この時きっと、羅針の先は曲がっていた
『100m先、左手じゃ』
「分かっている!ええいくそっ、後方は!感知出来るか!」
『分からん。じゃが、影は無い』
高鳴る鼓動は、いとも簡単に私の息を詰まらせる。
存外に走れる身体の様だが、だがなにもこんな形でそれを知る事になる事も無いだろう。
「おい!早く出せ!」
「な、なんだ藪から棒に。何モンだ」
「ヴィクト・アーバンから報せがあったろう!いいから、急ぐんだ!」
馬車の先頭に鎮座する馭者に飛び掛る様に縋り付き、息も絶え絶えに発する私の声は、必要以上に上擦って聞こえた。
まだ、耳に張り付いている。
気色が悪い。虫唾が走る。
鼓膜に纒わり付くあの音は、私から明確な恐怖を引き摺り出した。
『ほう、ぬしにもそういった感情は存在するんか。僥倖僥倖、揶揄い方にも幅が出るの』
「元はと言えば貴様のせいではないかッ!!」
「……おい、いくらアーバンさんのツレだからって調子乗ってんじゃねぇぞてめぇ」
『じゃ、そうじゃぞ』
ぐ、ぐぬぬぬぬぬ…………。
いや、落ち着け。平静を保つのだ。
無骨なこの男と、馬車の中から顔を覗かせる品の無さそうな彼らの機嫌を損ねている場合ではない。今はもう、それどころでは無いのだ。
「済まない!だが出してくれ時間が無いんだ!」
「出せ出せって、何処に向かって走りゃいいんだよ」
馬車に飛び乗り、走ってきた方を振り返る。大丈夫、上手く撒いた筈だ。奴等もまだこちらに気付いてはいない。大丈夫、大丈夫だ。
目的地は、そう。
彼は、確か……。
『"メイベルリア"』
そう、それだ!
「北へ!"廃道"だ!」
「"廃道"って……嬢ちゃんあそこは……」
「知らんッ!黙って出せ!」
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「メイベルリアを走れッ!!」
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「いらっしゃいませぇ〜。……あらぁ?貴女初めましてぇ?」
「………………」
「あれぇ?ねぇ、聞こえる〜?」
「……ハッ!あ、あぁ。カフゥの遣いで来た。それで伝わると聞いているが」
「……あらぁ〜。カフゥちゃんのお友達なのぉ。ねぇ、お名前は?」
「ピヴワーヌだ」
「うふふ、可愛らしいお名前なのねぇ〜。じゃあそこに座って待っててねぇ、すぐ持ってくるわぁ〜」
癖のある毛先が肩元で揺れ、更にその下。私が今まで見てきた生き物の中で群を抜いて大きな胸が躍る。
店に足を踏み入れた途端薫った甘いミルクを煮出した様なこの香りは、この女から発せられているに違いない。
『ほほぅ、流石は童貞乳は放っておけん性質か』
黙れ。
「……あらぁ〜?何処だったかしらぁ……ごめんなさいねぇ、もう少し……」
「…………」
「あぁっ!私貴女にまだ名乗っていないわぁ〜」
「…………」
いいからさっさとしろ、と言葉を発する直前で口を噤む。二、三言葉を交わしただけではあるがこれ以上こちらから言葉を投げるのは愚策だ。
必要以上を口にすると間違い無く時間を食う。
『それと乳がデカイ』
黙れ。
それから一拍。いや、二拍程置き棚を漁っていた手を戻し振り返る。たったそれだけの動作にも関わらず、胸が揺れる。
な、なんなんだあれは……。
「カトリーヌ・ボアモルティエよ」
「そうか、では引き続き作業に戻ってくれ」
「ピヴワーヌちゃんはどうしてカフゥちゃんと仲良しなのぉ?」
「おい聞こえないのか作業に戻ってくれ」
「…………ん〜?」
ダメだ。
