神託
まだ時間がかかるから、と。レイラはそう言って僕を家に帰した。まだ魔物がいるかもしれないのに、と。そんな事を考える余裕も無かった。ただその言葉に頷いて、そうして今は足早に。塞をくぐり、もう5分もすれば家に辿り着く。
荷物を投げ出し、剣を腰に差して、だけど僕の身体にはその何倍もの重しが乗ったように鈍く軋んだ様にしか動かない。
道行く人達の視線から逃れるように。
何度も誰かに声を掛けられた気もするけれど。
なんと答えたのかも、今の僕には分からない、
レイラは、魔法使いだった。
彼女はそう言い、その片鱗を僕に見せ付けた。
頭がパンクしそうだったし、吐き気を覚えた。
彼女の使う魔法は、回復魔法。
僕がついさっき、セクリトさんに向けた力とは真逆な物。
僕が抱いていた夢とは、真逆な物。
逃げ出したかった。いち早くこんな状況から目を背けたかった。あぁ、彼女はあの子を抱えて帰ってこれるだろうか。落とした野菜は運べるだろうか。本当にもう、あの森には魔物が出ないのだろうか。
止め処無い後悔が身に降りかかる。
出会ってから3年間、彼女とは色々な話をした。
僕の故郷の話、お互いの家族の話、親方の過去の話、好きな食べ物の話、各国の現状の話、僕の夢の話。
彼女は今まで、一体どんな気持ちで僕の話を聞いていたんだろう。
魔法使いだと言われた瞬間、頭が真っ白になって。それと同時に、自分が無為に今まで行ってきた愚行を恥じた。
知らなかったとはいえ、彼女にはあの場で何を言えばいいのかが分からなかった。彼女は"あんな風に"言ってたけど、きっとそんな事も無いはずだ。
勇者は魔法使いを殺し、その子孫達は教国アマレットと魔国タンカレーに別れ、今尚その力を互いにぶつけあっている。
世界の誰もが知っている。
勇者信仰者と魔法使い達は永遠に相容れない存在だと。
あぁ、もう家に着く。あの角を曲がれば、三件目左手に有るのがスミス・キンバリーの鍛冶屋だ。
セクリトさんの言葉を思い出す。
勇者が憎い。勇者など世界に必要無いといったあの言葉。
許せなかったあの言葉が。もうおかしくなった彼が発したあの言葉が。ぐるぐると廻り続ける。
そんな言葉を発した彼を殺したのは僕で。
そんな僕を待っていたのは人の命を救わんとする魔法使い。
僕の夢は、世界を崩壊から救ったあの勇者になる事だ。
そんな夢は、いつまでも消え去る事は無い。
刻まれた。思ったその日に、僕の胸に僕が刻んだ。
あぁ。ダメだ。
もう何も、考える力なんて残ってない。
▲▼▲▼▲▼▲▼
「──オイ、何をコソコソしてやがる。帰ったんなら声をかけろ」
「あ、えと。ただいま親方」
「なんだ、レイラはどうした」
「レイラは……大丈夫、だから……」
「何言ってんだ坊主。荷物はどうした」
「それは……あの…………」
「話せ」
「な、何も、無かった。ほんとです親方」
「俺は気が短ぇんだ。早く話せって言ってんだ。テメェが──」
「──テメェが"そんな格好してる"理由を、だ。」
「………………」
「おいエリス」
「レイラは何処だ」
▲▼▲▼▲▼▲▼
「どうして、黙ってたんですか……」
こんなの良くないって分かってる。
でも、口から付いて出る、小さ過ぎる器から零れ落ちる"それ"を抑える術を僕は知らない。
「俺が質問してんだ!俺の娘はどうしたんだ!」
「いいから答えてくださいよ!どうして黙ってたんですか!レイラが……。レイラが魔法使いだって事を!」
自分が嫌い。今、こんな事を言う自分が大嫌い。
でも、止まらない。
「親方も、レイラも!僕の夢をどんな気持ちで聞いてたんですか!僕は貴方の作る剣が好きで……レイラの笑った顔が好きで!そんな僕が語る夢を、貴方は今までどんな気持ちで聞いてたんですか!」
「…………」
最低だ。吐き気がする。
最低な事を、言ってしまう。
「貴方の娘は魔法使いだった!僕だけだ!僕だけそれを知らなかった!僕は勇者になりたくて……貴方の剣を掲げてその夢を叶えたくて!言ったじゃないか!何度も何度も貴方に話したじゃないか!なのに、なのにどうして……貴方は……」
涙が出てきた。
今の自分が情けなさ過ぎて。
溢れる"それ"を止める術を知らない自分が嫌い過ぎて。
「どうして僕を……弟子に取ったんですか……」
あぁ、吐き気がする。
