第9話 月暈(げつうん)
「動くな。質問に答えろ。それ以外は口を開くな、鼻を削ぐ」
女! その声の主を鍋倉は直感的に、霊王子だと思った。
「おまえは鍋倉澄だな?」
「そうだ」
「『撰択平相国全十巻』はどこに隠した?」
「燃やした」
「言い忘れたが嘘をつくと耳を削ぐ。念を押すが悲鳴は鼻だぞ。さて、もう一度訊く。『撰択平相国全十巻』はどこに隠した?」
困ってしまった。どこに隠したかと問われれば、燃やしてしまったのだから他に言いようがない。『撰択平相国全十巻』を持っているか、なら答えられる。当然、ないと言うし、だったら女は、どうしてないのかと問うだろう。あるいは誰に渡したか、と問うのかもしれない。どうしてないのか、の方は燃やしたとすんなり言えるが、誰に渡したかの方は清盛公に、とでも言おうか。それで燃やしたと話をつなげればいい。だが女の太刀はいまだ目の前にある。その一方で己の右手は枕になっていた。さらには女の執拗な、どこに隠したかの質問。これでは言いたいことが全く言えない。
なにか手立ては、と暗闇に慣れてきた目で周囲を探る。左手の近くに枕が転がっていた。刹那、その枕を左手で掴むと目前の太刀に差し込んだ。相手に心の機微を読ませない一瞬の判断と早技である。鍋倉は相手から距離をとるために横転、立膝に体を起こす。
両者は正対した。
月光の淡い光を背に、おぼろげながら浮かびあがる白い水干。そして女。その姿は男装の麗人と呼ぶにふさわしい。鍋倉は、やはりと思った。といっても、こんなに早く来るとは思ってなかったが、今日の試合を聞きつけて予想通り相手が向こうからやってきた。
「霊王子だな」
返事はなかった。すでに白拍子の太刀には、鍋倉に刺し込まれた枕はない。いつでも斬りかかれる構えだ。だが、せっかく話が出来る状況になったのだ。この機を逃すべくもない。
「遠藤為俊と戦った者が佐渡から来た鍋倉ってんで、ここに来たんだろ? しかもそいつが文覚様の孫弟子となりゃな、居ても立っても居られなかった。そうなんだろ?」
だがやはり、白拍子は答えない。
「ま、いいや。それは置いておくとして、昨日、鳥羽作道でぶん殴った男、覚えているか?」
少し、白拍子の切っ先が下がったような、下がらなかったような。月明りとはいえ、逆光であったために表情が読み取れない。
「もの凄い一撃だった。あんた、腕が立つんだね」
白拍子はまったく話に乗ってこない。鍋倉は自嘲した。
「それこそ、どうでもいいか」
打ち解け合えるはずもない。笑みを振り払い鍋倉は、やはりちゃんと話さなければと気持ちを入れ替えた。
「『撰択平相国全十巻』を欲しているとなりゃ、やはり佐渡への刺客、あんたの指図か?」
白拍子はだんまりだった。正対してからずっとこの調子。それでも構わず鍋倉は続けた。
「おれはあんたに会って是が非でも言いたかったんだ。あれはこの世にあってはいけないものなんだ。持ち主があの世のものではこの世のものを不幸にする。『撰択』のおかげで親父もおれも随分あんたのところの者を切るはめになった。もしあんたがそれを持ったところで同じことを繰り返すにきまってる。そんなものはちゃんと帰すべきところに帰さねばならないんだ」
そこでやっと白拍子が口を開いた。
「それで燃やしたのか?」
そう言って、ひとしきり笑った白拍子だったが、声を荒げた。
「信じられぬわ!」
白拍子が太刀を振り上げた。と、この時、遣戸が引かれた。開けたのは佐近次である。鍋倉に振り下されようとしていた太刀は、刹那、宙でひるがえり佐近次へと向かう。それを佐近次が横に飛んでかわした。
おそらく白拍子は最初から、邪魔が入ったらそうすると決めていたんだろう。迷うそぶりもまったく見せず、佐近次がどいて空けた空間に身を躍らせた。あとは見送るばかりである。月明りの中を白い水干が庭を跳ね、塀を飛び越し、闇に消えてしまった。
鍋倉は呆然としていた。霊王子が遁走する時、振り向きがてら月光に照らされたその顔が目に焼き付いて離れない。涼しい目元に滑石のような肌。それが月の光に照らされ濡れたように光っていた。
「さっきの霊王子とのやり取り、本当か?」
佐近次は二人の会話を全て聞いていたのだ。白い水干が消えた先をまだ見ている鍋倉。その肩を、佐近次が荒々しく鷲掴む。そして有無を言わさずぐいぐいと引っ張ってゆく。
「悪いがみな、出てってくれ。今からわたしは鍋倉と果たし合いです」
そこはまだ、酒で乱れていた。唐突なことに、経緯が掴めない門人らは戸惑ったが、こういうことは一門の間ではよくあること。といっても佐近次にしては珍しいのだが、みな、酒宴を諦めて早々にその場を立ち去る。東の侍所へ、西の侍所へと帰って行った。
西の対屋は閑散とした。当時この手の建造物は、家屋の主体となる母屋を中心にその周囲を廂が回り、さらにそこを濡縁である簀子が取り巻いていた。床の高さも母屋が一番高く、廂、簀子の順に下がっていき、天井はというと母屋にしかなかった。
また、塗籠と呼ばれる土壁で囲まれた空間もごく一部で、廂にはなく、母屋にだけしかなかった。家主やその家族の寝所、あるいは宝物庫として使われていたのだが、これ以外に密閉空間はなく、他はおおむね広く開け放たれていて、部屋の仕切りと言えば簾や屏風であった。
ところが、今出川邸の西の対屋はというと、塗籠がないどころか簾や屏風などの調度品もなかった。柱だけが点在するだだっ広い空間。当然ながら、今出川邸は鬼一法眼のために建てられた邸宅である。つまりは、武芸の修練の場。
鬼一法眼が居た当時、西の対屋には多くの門人がつめかけていた。母屋で木刀を振るえない者は廂に降り、その順番を待ったという。だがそれは過ぎたりし日々。今はそれだけの広さは必要なく、母屋と廂の間には引き戸である遣戸がはめ込まれ、空間を狭くしてさびれた感を緩和させていた。
その母屋の床に、転がる木刀の音が響いた。佐近次が投げたのだ。
「教えを請いたいのであろう?」
いまだにぼーっとしていた鍋倉は、はっとした。
「教え? 果たし合いだろ。ま、わけが分からないがいい機会だ」
木刀を拾った鍋倉は正眼に構えた。佐近次はというと、だらりと下げた右手に木刀。切っ先を下に向けたままで全く動く気配が見えない。
どうしたものかと鍋倉は考えた。おそらく佐近次さんは誘ってきている。おれの太刀をかわしつつ必殺の一撃を放ってくるのか、あるいは振るう勢いを利用してその太刀を叩き落そうとしているのか。間違いなく、受けることはないだろう。
であるならば、誘いに乗ったと見せかけて一手目は陽動、佐近次さんが仕掛けてくる前に二手目で勝負を決する。そう算段した鍋倉は、佐近次のかわしてからの一撃を警戒しつつ踏み込むと左袈裟に木刀を振った。果たして目論見通り、佐近次が斜になってかわした。
読んで頂きありがとうございました。次話投稿は木曜とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。