「あのね〜?出来れば私、"ケイト"じゃなくて"キティ"って呼んで欲しいの。だってぇ、子猫ちゃんってとっても可愛いでしょ〜?うふふ、だからぁ。ねぇ?」
「いや……ねぇと言われても……」
会話にならない。
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「──……"集金"?」
「そ、今回の収穫祭の運営費。半分は集め終わってるから、残りの半分をピヴワーヌにお願いしたいの。勿論、これはきちんとした"仕事"よ。ま、あんまり期待して欲しくは無いけど」
2番街の西、べレンツ自警団に所属するカフゥと名乗る鳥人族の家に匿ってもらい2日が経った。
『涙ながらに縋り付いた、の間違いじゃな』
この様に頭の中で茶々を入れてくる憎きテンコと問答をするだけの日々、偶に口の端から漏れてしまうその慟哭と私の頭の両方とを気味悪がったカフゥは、"外の空気を吸って気晴らしをしなさい"と私に仕事を寄越した。
「……いいのか?その、なんだ……」
「なに?穀潰しで人生を終える為にわざわざ貴方は家を捨てたの?」
「い、いや……そういう訳では無いが……」
朝8時を回って少しした時刻。
日照りに恵まれるベレンツは、例によって今日という日も強い照り返しに見舞われる一日になるだろう。
窓の外に見える高く青々とした空には、欠片もそれを遮ろうという雲は無い。
「フフっ。盗めるもんなら盗んでみれば?私達自警団相手にそう易々と悪事を働けると思わない事ね。ま、"何を見てるか"は知らないけど"マヌケ達"もいるしね」
「そう、か……すまない」
「謝るのは後にして、早く行ってきて。地図はこれね。印の付いている場所に、私の遣いだと言えば分かる筈だから。全部回ったら1番街の詰所に来て」
そう捲し立て、4つ折りになった洋紙を投げ寄越した。
「それとー、はいこれ。オススメは3番街のエリプセ、美味しい珈琲を飲むならここね。それから、家を出て通りを真っ直ぐ行った突き当たり、青い屋根の喫茶ペリドット。ややこしいから屋根の色を変えたら?って何度も言ってるんだけどね、店主は頑固だけど、料理は文句無しだわ」
『ぬしよ、肉の美味い店を聞け』
「すまない、いつか必ず返済する」
「いつになるか分からない物を待つ程暇じゃないの」
昼からそんな脂っこい食事なんて取ってなどいられるか。今から胃がもたれしてしまう。野菜だ、野菜でいい。
追加で投げ寄越された食事代を受け取り、テンコを去なす。
「じゃ、今日1日頑張ってね」
「うむ」
カフゥに背を向け、彼女よりも先に家を出た。
久し振りの外気、やや湿度の高い気候を肌で受け、洋紙を開き疎らに印付けられた地図を眺める。
えぇと1番近いのは……うむ、ここだな。
『肉屋か?牛がいいぞ妾は』
フッ!残念だったな。
八百屋だ。
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「はーいどうぞぉ、熱いからふーふーして食べてねぇ〜」
「……何故収穫祭の集金にやって来ただけの私が貴様と昼餉を共にせねばならんのだ」
「えっ?」
「いや、えっ?では無く……」
『良いではないか。妾も腹が減ってもう動きとう無い』
貴様は動かずとも良いではないか……。
「あのねぇ〜?ご覧の通り独り身でしょ?折角出来たお友達なんだもの、私もっとピヴワーヌと仲良くしたいわぁ〜」
これで、5軒目だったか。
八百屋、馬小屋、布屋、魚屋と来て、ここ。カトリーヌ・ボワモルティエと名乗る女性店主が待つ薬屋。辿り着いたのは20分前。目的を告げ、金を預かるだけのやり取りにも関わらず、私の目の前には色とりどりの料理が並び、御丁寧にも食後のフルーツまで準備された。
