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掃雲演義  作者: 森本英路
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第88話 掃雲快剣


 鍋倉は先ず、『四身式』が乗った三方を手に取った。九人居並んだ最も年長の男の前に立つ。鬼善と最初に戦った比叡山の鶴丸である。鍋倉は深く礼をした。夜叉蔵によると、この老翁とは昔馴染みということだ。おそらくは『太白精典』の秘密も知っていただろう。もし、この老翁が鬼善と最初に戦っていなければ、武術会の結果はこのようにはならなかった。さすればおれは、こうやってこの老翁の前に立つことは叶わなかった。


 その老翁が言った。


「盟主殿、いつまで頭をおさげなさる」


 あっと思い、鍋倉は三方を差し出した。鶴丸が言った。


「そうではない。顔をしっかりお見せなされ。冥途の土産にしとうござる」


 鍋倉はきりりと顔を引き締めた。鶴丸が続ける。


「慶海のことを悪く思われるな。あやつはあれで気配りが出来た男での、御山では好かれておるのじゃ。皆の言葉を聞き入れて、皆の願いを叶えてやろうと躍起になっておるんじゃ。間違ってもあやつは私心では動いていない。それと夜叉蔵、友に成り代わり礼を申す。貴殿に出会ったおかげであいつは昔の自分に戻れた」


 鶴丸が深く頭を下げた。


「もったいない。表をお上げください」


 こうべを直した鶴丸は晴れやかな笑顔を見せた。そして、『四身式』を受け取った。


 それから鍋倉は『周天廻宝』を愛宕三山の半眼居士に、『役三行』を大峰山の宗憲法印に、『福聚輪』を三井寺の空尊にとそれぞれ手渡していく。そして高野山の遍照である。


「その節は大変なご無礼、平にご容赦を」


 確かにさんざんな目に会わされた。でも、夜叉蔵と会うことが出来た。


「お気に召さるな。あのおかげで今日がありまする」


 鍋倉は『三武書』を手渡した。遍照は深々と礼をする。


 興福寺の順覚の前に立つと理潤が『筒井家伝』を乗せた三方を持ってきた。鍋倉はそれを順覚に手渡す。そして、命じた。


「神刀ことひらを」


「はっ」と道意が畏まって太刀をかかげる。鍋倉は言った。


「礼を言わしてください。わたしはこの神刀から、責を背負う覚悟というものを教えられました。今日あるのは神刀のおかげだと言って過言ではありません」


 鍋倉は、道意から神刀ことひらを受け取ると順覚に手渡した。神刀ことひらに添える順覚の手が感激で震えている。


「なにをいわれるのです。礼を申すはこちらの方。このご恩は一族あげて報いる所存」


「お気持ちだけ頂いておきまする。わたしは佐渡に帰らねばなりませぬから」


 にこっと順覚に向けて笑顔を送り、続いて『洗髄経』が乗った三方を手に取り、東大寺の僧の前に立つ。


「友はこの奥義書に命をかけていました。ですが、今は亡き人となり残念でなりません」


 東大寺の僧がその三方をうやうやしく受ける。そこで鍋倉は黙とうした。しばらくそれは続いたがその間、境内は水を打つ。誰もが静かに鍋倉を見守っていた。


 おもむろに、鍋倉は八龍武の方へと手を伸ばした。理潤がさっと前に出て来て『太白精典』を乗せた三方を差し出す。鍋倉はそれを手に取り、快命の前に進み出た。満面の笑みの快命が待っている。『太白精典』の乗った三方を手渡す。


「快命様、どうか」

「わかっておる。ちゃんと封印するわ」 

「ありがとうございます」

「なぁに、礼にはおよばん。それよりも佐渡に帰ると言ったな。その前に熊野に寄れ。これは吉野からの約束じゃ。屹度きっと守ってもらうからな」

「ええ、必ず。それに蓮阿様とも会いたいし」

「ああ、たのしみだ。良い酒を用意しておく」


 鍋倉が酒に目がないと聞いていた。自分でそう言っといて、うんうんと快命がうなずいている。


 鍋倉は振り返った。そこには道意が、何も乗っていない三方を手に立っていた。鍋倉はその三方を受け取ると源智の前に出た。源智は平師盛の子であり、ここ神護寺は、清盛直系の最後、平六代が文覚に保護されていた地でもあった。


「大事なものを燃やしてしまってなんと詫びればいいのか」


 鍋倉は、源智の前にひざまずいた。源智が慌ててその身を起こそうと鍋倉の肩に手を添える。


「さ、さ、立って下さい。そしてその三方を手渡して下さい。私どもは鍋倉殿のお気持ちを頂きに来たのです」


 そうだ、それしかできないのだと鍋倉は立ち上がり、何も乗っていない三方を源智に手渡した。と、この時、源智は息を呑み、固まった。


「……清盛公」


 鍋倉の後ろに平清盛が立っていた。その姿は満足げでもあり、鍋倉をいたわっているようでもある。それだけでない。西行、文覚、平六代、法然、鍋倉淵、霊王、盛長、佐近次と次々に、そして談笑しているかのような賑やかさで現れた。さらには、それに加わるようにして、多くの亡き人も押し寄せるようにしてどっと姿を現した。


 黒山になる亡霊たち。ここにいる観衆全てがその中に見知った顔を見つけた。彼らは横たわり、物言わず永遠の別れを告げたはずだった。それが皆、笑い顔なのだ。どの顔も、どの顔も、どの顔も笑っている。今にもそこから笑いさざめく声が聞こえるようであった。束の間、それがその聞こえぬ声を残して消えていった。


