事な動きであった。
しかし、
「いい攻撃だ。だが、残念だったな。貴様が死力を尽くしても、俺には勝てない」
律子の『雷剱』は、尊の首にぴったりとついている。
攻撃を止めたわけではない。全力で振った。手加減などしていない。尊の首が、鋼鉄のように固く、斬ることができなかったのだ。
「なるほどな」
信じられないといった様子の律子をしり目に、一人納得したように尊は言う。
「貴様の本当の力は、空気を操ること。それはなにも、電気を発生させることだけではないということか。『雷剱』という名も、いままでの使い方も、最初にわざとらしく空中の静電気を操ったのも、俺を欺くためのブラフ。フン、いちいち小細工を弄さねば戦えぬとは、ザコは大変だな」
律子は距離をとるも、心の底では、それがあまり意味をなさないことを理解していた。
「さて、遊びは終わりだ。そろそろ決着をつけさせてもらうぞ。はやく、唯に会いたいのでな」
「シスコンめ……」
「いまさら、なにをほざく」
それは一瞬だった。
かすかに見えたのは、尊が『銀狼』を振り上げるような動作をしたことだけだ。
つぎの瞬間には、体中を焼けるような激痛がおそっていた。体を、真一文字に斬られていたのだ。
「く、そ……ッ!」
ドチャ、と鈍い音を立ててその場に倒れこむ。
『ダークマター』を纏った『銀狼』を手に持ったまま、尊はゆっくりと近づいてくる。
その表情は、勝利の余韻に浸ってなどいない。彼にとって、戦いに勝つことなど夜が明けるくらいに当然のこと。当りまえの結果を得たところで、思うことなどなにもない。
「いちおう、生け捕りにしろと征十郎は言っていたんだが……ついでだ、もう一撃だけ入れておくとしよう」
意地の悪い笑みをうかべると、こんどはゆっくりと、わざと見せつけるかのように『銀狼』を振りあげる。
「終わりだ」
「やめなさい」
突如聞こえてきた声に尊が動きをとめたのは、その声の主がだれなのか知っているからだ。
くるぶしまで伸びた、さらりとしたすべらかな黒髪。透きとおるような白い肌。
「唯……」
最愛の妹、唯が振り返った視線のさきに立っていた。
尊のように、高く跳躍した唯。その瞬間、足から血が噴き出し、白いワンピースを赤黒く変色させる。
「唯!」
尊が声を上げる。
しかし、心配する兄の声にも反応を示すことなく、唯は二人の間にわって入ると、か細い手で律子を抱えあげて距離をとる。驚く尊の視線のさきで、唯はゆっくりと両手を広げて言った。
「姉さんを傷つける人は、わたしが許しません」
「唯……なにを、言っているんだ……?」
いままで完全優位に立っていた、戦いの中でも表情一つ変えなかった尊が、驚きに目を見開いていた。
「ふ、ふふふふふふ……」
含み笑いをする律子は、傷口をおさえながらヨロヨロと立ち上がる。
「アハハハハハハハハハハッ‼ そうよそうなのそうなのよ! あいつよ、唯! あいつが私を傷つける……私たちの敵よ!」
傷の痛みなど忘れたかのように、楽しそうに笑う律子。
「敵……」
尊を見る唯の目には感情が宿っていない。
いままでどんなことがあっても、笑顔で出迎えてくれた唯は、無表情で尊を見ている。
「律子……」
ひとしきり笑ったあと、急に真顔に戻って続ける。
「怒らないでよ。私は『危険区域』でのつらい記憶を消してあげただけ。玄人の私には簡単なことだったわ。でも、そのおかげで、いまはわたしを姉として慕ってくれているの。唯はね、私の妹なのよ」
そう言って、唯の顎を愛おしげになでる。
「律子……貴様……」
尊の怒りと殺意、両方を同時にむけられても、律子は楽しそうに笑うばかりだ。
「ねえ、さっきならなにを怒っているの? 私を生け捕りにするんでしょう? あまりじらさないでちょうだい」
ふたたび卑しい笑みを見せる律子だが、尊はどうすることもできない。
「私を捕えるのは簡単よ。ただ、唯を殺せばいいだけ。さあ、はやく唯を殺しなさい!」
そう言って親指を下にむける。
「言ったはずよ。あなたは、勝てないってね」
不敵な笑みを見せる律子に、尊は歯ぎしりをすることしかできない。
唯の首から下がったロケットが、チャリ、と虚しく揺れた。




