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NEW EYES

作者: 待咲夢猫

私は勤め先の出版社を辞めることになり、それから数日後、ついに手持ちは底をつき、現在、一人路頭に迷っている。

エディンバラの天気は相変わらず曇りであった。今朝方に降った小雨か、朝霧の露か、どちらのせいかはわからないが公園のベンチは湿っている。座ると少し尻に冷めたい感覚が伝わってきた。今の私には明日を暮らすどころか、現在の喉の渇きも、空腹をも満たすためのすべもなかった。ふつう、生きる当てが無くなったのだから、今はとてつもない焦燥にかられるものだと、私は思っていた。しかし、実際はそうではなかった。自分の今置かれているこの状況を、まるで他人事かのようにただ茫然と座って見ているだけだった。まだ本当の意味で、私は今の自分をわかっていないのだ。しかし、そんな見方もまた客観的である。ゆえに、私はある意味盲目なのだ、と考え始めたところで、ああ、こんなことを考えるのは自分らしくない、つまり今はそれほどの異常事態なのか、と皮肉にも間の悪い焦りが込み上げた。体の真ん中のあたりが、内側から締め付けられるような感覚だ。もう空腹などどうでもよくなっていた。下を向いているとめまいでも起こしそうだったので、あたりを見回してみると、公園を突っ切る道の真ん中で、赤いコートを着た女性が立ちすくんでいるのが見えた。灰色の街エディンバラに、その赤いコートは荒れ野に咲く一輪のカーネーションのように見えた。その吸い込まれるようなたたずまいに私が見とれていると、向こうもこちらに気づいたようだった。じきにそのカーネーションは徐々に人型となり、私に声をかけた。

「すいません。私、トリシアといいます。今人を探していて…」

私は他人に話しかけられたことによって、不思議と急に自身の現状が恥ずかしくなってきた。私はなるべく目を合わせずになおかつ話をすべて聞く前に返した。

「どんな人です?」

すると、トリシアは困ったような声でこう返した。

「ええと…わたし、ある人物を探しているわけではないの。」

「じゃあどういう?」

私はなるべく早くこの会話を切りたいのだ。

「その…あなたは視力がよろしいですか?」

「え?はい。まあ…」

するとトリシアは手のひらを胸の前であわせ、声色を明るくした。

「そうなんですか、ええ。それで…その、これからどこかへ仕事へ行く用があったりしますか?」

私の耳は無意識にピクリと動いた。仕事、という言葉に反応したのだ。

やや沈黙をはさんで、私は答えた。

「…いや。恥ずかしいばかりですが、私、ちょうど仕事をやめ、手持ちも尽きてきたところでして…」

今度は、彼女はあわせていた手をたたいて、そして鳥のように声を高くした。

「ほんとうに!?…ええ。失礼しました。わたし、目がよくて、すぐに働いてくれそうな人を探していたの。あなた、うちに来て働かないかしら?」

「あの…まだどんな仕事か聞いていないのですが…」

それを聞いた彼女は、はっと手を放し、左手を頭の後ろに当てた。このトリシアという女性はなかなか忙しいひとだ。

「ええ。簡単なお仕事です。私の家のお手伝いをしていただければ結構です。ええ。お給料に加えて寝床と食事と…あとシャワーも!どうです?」

給料がいくらなのかはわからなかったが、生きる当てになりそうなのは確かだったので、先程から空腹に侵されている私の脳はその仕事をやすやすと引き受けてしまったのだった。

「じゃあ、おいしい紅茶とサンドイッチを振る舞ってくれるなら…いいですよ。」

ほんのジョークだったが、トリシアは微笑んで、「ええ。」と言った。



私とトリシアは公園の近くの店でティータイムを済ませた後、エディンバラから車に乗って、グラスゴーとの境にあるトリシアの住む屋敷へと向かった。

エディンバラから車で数時間程度とのことだ。道中雨が降り、道は覚えられそうにない。まあ、雨によって視界が悪くなったのもそうなのだが、道を覚えられない最大の理由は、紅茶とサンドイッチを食べて、うとうとしてしまっていたことだった。

「さあ、つきましたよ。」

まどろみのせいか、私は車が目的地に着いたのがわからなかった。

トリシアは傘を持って、車のドアを開けてくれた。

「ありがとう。」

私がそう言うと、トリシアは何か思い出したと言わんばかりに、人差し指を顎に当てた。

「そういえば、あなたの名前を聞いていなかったわ。なんていうの?」

「エリザベス…エリーって呼んでください。」

それを聞いたトリシアは、

「エリー。いい名前ね。」

そういうと、さらに彼女は私に顔を近づけて

「さっきはよく見えなかったけど、エリーってば、随分可愛らしい顔をしているのね。」

自分から言うと、自慢しているみたいになるけれど、トリシアのその言葉は、どうしてか決してお世辞を言っているようには聞こえなかった。



トリシアの住む館は、立派な外見によらず、生活スペースはさほど大きくなかった。トリシア曰くどうやら館の大半は夫との仕事のスペースらしい。そんな少ない生活スペースの中で最も大きい客間で、私はトリシアの家族とあいさつすることになった。

