止まった私、止まらない貴方
「ん……」
未だこの街は、静けさを保ち、太陽の活動時間までのもうしばらくの休息を味わっています。ですがそれではいけません。わたくしもそうではいけないのです。
ベッドから降り、身支度をしましょう。
使用人は不必要。だってそうでしょう?元よりわたくしはお兄様の身の回りのお世話をする身。そんな者がどうして自分自身を律する事無く周り任せに安寧に生きられるでしょうか。他の貴族の方々はどうか知りませんが、わたくしはそれでは駄目なのです。
あの日、お兄様の為に生きる事を決めたあの日から、わたくしはずっとそうしてきたのです。
あぁ、早くお兄様に会いたい。
先日もその前の日もその前の前の日も。お兄様と会い、お食事をし、共に政務に励みました。にも関わらず、お兄様との時間は素敵な物なのです。それは永劫違わぬ事実なのです。
覚えていますとも。初めてお兄様に出会った日の事を。
それから今に至るまで、1つだってお兄様の事で忘れた事柄なぞあるはずもございません。
髪を結い、鏡の前でお化粧を。
お兄様はあまり濃い化粧を好みません。以前エトワール様との会食の席にてお兄様に色目を使う色情魔が現れた事がありました。その魔物はお兄様に何度も触れ、酌をし、下品に割れたドレスに除く谷間を寄せるようにして笑っていました。何度も何度も自分が持っているフォークでその魔物の目をくり抜いてやろうかとも思いましたが、それでは折角のお兄様のお召し物が汚れてしまいます。それにあんな色情魔の汚い血など浴びてしまいますと、お兄様に性病が移りかねません。
それはまっこと由々しき事態であります。そうしてやきもきしていると、お兄様がレストルームへ立たれました。お兄様はお小水が近くなると必ず右足首を内側に捻る癖があるのです。フフフッ。そんな所もお兄様の素敵な一面のひとつですわ。
そうしてわたくしも会場を抜け、お兄様がレストルームから出てくるのを待っていました。
数刻としないうちに溜息を吐きながら出てきたお兄様はわたくしの顔を見てひどく驚いた様に、ですが直ぐに、いつもの端正なお顔立ちに戻りこう言いました。
『あの女、香水と化粧の臭いが相俟って吐き気がする』
と。
ですからわたくしはお化粧を濃くする事はありません。香水もほんの少し香る程度に振りかけるのです。
フフッ。元よりあの様な色情魔は何をせずとも薄汚い性の臭いを漂わせて居るのですから。
そんな色情魔がその後、原因不明の腹痛を訴え2、3日そのまま寝込みきりだったという話。
傑作ですわ。
魔物にはきっと魔物の食事が必要でしょうと皆の目を盗みあれの酒の中に少々手を施したのですが、まぁそんな話なぞどうでも良いのです。
そんな事よりも今は、少しでも早くお兄様に会う為に身支度を済ませなくては。
フフフ。
あぁ、お兄様。
早くお会いしとうございます。
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「おい早くしろ」
「わーかっておるわい。そう急かすな」
「旦那様……」
「爺、本当に今まで世話になった。お前達もだ。いくら感謝してもしきれない」
「旦那様、本当に……大きゅうなられました……」
「おい爺、泣くな。お前はこんなに素晴らしき日を主君に涙で迎えさせようというのか」
「申し訳、ありません…」
「必ず。必ずや我が故郷を奪還し、私はここに戻ってくる。どれ程の期間を要するか分からない。1年か、10年か、或いはそれ以上か。それでも私は決めた。そう決めたのだ」
「私は両家の息子である」
「私はお前達をも掬い取ってみせる」
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「あら?」
はて何故でしょう。以前買ったばかりの掛け時計が動いておりません。……不良品を買わされてしまったのでしょうか。
まぁよろしいですわ。お兄様にこれと同じ物を勧めなくて良かったと思いましょう。お兄様はとても時間に正確な御方。そんな方の敬愛すべき暮らしぶりを私が狂わせたとあれば、それはカナート家関係者全員の首を持ってしても贖罪には足りぬ罪でございます。元よりお兄様と比べれば世の森羅万象全てにおいてその価値を見出すことなど有り得ないのですが。
さぁ、そろそろ出発致しましょう。
時計が壊れていようがわたくしの体内時計、というよりもお兄様の屋敷へ向かうこのルーティーンは全くもって変わりないのです。こうして姿見の前でポーズを取り、結った薄緑の髪、身に纏ったお召し物、自身の表情を確認して、自室の扉を開けます。
姿見から7歩程歩けばドアノブがあり、右に45度それを回転させれば扉は開きます。そうすれば───。
「おはようございます、お嬢様」
「精が出ますわね」
こうして扉の前でわたくしの屋敷の使用人が待ち構えています。……彼の名前は何だったでしょうか。基本的にはカナート家の使用人達は、お父様お母様に付きっきりなのですが、彼はわたくしが幼い頃よりこうしてわたくしのお世話をかって出ていた方
と記憶しております。
「では、お気を付けて」
「えぇ、行って参ります」
そうして彼からわたくしのレイピアを頂き、言葉を背に受けまだ明るむ事の無い街へ繰り出します。
フフフ、こうなればあともう少し。
おにいさままでもうすこし。
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「テンコ様も、お気を付けて」
「ククク、おい爺よ。妾の心配をするよりもぬしの事を心配せんか。妾はこれよりも良く出来ておる。クククッ」