僕は、最低だ。それでも親方は僕を弟子にしてくれたんだ。娘が魔法使いなのに、僕の夢を笑うこと無く聞いていてくれたんだ。
なのに、こんな事しか言えない自分が。
僕は──。
「僕は……東の村で育って。父と母の愛を受けて育って、その村は森に囲まれていて、果実が豊富に実って。……それで、子供の頃、母が絵本を読んでくれて、それは勇者の物語で。世界で最初の、勇者の物語で……。僕はその日、思ったんです。自分もこうなろうって。こんな風にかっこいい、いつまでも語り継がれる勇者になろうって……」
そんな勇者に、僕もなろうって。
「んなこたどうだっていいんだエリスッ!!!レイラはどこだっつってんだ!!!」
僕の言葉なんかお構い無しに、娘の身を案じる親方が声を荒らげる。当然だよ。
今にも殴ろうかという勢いのまま、僕の胸ぐらを掴み上げる。痛い。苦しい。
あぁ、また涙腺が緩む。
「んぐっ……ま、魔物はもういないんです。それに──」
「アァッ?!」
ギリギリと、喉が締まる。この人は今、本気で怒ってるんだ。いつものやり取りで浴びせられる罵声とは全く違う。
ごめんなさい。ごめんなさい。
「そ、それにレイラは……まっ、魔法使いだ……だからきっと──」
だからきっと、大丈夫。だってセクリトさんや彼の家族は、僕が殺したんだから。
だからきっと。
だから、僕は──。
「そうだよ!アイツぁ魔法使いだ!!」
「だ、だったら…」
「だったらどうした!テメェはなんだオイ!!」
──僕は、なんだ?
「……ぐ、うぅ……ぼ、僕は」
僕は──。
「テメェは、勇者になるじゃあねぇのかよ、この阿呆タレれがッ!!!」
「ひっ──!!」
バチンっと、頭に響いたこの音は。
「1発で済むだなんて思うんじゃあねぇぞ坊主……」
「いった……ぐぅっ──ヒック……」
あぁ、この人は。
「お、親方…………」
「魔法使いだ勇者だなんてのは、俺には関係ねぇ!だがなぁエリス!!よく覚えてろよド阿呆が!!」
この人は今、本気で怒ってるんだ。
「女1人守りきれねぇ軟弱モンが、勇者だなんて笑わせんじゃねぇ!!」
親方の言葉が、重く、重く、僕の心を圧し潰す。
拳に乗って、何度も何度も。
「テメェは勇者になりてぇんだろうが!!だったらよう、女1人くれぇテメェの力で守りきってみせろよ!!」
後悔なのか、なんなのかもう、分からない。
ただ、涙が止まらない。
痛くて、血の味がして、息をするのもやっとなのに。
親方の言葉が苦しくて、苦しくて、返す言葉も思い付かない。
「親方……僕は……」
僕は、最低だ。
「エリス!俺はなぁ、テメェだったら俺──」
「パパ!……ただいま。私は平気だから、エリスを離して」
あぁ、ダメだ。
「レイ、ラ……」
僕は、最低だ。
今僕は。
"安心"したんだもん。
僕は、"最低"だ。
▲▼▲▼▲▼▲▼
『ねぇあなた。私達、幸せ者だと思わない?』
『…………アァ?』
『もう、そんな怖い顔しちゃダメっていつも言ってるでしょう?そんな事だからいつもお客さんとトラブルになるのよ』
『……すまねぇ。だがようウィッカ』
『──"呪い"、だと思う?それとも、"恵"?』
『分からねぇさ。どうしてアイツにそんな力が芽生えちまったかなんて。鍛冶屋の俺には分かんねぇよい』
『私はね、あなた。私はあの子のアレを、神託だと思ってる』
『…………"どっち"のだ』
『あははっ!あれ、言ったこと無かったかしら。私の育った村にはね、神様はいっぱい居たんだよ?』
『……なんだそりゃ』
『笑ってる……。本当よ?本当なんだから!』
『分かった分かった。身体に触るからもう寝てろ』
『もう、ちゃんと聞いてよ……。神様はね、みんなの事をいつも必ず見ていてくれるの。色んな姿で、何人もいて。でも、私の神は私だけ。ひとりひとりが心の内に宿すもの。私の村では、そういう風に考えてたの。だからね、あなた』
『レイラの力は、神託』
『あの子の神が与えた、あの子に必要な力。だから』
『やっぱりあの子は、"私達2人"の子なのよ』
『それが分かって、とっても幸せじゃない?』
『知ってる?あなた』
『神様に、あっちもこっちも無いのよ?』
▲▼▲▼▲▼▲▼
「僕が、セクリトさんを殺しました」
少しずつ、口を開く。作業場で親方と2人、彼は煙を吸いながら工具の手入れを行っている。それでも彼の背中から、早く話せと声がする。