「ええ。では、自己紹介をしましょう。まずはエリー、あなたからしてちょうだい。」

四角い机を両側から二つのソファで挟んで座っている。私の隣にはトリシア、向かいのソファには白衣を着た中性的な顔の、トリシアのいう夫とみられる人物と、長い茶髪の幼い女の子が一人いた。

「はい、えっと。エリザベスです。エリーとお呼びください。何なりとお申し付けください。」

すると、前に座るトリシアの夫らしき人は笑った。

「はは、そんなに改まらなくていいよ。実は、お手伝いを探すようトリシアに言ったのは私なんだ。きみはこの子の面倒と、私たちの仕事が忙しい時に家事をしてくれればいい。要は、きみは私たちの家族になってくれればいいのさ。娘にでもなったつもりでいてくれ。

ああ、自己紹介を忘れていたね。私の名前はキット。よろしく。医療に関する研究者をしている。ちなみにそこにいるトリシアも研究員の一人だ。ちなみに自慢ではないが、私たちは一応イギリス国内ではトップクラスの研究者だから、給料の心配は要らないよ。」

私はキットの言葉を聞いて少しだけ安心した。ひどい環境の職場ではなさそうだし、なにより、家族という言葉が、どうしても魅力的だった。

「よろしくお願いします。」

私が頭を下げると、トリシアは最後に、キットの横にいる少女に声をかけた。

「アリスも自己紹介をしなさい。」

すると、アリスと呼ばれた少女はトリシアのいる場所を見つめて返した。

「この女の人だれ?ママと紅茶とサンドイッチを食べてきたの?わたしも食べたかった!」

するとキットは困った顔で返した。

「アリス、この人は今日から君のお姉さんだ。ここに来てもらった理由は、私たちがお仕事をするときに君が退屈しないようにするためだ。それはさておき、トリシア、また君は勝手にお茶を…」

「ええ。エリーさんはおなかがすいていたようですし、私も久しぶりに都会のお茶を飲んでみたかったの。ええ。」

トリシアは頬を上げて話す。一瞬自分の遠慮のないふるまいが明らかになりそうになり後悔したが、それよりも気になることがあった。

「あの…どうしてアリスさんは私とトリシアさんのことを?」

するとキットは、何か答えようとしたが、その前にアリス本人が返した。

「私ね、においでわかっちゃうの!誰がどこに行ったとか!あとね、耳もいいの!目はちょっと悪いけど…あと!サッカーも得意!」

それに続くように、キットは加えた。

「この子は生まれつき目が見えなくてね。でもその代わり、目と鼻がいい。だから普段の生活に支障をきたすことは滅多になくなってはきたが、それでも何かあっては困るんだ。そこで、君にアリスの補助をしてほしい。いいかな?」

私はそこでようやく、今までの自分の待遇の理由がわかった気がした。盲目の少女の補助、たしかにこれは社会ではあまり好かれない仕事なのかもしれない。

「わかりました。では、今日からよろしくお願いします。」

私がそういうと、トリシアは慌てて言った。

「そうそう、忘れていましたわ。ええ。あなた、ここで長く働くようになったら、いつごろ故郷に帰りたいかしら?」

私は答えた。

「私、故郷には帰らないんです。」

するとトリシアはまた、「ええ。」とだけ言った。その顔は、少し微笑んでいるようにも見えた。



ここで働くようになってから、二週間がたった。

初めて館に来た日からずっと、キットは一日中研究室にいることが多い。トリシア曰く、医学実験は一瞬も目を離せないらしい。かくいうトリシアは、キットに比べて私たちの前によく姿を現す。そしてよくお茶を淹れてくれる。

キットにはトリシアたちを家族のように接してくれ、と言われたが、その時の私はそれを単なるもてなしの定型句として使っているとしか思わなかった。しかし、今となっては、朝起きても一人ではないという感覚が、家族というものをほとんど一人で育ってきた私に教えてくれていた。

今日は珍しく晴れだったので、アリスの要望で、朝食をとったあと館の庭に出た。アリスは相変わらず元気に庭まで走って向かった。目が見えていないというのに、目が見えるアリスと同年代の少女よりも足どりはしっかりとしていた。