何故先を急ぐ私がこの様な現状を良しとしているのかと問われれば、一重にそれはこの女が私の話を聞かないからだ。
「昔はもう少しここも賑わっていたんだけどね。少し前に人が減っちゃったのよ〜。私とっても寂しかったんだから」
「あ、あの、だから金を……」
「えっ?」
「いや、えっ?では無く……」
この女は、生きていく為に必要な何かを胸に吸われてしまっているのだろうか。どうにも彼女と上手く意思の疎通が図れない。
『ぬしの予測は正しかったな。さ、妾はその手前の赤いのを所望するぞ』
…………。
「何かあったのか」
『むっ!ぬしよ!無視はいかんぞ無視は!』
「えぇ?……あのねぇ〜最近何処も治安が良くないでしょ〜?ついこの間もデュラスで事件があったって聞くし〜」
「う、うむ……」
フッ、テンコめ。そう易々と貴様の願いを聞いてやると思うなよ。うむこれだ。野菜だ。……ふむ。やや多分に水っぽくは有るが、土臭さも無い。悪くないではないか。
『ぬしよ、騒ぐぞ。永劫のう』
………………。
あ、赤いのだな。
『うむ!』
勝ち負け等というナンセンスな話では無い。私は理解有る大人なのだ、テンコの脅しに屈した訳では決して無い。決して。
「……ふむ。悪くない」
「あらぁ〜お口に合ったみたいで嬉しいわぁ〜」
私の賞賛に気を良くしたのか、カトリーヌは糸目のままに微笑んで、小皿に大量の料理を積み上げる。
限度という概念が無いのだろうか。
『限度無く乳もデカいからな』
黙れ。
「そう言えば、あの事件の犯人は捕まって無いそうねぇ〜。怖いわぁ、ピヴワーヌも気を付けなきゃだめよぉ〜?」
「……あ、あぁ。心配無用だ」
『そりゃそうじゃ』
数日前デュラスで発生した事件。帝国から来たヘル某という男性の起こした無銭飲食、それに伴って出兵したコリエタ兵の殺害事件。
何も思うところは無い、全て私達が行った所業では有るが、そうか。やはり1人殺せなかったのは厄介だったな。
『そもそもの原因はなんじゃったかのぅ』
違う、咎めている訳では無い。だがやはり、ベレンツまで流れ着くのも時間の問題だったか。
『はよう出た方がいいのう』
あぁ、違いない。
「あのねぇ、去年にも近くの村で殺しがあったの。それも今回の様に1人2人じゃなく、とっても多くの命が消えてしまったの」
「ほう?」
カトリーヌはサラダを頬張り、だがまぁ品の有る所作でそれを咀嚼。次いで語るは中々に興味深い話。
テンコの言葉を頭の中で巡らせながら、意識はカトリーヌの甘ったるい声に吸い寄せられる。
「カフゥちゃんもね、昔はもう少し優しい子だったの。でもねぇ〜……。あれは、コリエタの依り木が"凶行"を起こして攻め入った時に似ていたわ。私達では太刀打ち出来る物では無かったからぁ……」
少しずつ、声のトーンと表情は曇る。
その様が、その事件の凄惨さを物語る事に一役買った。
「カフゥに何かあったのか」
「何も、聞いていないの?」
「あ、いや……詳しくは知らない。何しろ屋敷では外に触れる機会が無かったのでな……」
咄嗟に取り繕った言葉だったが、見た目や喋り方の通り抜けているのだろう。それ以上私やカフゥとの関係を問い詰められる事は無く、ポツリポツリと話を続ける。
「そうなのぉ〜。……うん、ええっとね?カフゥちゃんもきっと、立ち直ろうとはしている筈なの。だからあまりこの話を、彼女に聞かないって約束出来る?」
別段彼女に関心を持っている訳では無い。
だが先程咄嗟に私の口を付いた言葉は、何も全て偽りという訳でも無い。
デュボネで生活していた頃も、私やカナート家は帝都の内政に掛り切りだった。
