第五章 〝悪い冗談〟
決闘当日。
凛香は夜明け前に目を覚ました。
時計を見ると、時刻は四時過ぎであった。凛香は一つ深呼吸をする。大丈夫。思ったより緊張はしていない。どころか、自分でも驚くほどに冷静だった。
「ようやくお目覚めか?」
尊の皮肉に一瞬でまどろみを粉砕され、しかし凛香はすこし笑った。
考えてみれば、なんとも妙な話である。いつもいがみ合っているばかりの相手が、自分に修行をつけてくれた。尊と一緒に過ごすうち、尊の人となりを知った。尊は、悪い人間ではない、まあ、いい人間でもないようだが。
いずれにしても、尊と過ごす時間は決して悪いものではないと、そう感じるようになっていた。だが、それも今日までだ。
「おはよう柊」
凛香の言葉にも、尊は挨拶をかえす気などさらさらないようである。
「これから決闘だというのに余裕だな、さっさと準備しろ」
それから、二人はここ二日とおなじようにランニングをし、尊は不意打ちの攻撃を仕掛け、凛香はそれをさばききった。
部屋に戻ると、すでに朱莉が朝食の準備を終えて待っていた。三人は食事をとり、準備を済ませて部屋を出る。
時刻は午前五時三十分になろうとしていた。
まもなく、決闘が始まる。
午前六時十分前。
尊たちは騎士団士官学園の演習場にいた。この時間帯だと、まだ学園に士官候補生の姿は見えない。
朝の静寂に包まれた演習場の中心で、一組の兄妹は向かい合っていた。
「ではこれより、華京院刀哉と華京院凛香の決闘を執り行います」
審判を務める律子の凛とした声が、演習場に静かに響いた。
凛香を見て、刀哉はふっと笑ったようだった。
「以前と顔つきが変わっている。どうやら、なにかがあったようですね」
「いいえ兄さま」
凛香はきっぱりと否定した。
「なにも、ありませんでしたよ」
「では、彼がなにかしたのかな」
刀哉は口元に皮肉な笑みを浮かべ、ちらりと尊に切っ先をむけた。尊もまた、皮肉な笑みを浮かべて刀哉を見ている。
「彼は……いえ、彼らは、気づかせてくれたのです。私がいままで、見えていなかったものを」
凛香の言葉には、確固とした意志が宿っていた。ごまかしで言っているのではない。その言葉には、たしかな重みがある。
「まったく、なにを言うかと思えば……」
しかし、刀哉の顔には、たちまち白けた色が浮かんだ。
「なにを吹きこまれたか知らないが、〝戦場〟という極限の状況下で信じられるのは己のみ。それは、〝決闘〟という場においても例外ではない。その程度のことも分からない者が『騎士団』に入るなど、まったく、悪い冗談だ」
凛香は答えなかった。刀哉は、切っ先をふたたび尊へむけ、
「小隊長、どうやらあなたは、勝ち目のない戦いに賭けてしまったようですね。あなたらしくもない」
その声には、失望の色が混じっていた。関係のない者が聞いただけで、底冷えするかのような、心臓に切っ先をむけられたかのような圧迫感。しかし、当の尊はくっくっくっとこもった笑い声を出した。
「どうした。今日はずいぶん喋るじゃないか、団長殿」
尊はにやにやと笑いながら、
「どうやら貴様は、妹のことになると饒舌になるようだ。こいつがどうなったか、よほど気になるようだな」
「団長、そろそろお時間です」
律子が会話に割りこむようにして言った。
「そうだな。こんな下らん話をするために、朝はやくから付き合ってやっているわけではない」
尊を黙らせるために言ったのだが、どうやら意味をなさなかったようだ。
「なるほど。では、始めるとしましょうか」
「はい」
凛香はまっすぐに刀哉を見据えた。
律子は尊と朱莉に、観客席へ行くように言う。いまから行こうとしていたところだとか、いちいち命令するなだとか、ごちゃぎちゃ言っていた尊だが、すれ違いざま、凛香にだけ聞こえる低い声でこう言った。
――やつに認めさせ、貴様自身を証明してみせろ。