私も後を追うように庭に出た。晴れた日の庭に出るのは初めてだった。

「サッカーしよう!」

アリスはいつの間にかどこかからサッカーボールを持ってきた。

「うん、そうしようか。」

私がうなずくと、すぐにアリスは私から距離をとるように駆け出した。20mくらい離れたところで、アリスは寸分の狂いなく、私のところへパスをした。どうやらサッカーが得意というのは本当らしい。

私もアリスにパスを返そうと思ったが、盲目のアリスがどうやってパスを受けとるのか全く見当がつかなかった。私がそれに戸惑っていると、向こう側から大きな声がする。

「エリー!早くー!」

とりあえず私は、アリスが動かなくてもボールがとれるように、アリス同様、寸分の狂いなくボールを届けようとしたが、もちろん普段サッカーをしない私はあらぬ方向にパスをしてしまった。

まずい、と思った矢先、アリスはすぐさまボールの方向へ走り、芝の上を跳ねるボールを器用にトラップした。私は一瞬目を疑った。

「エリーってばサッカー下手ね!」

アリスは、私のボールコントロールのせいで30mも離れたところから叫んだ。

「エリー!私がシュートしてあげるから見てて!」

アリスは長い距離を埋めるため、力いっぱい足を振り下ろした。

しかし、力んだのか、アリスの打った力を帯びたボールは勢いよく館へ飛んで行った。このままでは館のガラスが割れてしまうかもしれない、と私は出来るだけ全力で走った。そして、何とか放物線を描くサッカーボールをキャッチすることに成功した。

「ふう、危なかった。」

私がサッカーボールを置こうとしたとき、ボールの中からわずかに音がした。鈴の音だ。ようやく私は合点した。すべてはこのボールの中に入った鈴のおかげだったのだと。

「エリー!大丈夫?!」

アリスも駆け足で私のところに来た。

「うん。大丈夫よ。続けましょ。」

そうして、それから30分くらいサッカーをしたあと、庭のはずれのベンチに二人は腰掛けて休憩をした。

「こういう遊び、久しぶりだったかも。」

私は気づかぬうちにそう呟いていたらしい。

「そうなんだ。でも、わたしもここに来るまでサッカーはしたことなかったよ!」

「え?」

「え、だから、パパとママに会う前は、サッカーしたことなかったの。」

私はアリスの言っていることがわからなかった。

「あのね。私は6歳の時にここに来たの。それまではシセツにいて、あっでもその前は別のパパとママがいて…」

「つまり…どういうこと?」

「ママがここに連れてきてくれたの!ここならいじめられないし、あとサッカーもおしえてくれたし!」

「もしかして…トリシアとキットはアリスの本当のパパとママじゃないってこと?」

私は動揺に任せて質問した。

「うーん。わかんない。わたしママからは生まれてないけど、でも別のママには育ててもらってないから本当のママじゃないし…」

アリスは珍しく顔を曇らせていた。私はこれ以上聞くのは申し訳ないと思い、アリスからそれ以上聞くのをやめた。

「そっか、じゃあそろそろ戻ろっか。」

私がそういうと、アリスは急に立ち上がって言った。

「あっ!でも私はね!今のパパとママの方が好き!だって優しいもん!あと、このまえ私によく見える目を用意してくれるって言ってたし!」

「目を用意?そっか。すごいね。」

その時の私にはその言葉の意味がよくわからなかったが、のちに、私は彼女の言っていることは間違いなかったと分かるのである。



館に戻ると、トリシアが紅茶を淹れて待っていてくれた。

「おかえり、ふたりとも。怪我はなかった?」

アリスは元気よく「うん!」と返していた。やはりアリスとトリシアの二人の間に何かがあったようには思えなかった。

したがって、私はトリシアにそのことを聞くよう試みた。

「あの、トリシアさん。ひとつ、アリスさんのことで聞きたいことが…」

私が聞き終わる前に、トリシアはかぶせるようにこう言った。

「ええ。申し訳ないのだけれど、キットのプロジェクトも大詰めで、私も今から手伝わないといけないの。だから、冷めないうちに紅茶を飲んだら、部屋の掃除をお願いできるかしら。それじゃあ、行ってくるわね。ええ。」

そして、トリシアは駆け足でその場を去っていった。

トリシアとキット、あの二人は私に何かを隠しているに違いない。私は紅茶を飲み干すと、掃除に行ってくるとアリスに言い残し、とりあえず、一番近いキットの書斎へ向かった。