「森に出る魔物は、セクリトさんの家族の事でした」
レイラは自室で背中に抱えて来た手負いの子の看病。親方が彼女とその子を見て僕の胸ぐらから手を離し、そう指示した。
「彼は、ワイトを召喚して、それで、あの森で何人もの人を殺していたんです。家族を蘇らせる為、そうしていたんです。セクリトさん自身が、そう言った」
この作業場には、時計が無い。時間を気にして作業なんて出来ないと、親方が以前言っていた。今は一体、何時なんだろう。どれ程時間が経って、日が昇るまであと何時間だ。
何度も何度も殴られた顔の腫れは、きっとすぐには引きそうにない。
熱くて、痛くて、ジンジンする。
「あの子を……さっきの、傷だらけの子。あの子を襲ったのもセクリトさんで、それで、セクリトさんから野菜を貰った後会ったんです。血だらけで、死にそうだった。僕らの背中側からやって来たから、セクリトさんが危ないって、そう思って」
そう思って。
「セクリトさんは生きてて、僕に話してくれて」
そうして。
「そうして、僕が殺した。彼も、彼の家族も」
殺した。
気付いたら、殺していた。
争い事を、好ましく思ってはいない。剣なんて、振るったこともない。
それでも僕の握った刃は、"1つの家族"の命を奪った。彼が語った勇者への言葉のせいなのか。彼が僕を殺そうとした事への防衛本能なのか。はたまたそれとは別のものか。或いはそれら全てなのか。
僕には、分からない。顔を両手で覆って世界から目を背ける。今の僕に出来ることなんてこのくらい。僕の悪い癖だ。答えを出す事を恐れている。
「セクリトは、悪か?」
だけど世界は僕に突きつける。世界はこんな僕からも、整合性の取れた絶対的な答えを抉り取ろうとする。
「分かり、ません……。あの人はもうおかしかった。だけど、僕があの時彼の元に訪れ無ければ、彼は命を落とさなかった」
「だけどそれじゃあ、あのガキみてぇに奴に襲われる人間が増え続ける」
作業を終え、ドカッと丸椅子に腰掛けながら僕の方へ向き直る親方。そう言えば、煙を吸う姿を見るのは久しぶりだ。前見たのは確か……えと、いつだったっけ。
「そう、だけど。でも、僕が人を殺した事に変わりはなくて。その行為は悪。……だと思います」
分量の問題だと思った事はある。善悪の、バランスこそが重要なんだと思った事が。
例えばそう、セクリトさんは街から評判の変わり者だった。家族を失い1人、森へ住居を移し生きていた。彼は度々街へ顔を出し、親方や、旧知の仲を育んだ人達と言葉を交わし、何度も酒を酌み交わした。時折彼は自家栽培した野菜を街の人間に分け与え、自然と共に生きていた。そんな彼は家族を思い、人を殺した。そうして段々と、人の枠から外れていった。
その、善と悪とを行った、分量。
「セクリトは無作為に人を殺してたんだろ。お前とは違う」
彼は間違いなく家族を愛していた。家族を失い、彼は世界を、こんな世界を創った勇者を恨んだ。
でも、それまでの彼を僕は知らない。おかしくなった彼だけど、彼の言葉は曲がってはいなかった。彼の目には何の曇りも差してなかったんだ。
だから分からない、その分量が。秤がどちらに傾いていたのか、分からない。
「僕も一緒です。理由はどうあれ」
だけどそんなのは、詭弁だ。善悪の分量なんて、角度が変われば同じだけ傾き歪んでいく。
だからこそ、決定的な事象への答えを出す事が怖い。
「違う。お前は人の命を救った。セクリトに無作為に殺されるだけの運命だった人間の命を、だ」
「でも彼の家族への愛は本物だった。その想いを僕は……」
だから"こんな風"な言葉しか、僕は吐けない。嫌いだ。
逃げて、ばっかりじゃないか。
「──お前、神の在り処を知ってっか?」
「えっ?」
何かの比喩、だろうか。
真意がよく、分からない。
「神の在り処?」
「そうだ。知ってっか?」
何が言いたいのか、わからないけど。
でも、考えなきゃ。
アマレット出身者はその国の唯一神を未だ語られる勇者と置き、タンカレー出身者は逆に、勇者に討たれた大魔導士こそ唯一の神だと位置付けている。その他地域様々な信仰が存在するけど、例えば僕の村では森そのものを神と捉えていた。
遥か昔から僕らと共にあり、僕達に与え、僕達を支え。
その姿は、神たる所以だ、と。
──えと、違う。親方は今なんと言ったか。
神の、在り処?