「決闘を始めるまえに、互いの条件を確認させていただきます」
律子が事務的な、それでいて低く凛とした声で言った。これは彼女の仕事用の声であるということを、尊と刀哉は知っていた。
「華京院さん。あなたが勝利した場合は、兄である刀哉氏に姉・天音氏に対するいままでの発言撤回及び、華京院の家に受け入れること。
団長、あなたが勝利した場合は、妹・凛香氏は直ちに騎士団士官学園を中退し、通常の学園に編入させる。仔細ありませんね?」
「はい」
「結構」
両者の答えを聞き、律子はコクリとうなづく。
「では、決闘開始時刻は、六時とさせていただきます」
律子は腕時計を見る。
時刻はすでに、六時一分前を切っていた。秒針は正確に、しかし確実に時を刻んでいく。
あと二十秒。
朱莉がかたずをのんで見守る。
あと十秒。
尊はただじっと正面を見据えている。
そして、
「決闘、開始」
静かに、コングが鳴った。
それと同時に、凛香が動く。
『銀浪』を一度地面に突き刺しておいて、すぐに引っこ抜く。そしてその切っ先を地面に切りこませながら、飛びかかるように刀哉へむかった。
感情の消えた刀哉の眼球へ、凛香は『銀浪』を突きだす。瞬間、刀哉の目に、わずかに白けた色が浮かんだ。
――失望した。
あたかもそう言いたげである。
こんな単調な攻撃が、『騎士団』において団長を務める兄に届くはずもない。刀哉は『銀浪』を抜くことすらせず、じつに身軽に、最小限の動きで攻撃をかわす。
が、そんなことは百も承知だ。兄との実力差など、いまさら確認するまでもない。だから、打てる手はすべて、徹底的に打たなくては。
凛香はふたたび『銀浪』を切りこませ、刀哉へ斬りかかる。しかし、当然結果はさっきとおなじであった。刀哉は、『銀浪』を抜くことさえしない。
兄はいま、油断している。もっとざっくばらんに言うのであれば、自分は舐められているのだ。
だが、これはチャンスだ。そうして油断してくれている間に、一つでも多く仕掛けて――
「凛香」
不意に、低く、斬りつけるように名前を呼ばれた。生物としてまったく自然な防衛本能から、凛香はその方向へ目をむける。
「私は、曲芸を見にここまで来たのではありませんよ」
冷たい二つの瞳が凛香を睨めつける。
「どうやら、これ以上やったところで無意味なようですね」
ここに来て初めて、刀哉が動いた。冷めた声で言うと、刀哉は腰に手をやり、すらりと『銀狼』を抜いてがっしりと両手で握りしめる。
凛香は身を強張らせる。ついに刀哉が『銀狼』を抜いた。気を張り詰めて兄を見る。つぎの瞬間には、決着がついてもおかしくない。それほどまでに力の差があることは、凛香が一番よく分かっていた。
「そう身構えることはない」
刀哉は口元に皮肉な笑みを浮かべて言う。
「すぐに終わります」
「いいえ兄さま。そう簡単にはいきません」
凛香は表情をやわらげ、
「それに、この決闘、勝つのは私です」
自分に言い聞かせるように、誓うように言う。
刀哉の眼光が、斬りつけるような鋭い光を帯びた。それでなお、凛香は一歩も引くことはない。覚悟を固めた表情で、刀哉から目をそらすことはない。
「不可能です。あなたでは、私に『銀狼』の能力を使わせることすらできない」
その声には、一切の感情が宿っていなかった。これは、煽っているわけでも、まして凛香をバカにしているわけでもない。いままで勝ち続け、圧倒的な実力で結果を出し続けてきたがゆえの、自信。刀哉にとっては厳然たる事実なのだ。
二人の視線が、〝攻撃〟という形で交錯したのは、ほんの一瞬のことだった。
そして、二人は激突した。
瞬間、二人を中心に強風が吹き荒れ、朱莉は反射的に両手で顔を守るようにした。
兄と硬質な金属音を隔て、しかし凛香は顔をしかめてしまう。ただ、たった一度刀を合わせただけだ。にもかかわらず、その一撃は、途方もなく重く鋭い。
(これが……兄さまの攻撃か……!)