さいわい、キットの書斎は開いていた。そしてすぐさま私はアリスについての手がかりがないか、机の上をくまなく探したが、アリスに関するものは何もなかった。今度は机の引き出しに目をやると、鈴のついた引き出しとそうでない引き出しの二種類があった。鈴のついていない引き出しを開けると、中には飴玉がいくつか入っていた。しかし、残念なことにアリスには関係がない。そしてもう一方の引き出しを開けると、いくつか写真が出てきた。それは若い女性二人の写真ばかりだった。金髪の髪の長い女性と、黒髪の、トリシアにそっくりな女性だ。きっと、若いころのトリシアと、トリシアの当時の友達かなにかの写真だろう。しかし、写真の束からはアリスが映っているものはなく、手掛かりなしかと思いきや、一枚の紙きれを見つけた。そこには、こうあった。


プロジェクト名「NEW EYES」


一切の子供が出来ない私たちの、愛しい娘となったアリスは、優れた耳と、優れた鼻を持って生まれた。盲目という代償を払って。

目が見えない彼女にとって、日常生活は常に危険と隣り合わせである。彼女の真の幸せのためには、やはり『目』が必要だ。無論、彼女の幸せとは私たちの幸せでもある。

よってこれより、彼女に目を授けるため、私たちは良く見え、健康な目の持ち主を探すとする。

まず__


「なんだ、アリスにしては部屋を出るのが遅いと思ったが、君だったか。


こんなところで何をしている?」


唐突に、背後からキットの声が聞こえた。

私は思わず背筋をピンと張った。そしてそれと同時に寒気が走り、手先が震えはじめた。何かしていけないことを、親に見つかったような、そんな気分だ。

「えっと…部屋の掃除を…」

「箒も持たずにか?」

キットは怪訝な顔をする。

「いや…それは…」

「見たのか。それ。」

キットは問い詰めるような語勢で尋ねる。

私は何も答えられなかった。見つかったこともそうだが、何より、アリスの言っていたこと、トリシアが私をここで働かせた理由、そして、大詰めになっているキットのプロジェクトが意味することへの恐怖が、私を完全に震え上がらせてしまっていたのだ。


「ついてきなさい。」


キットは静かに言った。



私は、この一家の秘密を、そして、私がここに連れられた本当の意味を知った。アリスという少女は、何かの都合で妊娠できなかったトリシアの娘として、アリスが昔居たという施設から引き取ってきたのだろう。そして、トリシアとキットは盲目のアリスが視力を得るために、私を呼んだ。健康な目を持つ私を、否、健康な眼球を持つ私を。そう、すべては演技だったのだ。健康な目を、無償で移植させてくれる人などいないのだ。だからあえて、お手伝いと称して、それも、すぐに帰る当てのない人間を、街から隔絶させたこの館に連れてきたのだ。今思えば、故郷に帰るか質問したのも、もし私がことに気づいた時の逃亡を恐れたからだろう。私はその手の事に詳しくはないが、ふたりは医療研究者だ。移植くらいは自前でできるのだろう。ここまでの二週間も、キットは移植の準備をし続け、そしてトリシアは私の事を監視していたのだ。

しかし、気づいたところでもう遅い。今私はキットに連れられ、トリシアもいるのであろう研究室に入った。

「トリシア。おまたせ。」

キットは穏やかな声で言う。

「ええ。待ったわ。でも、その様子だとどうやらエリー、私たちの事を知ってしまったようね。」

トリシアは笑っている。その顔は怒りなのか、嘲っているのかはわからない。

そしてキットは言った。

「もう察しがついているかもしれないが順を追って説明しよう。」



キットは、研究室のドアにカギをかけると、私の前に立った。

そして、おもむろに服を脱いだ。

私は訳も分からずその様子を見ていたが、キットが下着姿になった途端、私は驚愕した。

キットの身体つきは男性にしてはあまりにも貧弱なものだった。いや、違う。

キットの下着はブラジャーと、女性用のパンツであった。起伏のある滑らかな肌。そう、キットは男性ではなく、女性だった。

その姿にあっけをとられていると、キットは白衣を羽織り、語り始めた。

「見ての通り、私は女だ。私とトリシアは夫婦ではあるが、一般のものとは違って、レズビアンの夫妻だ。

だから私たちの間には子供が生まれるわけがなかった。そんな最中、私たちはロンドン大学で共同研究をする機会があった。そのとき偶然大学の教授が営む孤児院で、アリスを預かってほしいと言われた。アリスは盲目を理由に、幼くして両親に捨てられたそうだ。院内でも、目が見えないことを理由に孤立し、いじめを受けていて、何としてでもその状況を変えたかったらしい。はじめは一時的に預かる予定だったのだが、次第に私たちはアリスを自分たちの娘のように感じはじめ、気づいたら正式な手続きを踏んで、娘として迎え入れていたよ。おかしな話だったよ。

