第87話 返還式
伊勢国河内谷。その清流を淵源に向かう鍋倉澄の姿があった。時は疾うに晦日を越え、初夏となっていた。
渓谷に射し込む木漏れ日が、鍋倉を誘うようにずっと先へ続いている。岩間を渡る虹を飛び越え、苔むす岩畳を縫うように跳ねていく。若葉を透いた陽光が、辺りを緑に染めていた。大きく呼吸する。生命の匂いにあふれていた。かくして山の谷間に集落が姿を現す。鍋倉の胸が高鳴った。
集落は沢に沿って森を切り開いたものだった。人々はなおも耕地を広げようと木々を伐採し、寄ってたかって切り株の根を引いていた。鍋倉はそれを横目に駆け抜け、住居群に入るや否や、清、清、と呼ばわった。その声に、家事する女や遊んでいた子供が群がり、ほどなく騒ぎになった。顔を知っている女を捕まえた鍋倉は息せき切って言う。
「清はどこだ」
「すでに呼びに行っていますって、あれ!」
嬉々と女が耕地の方を指差した。そこに清が立っていた。その姿はもう白拍子ではなかった。小袖に小袴で肌が土に汚れていた。鍋倉は弾むような足取りで駆け寄る。そしてまじまじと見た。
「清、おなごらしゅうなった」
うつむき加減の清。畑仕事の手で汗を拭ったのか、大きなおでこに白く乾いた土が筆で刷かれたようについていた。
「佐渡に帰ろうと思ったが、ついつい足がこっちに向いて来てしまった」
清は笑みを、ぱっと顔いっぱいに広げた。そして、うつむいていたのが上向く。ほんのり頬が赤かった。
「ついつい?」
鍋倉は腕を組んで唸った。すでに周りには黒山の人だかり。集落の人たち全てが集まってきたのだろう、言い出しづらかったが思い切る。
「清、前にも言ったが、お前が逝くというのなら、おれもそこに逝くという約束だろ」
歓喜の声が上がった。
鍋倉は清の顔をのぞき見る。
ふふんと清が笑った。
「じゃ、許してあげる」
そう言って清がいきなり胸に飛び込んでくる。
「もう、どこにも行かない?」
「おれは時代の瓦礫を集めたような男だ。そんなおれがふらふら日の当たる場所を歩いていては新しい世のためになるまい」
人々は大はしゃぎであった。そこを掻き分け掻き分け小柄の僧が前に出た。
「ほう、よく分からんが、気のきいたことを言うようになったのう」
鍋倉の開いた口がふさがらない。その僧こそ、夜叉蔵なのである。くすくす笑う清が耳元で囁く。
「夜叉蔵は住職になったぞ。それに大金を用意してくれて当分食べるに困らない」
「なんじゃ、二人して」と夜叉蔵。
「あれのことを言っていたの」と指差す清。その先には寺が建てられようとしている。十人程の大工らがノミや槌をふるっていた。どうみても本職である。いっちょまえにと鍋倉は吹き出した。
「心外じゃ。わしがせっせと稼いだ金で寺を建てたんだからいいじゃろうが」
なにがせっせとだ、世間をあんなに騒がしておいてと鍋倉はその言いぶりに腹をよじった。
「そういうおまえはなんじゃ。盟主の大任にどうせ訳が分からなくなって逃げて来たんじゃろうに」
鍋倉はふんと鼻先であしらった。
「されど約束は守った」
「法然様のお遺骸は無事、荼毘に付されたというのは聞いた。それで安心して逃げてきたのは頂けないが、そろそろわしも潮時じゃし、『啓明祓太刀』を授けねばならん。ま、良いじゃろう」
鍋倉が何もしていなかったような口ぶり。確かに荼毘に付したのは吉水教団。だが、おれもやることはちゃんとやってきた。鍋倉はむっとした。
「おれの方が心外だ。みんなが去った後、突然月見が言い出したんだ。清はおれのために身を引いて平安京を離れた。あなたは清を追うべきだってな。だけどおれにはやるべきことがある。だから奥義書もちゃんと返還したし、月見の身の振り方だって手を打ったさ」
夜叉蔵らは奥義書が返還されたことなんて聞いていない。平安京の情報は逐一入れていたが、各山の奥義書は鍋倉が握っていたし、法然が荼毘に付せられたと聞いて安心もしていた。目下の問題は食つなぐこと。種を蒔き、苗を植えないと干上がってしまう。平安京から連れてきた者たちは百を軽く超えていた。いくら夜叉蔵に財力があろうとも一年ももたない。自分の知らぬところでそのようなことが行われていたことを夜叉蔵は不満に思った。
