小さな欠片
「あの後ね、あの子の治療をしてた間やっぱり魔物は出なかった。君が倒してくれたんでしょ?さすがは勇者様だね」
「レイラ……」
「うん?」
時計の針は気付けば3時を指していて。親方にはもう寝ろとどやされたけど、そうか、もうそんなに長くこうしてベッドに腰掛けぼーっとしてたんだ。
レイラが扉を開けて部屋に入ってきた事にも気付かなかった。疲れてるんだ、きっと。
「あの子は?」
「もう大丈夫だよ。私も頑張ったんだから。あはは、でも、ちょっと疲れちゃった」
そんなふうに眉を少し下げて笑うレイラは、僕がセクリトさんを殺したと知っているのだろうか。親方との会話中にあの子を背中に抱えて帰ってきた彼女を見て、あの時僕は安心した。
良かった、怪我してなくて。
良かった、これで怒られずに済む。
そんな風に思う自分が嫌いだ。
自分から逃げ出しておいて、その弱さが招く結果に一喜一憂するなんて、おかしいもの。
「ねぇ、エリス。セクリトさんは大丈夫だった?」
あぁ、やっぱり知らないんだ、レイラは。
怖い。怖い。
なんて、説明しよう。
「セクリトさんは、えと……」
僕も彼女も既に寝巻きに着替えている。
いつも通りの事をしていれば、いつもの様に落ち着く事が出来るかなと思ったけど、そんな事無かった。彼女は湯でも浴びたのだろうか。花の香りが鼻孔を擽る。ふんわりとした彼女の白の寝間着は、同じように柔らかい笑顔の彼女に良く似合う。
それを、穢してしまうのが。
それを、汚してしまうのが。
怖くて怖くて、しょうがない。
「私ね、エリス。私は、君の夢が好きなの。とってもとっても、大好きなの」
「えっ?」
気付けば彼女は僕の枕を抱えて隣に腰掛けている。少し覗き込むようにしていたレイラは枕を抱きしめ大きく息を吸う。
「"あの日"、君がうちにやってきた時怖かったんだ。ほら私、同世代の人とうまく喋れないし。それに、魔法使いって事を隠して生きてきてたから」
そう。彼女は僕以外に同世代の知り合いがいない。自らの能力を隠すためなのか。それとも本当にただ苦手だからなのか。
「私ね、お店の中から聞いてたんだ。パパとエリスが話してた事。だからエリスが大きな声で"勇者になりたいんです!"って言ってたのも聞こえてね。それで、あぁーあって」
くすりと笑う。枕に顔を埋めながら。そんな一挙手一投足さえ可愛らしく、愛らしく。
「魔法使い、だから?」
「うん」
考えたことも無かった。彼女が魔法使いなんて。全くもって知らなかった。
僕の知らない顔をしていた。"あの時の"、レイラは。
彼女の力は、聖属性の回復魔法。僕は詳しく知らないが、貴重な力である事に間違い無い。
その名の通りそれは聖的な力。
元来そんな神にも近い、誰からも受け入れられる筈の力を隠していた彼女は今まで一体どんな気持ちだったんだろう。
分からない事、だらけだ。
「君は"変化"する事が、悪い事だと思う?」
「どういう、意味?」
「考えて、エリス。とってもとっても大事なことなの。どんな小さな物でもいい。それは時に個の心に少しずつ、ただハッキリとした意識を生んで。いつの間にか心そのものを呑み込む悪にもなる。もちろん、逆も然りよ。時にそれは、世界に軋轢を生み、少しずつ、ただ明確に世界そのものを呑み込む悪にもなる。そんな"変化"。万物が"それ"足り得る為には必要の無い"変化"を、君は悪い事だと思う?」
世界は、平穏を望む。皆同じように口にして、だが世界は不安定なバランスでのみ皆の肢体を支えている。
争いは尽きず、血は流れ続ける。信仰者達は魔法使い達を異教徒と位置付け、またその逆に魔法使い達は信仰者達を反逆者として位置付け、殺すことを止めず、殺させる事を止めず。
商国者達は奴隷を雇い、金の無い弱者を叩き続け、帝国者達は先住民を根絶やしにするべく今尚国内に向け刃を振るう。
こんな辺鄙な中立田舎国ではそれら全てが絵空事にも思えてしまう程、時間は安寧と動いていく。
だが、上記した全てはこの世界が存在していく上で必要な物。何故かと問われても誰も答えなんて出せないんだろうけど。
だって、生まれる前からそうだったんだもん。そのままの形を保ち続けるそんな世界の善悪を問われても、僕にはよく、分からない。
そういう点で考えれば、世界は変化していない。もう何年も、何十年も同じ形のまま動き続けている。それでも瓦解しない世界の今の在り方は、善と呼ぶべき事柄なのだろうか。
だがセクリトさんは、世界の変化を望んだ。愛すべき家族を奪った世界を憎み、世界の仕組みから自らの意思で逸脱し、傷付け、殺した。
奇妙な世界だと彼は言った。何人もの命を奪い続けた世界を、それでも在り方の是非を問わない世界そのもの、またそこに立つ人々を奇妙な物だと。