「どうしました?」
刀哉が涼しい顔で言った。
「ずいぶんと、苦しそうな顔をしていますね」
「兄さまには、そう見えますか……? だとするなら、悪い冗談です」
凛香はなんとかそれだけを言った。こういう返しができるようになったのは、尊の影響かもしれない。
刀哉は面白そうにわずかに口角を上げる。
軽く『銀浪』を振るって、凛香の『銀狼』を受け流す。
ふたたび振り下ろされる『銀狼』。やはり兄の攻撃は重い。恐ろしい精度、そして速さだ。一瞬でも気を抜けば、たちまち持っていかれる。
だが……
(大丈夫だ。たしかに兄さまの攻撃はとてつもない。だが、ついていける。見える。兄さまの攻撃が、太刀筋が! 見ろ、もっと……もっとよく!)
そして待つのだ。チャンスは必ず来る。凛香が反撃に転じるそのときが。
「華京院さん、大丈夫かな……」
兄妹の戦いを見ながら、朱莉が心配そうな声を出した。
これは戦いではなく、あくまで〝決闘〟である。負けても命まで取られるわけではない。しかし、二人が使っている武器は対『フレイアX』用に作られた『銀狼』――文字通りの真剣勝負だ。しかも相手は、『騎士団』団長を務める、凛香のじつの兄でもある。
「いまさらなにを言っている」
その横で、尊が呆れたような声を出した。固唾をのんで見守っている朱莉とは対照的に、尊はいつものように足を組んで、偉そうに二人を見ていた。
「でも……」
「黙ってみていろ。そしてもっと観察眼を研け文官候補生」
こと戦闘に関して朱莉はまったくの素人であるから気づいていないようだが、凛香は決して防戦一方というわけではない。攻撃をさばきつつ、反撃の機会をうかがっている。
もっとも、尊はこれを当然と見て取った。
(この俺がわざわざ修行をつけてやったんだ。あの程度の攻撃についてこれないようでは困る)
凛香はここ三日間、尊の不意打ち気味の攻撃をよけ続けた。それを思えば、このくらいはできて当然である。
問題はこのつぎだ。
凛香の『銀狼』は、切りこんだ個所に『ダークマター』を植え付け、それを引き出し使役するというものである。しかし、そのためには刀を振らなければならない。したがって、攻撃をさばき続けている現状では、植え込ませることはおろか、使役することも困難である。以前、小隊の隊員にやったように、すること自体はできるだろう。だが、その程度の攻撃では、刀哉を倒すことはおろか、隙を作ることさえ難しい。
刀哉は最初、凛香にあえて地面に切りこみを入れさせていた。それは、決して凛香を下に見ているから、などというお気楽な理由ではない。あの男は、そのような下らない真似はしない。
やつは、わざとやらせたのだ。
理由は簡単。凛香の選択肢を狭めるためだ。『自分には奥の手がある』と思わせることで、凛香の思考を制限するのが、狙いだろう。すべて手を打たせたうえで、勝利する。凛香のプライドを完膚なきまでに叩き潰し、もう二度と『騎士団に入る』などと言わぬようにする。それこそが、刀哉の目的だ。
そのために、凛香に攻撃に対応できていると思わせるために、刀哉は凛香がギリギリ対応できる程度の攻撃を繰りかえしているのだ。凛香に、〝奥の手〟を使う余裕を残すために。
尊は皮肉な笑みを浮かべ、口元を手で覆った。
――バカめ。
そいつに修行をつけてやったのは、ほかでもないこの自分なのだ。その程度を予測し、また対策させていないと思われているのであれば、それこそ〝悪い冗談〟だ。
尊は目を細めて戦いを見据える。凛香は相変わらず、刀哉の攻撃をさばき続けている。
そして、チャンスは静かに、しかし確かに訪れた。