「なんだと貴様!」
「だぁーもうまだ日も登らんのにデカイ声を出すな」
「…すまん」
「レゾンデートル家に支えしぬしの子よ。よく聞け。貴様らの王は妾と共にある。そして王は貴様達をも掬ってみせると全裸で宣う阿呆な男じゃ」
「刻め。貴様らの王の言葉を刻め」
「抱け。貴様らの王の大義を抱け」
「守れ。貴様らの王の全てを守れ」
「そうして王の帰還に備え」
「宴の準備を忘れるでないぞ」
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あぁ。いつもの時間。いつもの景色。いつもの色。いつもの音。
何も変わらない、いつもと同じ貴方の元へ繋がる全て物に、どうしても心躍らされてしまいます。もう、毎日のように。
人の影なぞありません。まだ時刻は4時を回る前になります。そうしてレゾンデートル家の扉を開け、4階最奥に佇むお部屋の前で、お兄様の起床を待つのです。
そうするとお兄様はいつもより半分も開いてない瞳で、いつもより数段低い声で、いつもより整えられてない綺麗な深緑の髪で、わたくしの前に現れるのです。
『おはようリズ』
と。
そうしてお兄様とのいつもの日常が始まるのです。
あの日から始まった。
わたくしとお兄様の日常が。
とても素敵で豊かな日々が。
フフフッ。
あとすこし。
あと、もうすこし。
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「レゾンデートル家家臣一同、王の帰還をお待ちしております」
「あぁ、必ず私は帰ってくる」
「旦那様、テンコ様。お気を付け下さいませ」
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──"そう"。
"そう"思った理由は分かりません。わたくし自身なぜ"そう"思うに至ったか、それが全く分からないのです。
ですがはっきりと。突如として心に現れたそれは、はっきりとした"確信"へとその姿を変えていきます。
───何かが違う。
時間も、景色も。色も、音も。
何ら変わりなく、今日わたくしを迎えてくれたそれらとは別に。圧倒的に何かが違う。
どうして、どうして今わたくしは。
"考えなくてもいい事"を。
考えてしまっているのでしょう。
「お兄様……?」
心が、早鐘を。
歩が乱れ。
走れ、走れと。
促すのです。
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「では、さらばだ我が家臣達──いや、我が家族達よ」
「クククッ。妾もそこに入れてくれんかのう」
「……貴様は私についてくるのだ」
「全くぬしは照れ屋さんじゃのう」
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「お兄様、お兄様!!!」
いかないでいかないでいかないでいかないで。
もたつく足が煩わしい。
立ち上る息遣いが煩わしい。
理由なく夜の街を翔ける自身が、どうしようもなく煩わしい。
いかないでいかないでいかないでいかないでいかないでいかないでいかないでいかないでいかないでいかないで。
わたくしをおいていかないで───。
「お兄様ぁああ!!!」
闇に溶けたそれは。
行く当ても無く自身を撫でる。
この前も、その前も。
優しく微笑んだ貴方を、どうか。
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「今、何か言ったか?」
「妾は何も言っておらんぞ。ククク、どうする?そこらに宿でも取るか?」
「バカを言うな。……そうか、それならいい」
「勘違いなら、それでいい」
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「はやく……!!はやく!!!」
お願いだから早く着いて。
もう少しなのに、あとほんの少しで掴めるの。
あとほんの少しで、わたくしが愛する普遍に満ちた日常が待っていてくれるの。
そう、この路地。この大きな路地を右に曲がればもう見える。お兄様が育った屋敷がそこにはあって。お兄様とわたくしが長き時間を共にした、暖かみのあるアイボリーでその身を飾る大きな屋敷。
そう、この玄関。大きな屋敷を囲うように地面から映えた黒き鉄製の扉を開けそうすれば。歩けば52歩、走れば31歩でお兄様の屋敷の扉に辿り着く。
そうしてこの両開きの扉の左側にあるノッカーの下から合鍵を指し込み、そうすれば───。
「お兄様!!」
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「リズ……様……」
「あら、お早い起床ですわね爺」
「いえ、とんでもございません」
「ではわたくしはお兄様の元に参りますので、朝食の準備をしておきなさい」
「リズ様……」
「そう。昨日もお兄様は多くお酒を飲まれましたから、アルコールに効くお料理がいいですわ。飲み物は柑橘の物、スープは貝の出汁がよく出たものにして下さい」
「それ、は……」
「……ねぇ、爺。どうしてなの?」
「あぁ、もうおやめください……。リズ様……」
「どうして、今日に限って」
「お願いですリズ様……!旦那様は、もう……」
「きゅうじのみなが、こんなじかんに、わたくしをむかえて、くれているのですか?」
「申し訳……申し訳ございません……っ!!」
「ねぇじい」
「おにいさまは」
「どこ?」