彼は、変化を起こした。自らの心に染み渡ったその意識を拭おうとはせず、染まっていく事に抗わなかった。その姿は、果たして───。
▲▼▲▼▲▼▲▼
「怖い事、だと思う。僕は」
さっきまで私が治療していたあの子の右手には、少し長めのナイフが固く握られていた。ナイフというか、マチェットに近い。あの子には、左腕が無かった。襲われた際に切り落とされたという訳ではなく、元より左腕など無かったんだと思う。首から下をローブで覆っていたので治療を始めるまでは気が付かなかった。
歳は、エリスと同じか、少しそれよりも下くらい。この辺りではあまり見ない銀色の髪は、健康そのものとは言い難かった。
あの子もきっと、多くの人に傷付けられ、多くの人を傷付けたはずだ。マチェットも少し欠けていた。きっとそれそのものは悪い事では無いんだと思う。あの子もあの子なりに善悪の形を持ち合わせ、それに伴ってそうしたに過ぎない。
「怖い?」
「うん。そもそも僕は怖がりで、それでいて人より弱いから、何かの変化を受け入れられるだけの器が無いんだ」
少し日に焼けた肌が健康的な印象を与える、エリス・レリスタッド。初めて出会う人には敬意を払う事を忘れず、歳の割には腰の低い、真面目な子。そんな風に、この街の人は彼の事を評するだろう。皆に愛され、皆を愛し、だからこそ彼は確固たる善悪の形を人よりも持ち合わせてはいない。
それを彼は今みたいに弱さと呼ぶ。
私とは違う感覚。私とは違う考え方。
君が嫌いな、私の好きな君の悪癖。
「でも、ね」
「うん」
顔を上げながら、ゆっくりと。でもその瞳には確かに先程とは違う色が映る。それは、彼の心の明確な。
それでいて、小さな"変化"を現した。
灯った明かりはまだ小さく。
彼に似て弱々しいものだけれど。
「ダメなんだ、きっと」
「うん」
それでもなんとか揺らめきながら。
彼の意識を呑み込もうと。彼の心を呑み込もうと。
押し寄せる。押し付ける。
「親方に言われたんだ。正しさは、自分の神に聞けって」
「うん」
いつか来る、"意志の変化"を焚き付ける。
「僕の心には、僕の神がいて。その神様はきっと、"変化"を恐れない、そんな勇者になれって言ってる。気が、するんだ」
「そっか」
そう言うと恥ずかしそうにエリスは笑う。何度も目にした君のその顔。
ただ、明らかに違う。
忘れない。君の瞳に宿ったその"色"を。
私はね、エリス。
とってもとっても、幸せなの。
君が少しずつ、変わっていく姿を。
誰よりも近くで見ていられる今が。
とってもとっても、嬉しいの。
君に触れて。君の心に触れて私は少しずつ変わっていった。それはきっと、君が1番知ってるはずよ?エリス。
私、君の前で笑ってる時が、1番楽しいんだもん。
「ねぇ、エリス」
「なに、レイラ」
流転しながらも、ただ一時も在り方の変わらない世界の中で。
一端の。小さな小さな欠片達。それら全ては生を受け、自らの神に何度も問いながら、もがき苦しみ息絶える。
理由無き死に涙しても。
詮無き事実に目を逸らしても。
傲慢に浸かった世界は、それら全てを圧し潰す。
そんな世界。
臆病な私と君が共に生きる、そんな世界。
それでもね、エリス。
「お願いがあるの」
「なに?」
それでも、エリスなら。
君ならきっと、変えてみせる。
私に"変化"を齎した、君なら。
ちっぽけで、弱くて、優しい、エリス。
私は見たい。
君の。
「私を、魔術国家に連れて行って」
君の。
"変化の行末"を。
▲▼▲▼▲▼▲▼
『僕は、人の心を動かす、そんな勇者になりたいんだ!』
『初めまして、エリス・レリスタッドって言います!えと、お名前は?』
『僕は勇者になりたいんだ。昔母さんが読んでくれた絵本が忘れられなくて、そんな勇者になりたいんだ』
『僕はまだ弱いけど、でも、大丈夫だよレイラ!』
『僕は、勇者になるんだ。君も親方もこの街の人もいろんな国の人も。みんなみんな、救ってみせる』
『ま、まぁ。まだ、どうすればそんな事できるかなんて、分かんないんだけどね…。あっ、笑わないでよっ!ねぇっ!』
▲▼▲▼▲▼▲▼
「僕は勇者になりたいんだ」
「知ってるよ。笑う事なんて、もうしない」
「えへへ。ありがとう、レイラ」
「まだ、怖い?」
「少しだけ。でもね、レイラ」
「なに?」
「それよりも。"変化"する事よりも、ずっと」
「自分の夢を掴めないことの方が、ずっとずっと怖いんだ」
「いいよ、レイラ」
「僕は勇者になるんだ」
「女の子1人守るくらい、どってことないさ。……まぁ、まだ弱いけど」
「そっか、エリス」
「うん。ありがとう、レイラ」
「お礼を言うのは私だよ、エリス」
「頼りにしてるよ。"私の"勇者様」