諸外国の重役と謁見する機会も度々あったが、多くは無かった。
世間知らずとまではいかないが、私達以外の国で一体何が起きているのか。気にはなる。
種族の遺恨等には興味が無いのだが。
『ややこしいのう』
簡単だ。"何故そうなるのか"という事を私は知りたいのだ。
「あぁ、約束しよう。他言はしない」
私が返事をしてから、だがそこから1分以上の間があった。
それが、本当に私に話しても良いのか、それともそれ程に口にしたくない話なのか。それ以外の要因が合っての事なのかは分からない。
「去年の。時期は、雪の降る季節」
だがやはり、少なくともそれは。
気軽に口に出来る程。
「カフゥちゃん達"有翼族"が、数多く殺された。その、ただ殺された訳じゃ無くてね。襲われた皆は、必ずと言っていい程"羽根を毟られたの"。きっとあの人達は、えぇと。……種の沽券を踏みにじりたかった訳では無くて……"あれはきっと"……」
「誰にだ」
"簡単な話"では無いのだろう。
「……海を挟んで、南。アマレットの民によってよぉ」
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『──ははぁ。"それでか"』
▲▼▲▼▲▼▲▼
『あぁーあーかったるいのぅ、後何件じゃー腹が減ったぞー』
「次で最後だ黙っていろ。……ふむ。三番街の、南だな」
地図を片手にあっちへ行ったりこっちへ行ったり。面倒な仕事じゃなぁ。同化しておる故身体的な負担は無いが何せ妾は退屈じゃ。
『ぬしよ、絶好の機会じゃ。その金を持って旅の再開といこうではないか』
「馬鹿を言うな。私を信頼してくれたカフゥへの恩という物がある」
『そんなチンタラしとっていいんかのぅ』
「……今はいいんだ」
義理に厚いとかでは無いのう。一先ず見通しの悪い場で、溜まったものを発散する為足掻いておる。
──ククっ、"信頼"ときたか。
まぁ、ぬしもこれでまだ童じゃ。
『あの娘の言葉を聞いとらんかったんか?』
「なんの話だ」
地図と景色とを交互に見返しながら、一定のペースで足を動かす。
『逆じゃ。信頼しとらんからぬしに集金を頼んでおるんじゃよ』
「金の管理をその様な相手に任すものか」
『"トカゲの尻尾切り"と言えば分かるか?』
「…………」
ククっ!だんまりと来たか!
『これから向こう、この運営費を巡って騒動が起こった際、真っ先に疑われ、そうして罰せられるのはぬしじゃ』
「…………」
クククっ!いいぞ、ええい勿体無い。きっと堪らん顔をしとるんじゃろうなぬしは今。人目が無ければ今すぐにでも同化を解いて食い入るように見つめてやる所じゃ。
『なに、給金の出る仕事なんじゃ。義理堅いぬしがしっかりやり遂げて、それから後顧の憂い無くこの街を出ようではないか』
「…………うむ」
伏し目がちに妾の言葉を聞いていたベイルは、そうしてほんの少しだけ顔を上げ、見通しの悪い中、それでも歩みを止める事は無い。自棄になってはいかん。人付き合いに難は有るが、それでも妾のぬしは賢い男じゃ。
良いではないか、長い旅路のほんの少しの寄り道くらい。
そういった物に心動かす経験も、きっとぬしには必要じゃ。
『可愛い阿呆には旅をさせよという事じゃな』
「……なんの話をしているのだ」
訝しげに言葉を零したベイルは、それと同時に最後の目的地である店の扉を開いた。
チラリと入店前に見えたな、エリプセ……じゃったかな?カウンター奥に並ぶ色とりどりの酒と、そこに佇む女。
陰り有るその姿は、ふむ。中々可憐では無いか。
「……おや、何用かな?」
「カフゥの遣いで来た。ピヴワーヌだ」
店は繁盛しとらんようじゃがのう。