しかし、アリスは目が見えない。その代わりにほかの感覚が鋭いと言っても、すべてをカバーできるわけじゃあない。だから…」

そこまで聞いたところで、私は思わず叫んだ。

「だから…だから私の目を使って…!!」


「そう。その通り。アリスのための目が必要だったんだ。」


私は全身から血の気が引くのを感じた。立っているのがやっとだった。どうしてか、私は頭の片隅でキットが否定してくれるのを期待していたというのに。

「そんな…」

私がそうこぼすと、トリシアは穏やかな声色で言った。

「ええ。大丈夫よ、エリーさん。あなたは今まで通り、アリスのそばにいればいいのよ。」

優しいトリシアの笑顔は、今の私には猟奇的なものにしか見えなかった。

「それは…私がアリスの一部になって…ということですか。」

今度はキットが答えた。

「いやいや、そこまでとは言わないよ。君はいつも通りでいい。」

私の動揺とは相反するように、相手二人は冷静である。そんな姿を見ているうちに、私は腹の奥底が熱くなった。耐えようにも、どうしようもなかった。そして、すこしも経たないうちに、私はその熱をぶちまけてしまった。

「こんなのでいつも通りでいられるかよ!私の目はどうなるんだよ!」

実験室に怒号だけがむなしく響く。ややあって、トリシアとキットは顔を見合わせてから、キットが口を開いた。

「私たちの事、何か勘違いしていないか?」



「ははは、なるほど。それは考えなかった!君の想像力には驚いたよ!」

私が一生懸命に、ふたりが私の目をアリスに移植しようとしているのではないかと問うと、キットは腹を抱えて笑った。

「アリスの目になってもらう、っていうのは単にアリスの介助者になってもらうこととのたとえさ。そもそも私たちは研究者だから手術は出来ないし、よしんばできたとしても目の移植は世界でもできる人は数人だし、生まれつきの盲目は移植ではほぼ治せない。まあ、なにより、そんな発想僕らにはなかったしね。」

しかし、それを受け入れるとなると、私の中に疑問が生じた。

「じゃ、じゃあ、キットさんの部屋に入ったとき、どうしてすぐに駆け付けたんですか?私の事を見張ってないとすぐには来られないし、何より見せたくないものがあったんじゃあ…」

すると、キットは丁寧な口調で説明を始めた。

「まず、私がすぐ駆け付けられたのは、引き出しにつけた鈴のおかげさ。アリスが私の机だと判別できるようにつけたものだよ。そして、見られたくないものに関しては…確かにあった。それはあの写真さ。若いころの私とトリシア。あの写真の時期を最後に私は長髪をやめたからね。なんだか他人にそういうところを見られるのは恥ずかしくって。紙きれの方は、職業柄、なにかしておくべきことがあるとああやって紙にまとめないと気が済まないんだ。そのおかげで、いつか言おうと思っていた私たちの特殊な事情を説明するチャンスになったんだけど。」

その淡々と説明していくキットの姿を見ているうちに、私の頬に熱が広がってきた。


「そ、それじゃあ…私…さっきまで勘違いして、ひとりでに追い込まれていただけってことですか…?」


それを聞いたトリシアは、

「ええ。」

と言って笑った。



エピローグ


「エリーってば、どこへ掃除にいったのかしら?」

アリスはエリーが箒を持たずに掃除へ行ったので、それを届けるべく、エリーを探していた。

「あっ、エリーのにおいがする…」

アリスはエリーの匂いをもとに、キットの書斎へたどり着いた。

「エリー!箒!」

しかし、その部屋にエリーの返事はなかった。

「おかしいな、エリーのにおいはするのに…あっそうだ!エリーが来るまで代わりに私が掃除、手伝っちゃお!」

アリスは箒をうまく使って、部屋の中にある物の位置を把握する。そして、机の前を歩くと…

「あっ!このにおい!わたしの好きなやつだ!」


ところ変わって、研究室。


「あの…最後に一つ質問していいですか?」

エリーは着替えなおしている途中のキットに質問をした。

「なんだい?私はキメラもフランケンシュタインも作ってはいないよ。」

キットは笑いながら答える。

「違います!もうその話はいいですから!あの、書斎の、鈴のついていない方の机の引き出しにあった、あのたくさんの飴はどういう意味なんですか?」

すると、キットは白衣の襟を正してから答えた。

「素敵な来訪者への、ちょっとしたおもてなしのつもりだよ。」




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