「えと、よく分かりません」
この地域で生まれ育った人達は、且つ立地上この国はアインベッカーの近くに位置する為、アインベッカーと似たような信仰者が多い。
つまるところ、無神論者が多いわけだ。
武を競い合うような人も少なく、国の立場としては中立を謳っている事も相まって、争い事も少ない。生産力も低い方では無く、天災だって訪れない。神に祈りを捧げる機会がそもそも少ない。
だからこそ、そこで生まれ育った親方が僕に問うた神の在り処というのが何を指すのか、分からない。
新たな煙に火を灯しながら、親方はゆっくりと、自らの口から揺蕩う煙を目で追いかける。
「神はな、お前の中に在る。俺のとも、レイラのそれともちげぇ。テメェの神は、テメェの中に宿るもんなんだ」
同じ様にして、僕も煙を目で追いかける。淡い白のそれは、天井にぶつかり霧散していく。
「僕の、中に?」
「そうだ。そんな世迷言をな、無神論者の俺に笑顔で宣った馬鹿野郎が居たんだよ。自分は生まれつき身体が弱かったそいつはな。それでも、そんな自分にも確立された。自分だけの、自分の為の神が心に宿ってると、そう言ったんだ」
「凄い、人ですね」
凄い、考え方だ。
あまり、そんな考え方を聞いた事は無い。集団に帰属して生きている者が、それぞれ別の神を信仰しているなんて、争いが起きるに決まってると思うんだけど、どうなんだろう。
しかしそしてそんな事をよく、この親方に向かって言えた物だと素直に思う。
「あぁ、どえらい馬鹿だったよそいつは。自分の身体の事も、レイラの"アレ"の事も、それぞれが宿した神の神託だと、そう言ったんだ」
煙を吸い、眉間にいつもよりシワを寄せ。
……あぁ、そうだ。思い出した。親方がこうして煙を吸うのは、"あの日"。
レイラのお母さんの、命日じゃなかったっけ。
「俺はな、坊主。レイラの力を目の当たりにしてよ。初めは、殺そうかと思ったんだ」
「レイラを?」
娘を愛する父が以前、そんな事を思っていたなんて知らなかった。
「あぁ。俺は勇者も魔導士も信仰しねぇ。だがあの力のせいで奴は必ず争いに巻き込まれる。これは、絶対だ。だったらよう、何処ぞの馬の骨ともつかねぇ野郎に殺されるくれぇだったらよ、俺が殺そうと思ったんだ」
「だがな、その馬鹿野郎が」
「涙しながら、大喜びしてレイラを抱き締めたんだ。良かったね、あなたを産んで良かったよって。私はとても嬉しいのって」
きっと、先程から親方が口にしているのは、レイラのお母さんなんだろう。
僕は写真でしか見た事は無いけど、レイラによく似た、優しそうな人だった。
「それを聞いて俺もよぅ、泣いちまったんだ。馬鹿野郎はどっちだって話だ。情けねぇったりゃありゃしねぇ」
想像もつかない。この親方が泣いてるところなんて。
「争いは命を奪う。その仕組み自体は変わらねぇ。皆一様に理想を翳して、譲れない物を口にしながら殺すんだ」
「だがな、それはきっと、悪じゃあねぇ」
先程のセクリトさんと似た様な事を、でもその根幹は明らかに違う。
噛み締めるように、この人は言葉を続ける。
まるで、いつかの誰かに対する後悔のように。
「それはな、必要なもんなんだ。皆がそれぞれの善悪の形を持って生きているこの世界では、それはきっと必要な事なんだよ。傲慢や欲を孕ませてる奴は、その仕組みを正しく見通さねぇ」
「あの時の俺も、今のお前も、"それ"だ」
また少しずつ、揺れていく。
親方の言葉が、レイラのお母さんの言葉が、僕を少しずつ揺れ動かしていく。
「お前の神に語りかけろ」
言葉は耳を通し、胸に落ちる。
「お前の宿した神に、何度も、何度も」
そうして少しずつ、逃げてばかりの僕を変えようと。
甘えるばかりの僕を逃がすまいと。
「きっとそいつは、お前が憧れた勇者の形じゃあねぇ」
「僕の宿した……神……」
分からない。
分からないままに、問いかける。
貴方は、一体。
「そうだ。お前はそいつの神託を受けたんだよ」
僕に、何を。
▲▼▲▼▲▼▲▼
「坊主。……エリス・レリスタッド」
「は、はい!」
「お前はその神の神託を受け、そいつが導く勇者になるんだ」
「僕の神が、導く?」
「そうだ。人を殺し、人を傷付け」
「お前の神の元で、剣を振るえ」
「それはお前の神の与えた神託で」
「正しさは、お前の神にでも聞きやがれ」