 唖然と眺めていた観衆だったが我に返ったのか、どよめきが沸いた。誰もが確かに、いないはずのそこに人の姿を見たのだ。あまりに奇怪なことで信じられないと戸惑い、互いが互いに確かめるように顔を見合わせる。そしてその顔色から疑いが確証に変わると今度は、清盛ら亡霊がなぜ現れたのかと浮き足立つ。


 果たしてその問いに、境内を埋め尽くした人々の中の誰かが答えた。


「何かを伝えようとしていたのではなかろうか?」


「たしかに」と、そこかしこから囁く声が聞こえてきた。祟っているようにはまったく見えなかったのだ。


「なら、いったい何を」と互いにまた顔を見合わせる。


 はらはらと源智が涙をこぼした。


「清盛公も平家一門もみな、笑っておられた」


「そうだ、そうだ」と観衆からも声が上がり、「誰それは笑っていた」とか、「誰それはほほ笑んでおられた」とか口々に言い合う。


 これら亡霊の生前を偲ぶ時、決まって苦悶、苦痛、苦悩、憤怒で語られるものだった。そして誰もがそれを自分のことのように悲しみ、そうなった理由を憎しみ、その無念を晴らすことを己に課していた。だが、それは暗闇の中を進むようで背筋が凍りつく想いであった。といっても立ち止まるわけにはいかない。立ち止まれば想いに押し潰されるのだ。


 それが払拭された。今まさに己の心にあるのは、彼ら亡霊のにぎやかな笑顔だけ。涙をこぼす者もいた。経を唱える者もいた。それら皆一様に、喜びで体を震わせていた。


 見上げれば空は、一片いっぺんの雲をもとどめぬほどに、どこまでも青く、そして、高かった。





 

 過去を振り返る鍋倉は、空の向うを見るような遠い目をしていた。


「あれからよくよく考えたんだ。あの返還式は偶然でなく、亡霊らによって導かれたのではないかとね。でも、亡霊らはなにかを伝えようとおれたちを集めたんじゃないと思う。そこに集った者の心に広がる暗雲を祓いにやってきたんだ。現に、どの者の心も、闘争心どころかその遺恨まで取り除かれた。遺恨は心にある。その心が晴れ渡れば、そこあるのはまっさらな自分、未来だけなんだ。そう考えると身震いがする。おれは、もしかしてとんでもないところに居合わせたのではないか。あの時あの場所が新たな時代の幕開けだったのかもしれない」


 捨てられたように転がるクワや鋤き。片足を上げたように傾く切り株。縄はとぐろを巻き、材木は梁の形になる一歩手前であった。まさに開かれようとしている大地。そこに鍋倉を囲って、何重もの人の輪が出来ていた。彼らはここに、争いのない理想郷を作ろうとしている。


 悲しい生い立ち、突然降ってわいた不幸。食うに困って子を失う者もいた。騙されて身をやつす者もいた。自分がなにをしたというのか。その自問自答が続く日々だった。そして、半分そこから逃げるようにここにやって来た。彼らにとってここは最後の安寧の地。


 その一方で、不幸慣れした彼らは思うのである。ここは砂の城郭。一雨降れば一瞬に消え失せる。だが、それは、間違いだった。暗雲は晴れたのだ。清は咽び泣いていた。夜叉蔵も肩を震わせていた。誰もが涙で頬を濡らした。皆、心にのし掛った重い荷物を下ろせたに違いない。


「ちなみに霊王様は若く美しい姿で出ていらっしゃったらしい。おれは、ばあさんの姿を探したんだが見つけられなかった。けど、なんのことはない。あんな歯抜けの苦々しいばあさんじゃなかったと。霊王様を知る誰もが言っていた。出てきたのは色めき立つ娘だったと。源智さんが言うのだから間違いない」


 くすっと清が笑った。すると皆が声を上げて笑う。


「それにしてもあの高弁が返還式に教団を入れるとは」


 夜叉蔵が驚きを隠せない。誰かが言った。


「鍋倉様に感服なさったのでは?」


 夜叉蔵が言った。


「高弁は情に流されるような男ではない」


 鍋倉が言った。


「だが、返還式の全てが高弁様のお計らいなんだ。高弁様はこうおっしゃった。おまえの話で少し考えを変えたと」

「お前の話?」

「鬼善の戦いの折、神刀ことひらがおれに向かって落ちて来たって言ったろ。あの時、御仏に全てをゆだねたんだ。それを高弁様に話した」

「それが教団を返還式に入れた理由か?」

「こうおっしゃられた。菩提心と御仏に心底ゆだねる心は表裏一体か、同じ仏道からその教えが生まれたからには念仏門は法然様一流の方便で、真理は最後につながっているかもしれんと。まぁ、おれにはちんぷんかんぷんさ」


 皆、笑った。だが、夜叉蔵は腕を組んで俯いていた。清から聞いた話を思い返していたのだ。それは鍋倉に当たるはずだった太刀が逸れたのだという。そこに鬼一法眼の意志を感じずにはいられない。いや、ずっと前から感じていたはずじゃないか。鍋倉は何かに導かれていると。


「霊感の鋭い高弁のことじゃ。あの男は亡霊の御業みわざを、奇跡が起こることを、おまえさんから感じ取っていたのかもしれん。高弁が言う真理云々こそ方便」


 鍋倉は言った。


「方便? 嘘をついたのか? ならば最後の最後に高弁様はらしくないことをしたってことじゃないか。いや、最初からひっくるめてそれでこそ高弁様ということか」


 清が言った。


「あるべき所に帰す」


 皆の目線が清に集まった。


「澄がわたしに言った言葉だ。今出川邸で会った時も、吉野で『撰択平相国全十巻』を渡してくれと頼んだ時も。澄の心を、亡き者達がちゃんと受け取って下さっていたんだ」







読んで頂きありがとうございました。次投稿は明日の9時、次話は最終話となります。

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