「奥義書の返還? やつらを黙らせておくには丁度よかったのに、それをなぜおまえは返した。申してみよ」
――― 時は一月を遡る。
侍烏帽子の鍋倉が文覚の墓前で手を合わせていた。
「鍋倉殿、もうそろそろ刻限です」
後ろ手からの声に、鍋倉は返事だけをし、墓前へ語り掛けた。
「文覚様とはずっと何かの縁で結ばれていたような気がしていました。ありがとう御座います。でもおわかれです」
鍋倉は、立ちあがり振り返った。僧綱襟に七条袈裟の高弁がたたずんでいた。
しかし、高弁にしては珍しい。平重国の子として生を受けた高弁は立て続け起こった内乱の犠牲者でもある一方で、被害を受けた人々も目の当たりにしてきた。驕慢心を取り除こうと己の耳を削ぎ、過酷な修行を自身に課し、一時は天竺に渡ろうとさえ思ったこともあった。
恐ろしくも苛烈な人生。おそらく、着飾ったのは生涯初めてなのではないだろうか。終の棲家、栂尾山高山寺にかかげてある掛け板。
『阿留辺幾夜宇和』
この日、高弁にとっては着飾るのがあるべき姿だったのではないだろうか。別に来世を、浄土を信じていないわけではない。だが、現世を捨てるべきではない。あるべき姿とは一体なんぞや、と人は己に日々問うて生きていかなければならない。それが『あるべきようは?』ということ。
天高く、雲ひとつない。眼下に広がる森や耕地。その向こうに平安京が小さく見えていた。以前ここから見た風景は日の出前で真っ暗闇であった。
「高弁様、ここは高雄山で一番いいところですね。文覚様もさぞ満足なさってるのではないでしょうか」
「わたしはこの御方以上に世話になった人はいない。恩返ししたつもりだが、いらぬことをするなと声が聞こえそうだ」
文覚の墓前で、高弁がめずらしく苦々しく、いや、はにかんでいるのか、笑った。
神護寺は、文覚の墓標。そして平家の最後、平六代の墓標でもある。今日の高弁の装いは、自尊心を満足させるためでないのは言うまでもない。高弁はきっと彼らに、『礼』を尽くしたのではないだろうか。
「さ、鍋倉殿、時刻です。六波羅探題北方、北条時氏様を待たせてはなりませぬ」
後鳥羽上皇との戦いに勝利した幕府は、朝廷の監視と平安京の治安維持、それらに伴う軍政を統括する執政官を六波羅に南北二名派遣した。その一人が時氏で、執権北条泰時の嫡子でもある。
その時氏が、金堂にいた。工藤の上司とは思えぬ福耳と優しい目を持った心穏やかそうな男であった。高弁の後ろで平伏した鍋倉は、時氏の指図で顔を上げる。そして、時氏から「勲功は一国に値する」との賛辞が送られて、そのうえで「褒美は何を望む」と問われた。
「恐れながら」と鍋倉は畏まった。「一つお願いしたい儀がありまする」
時氏が高弁を見た。事前に高弁から月見のことは聞いていた。そのことだと高弁が軽くうなずいて見せる。時氏が一度咳払いをし、「申してみよ」と言う。
「されば、」と鍋倉は時氏を見据えた。「今出川月見を貴方様の養女にお迎えいただきたい。お願い致しまする」
その言葉が鍋倉の口から出るまで時氏は、半信半疑であった。月見の噂を知っている。世にも美しい女だという。
「鍋倉、おぬしはそれでよいのか?」
鍋倉は即座に、「はっ」と短い、切れの良い返事をした。
「月見殿は?」
「ふたりで相談した結果でござれば」
「うむ」と時氏がうなずいた。「よほどの考えがあってのことだろう。あい分かった。後のことは心配するな、鍋倉」
「ははっ」と鍋倉は平伏し、金堂を後にする。
外へ出ると境内は僧兵らで埋め尽くされていた。どの顔も神妙な面持ちである。鍋倉は気持ちがぐっと引き締まった。息を大きく一回吸って歩を進める。
待機していた八龍武の面々が、進む鍋倉の後ろに付く。この時、金神八龍武は欠員を埋め八人となっていた。そして、その手にはそれぞれ奥義書を乗せた三方があった。鍋倉は晴れやかな気分で演武台に向かい、面々がそれに連なる。
演武台の階段を上がった。
各山の代表八人ともう一人、吉水教団の源智の姿があった。ただし、高弁には代理が立っていた。高弁は北条時氏の傍に控えるという理由でそれを辞退していたのだ。その高弁が時氏と一緒に金堂の簀子に姿を現す。
鍋倉は、居並んだ各山八人、そして吉水教団の源智と向かい合う。後ろ手から奥義書が乗った三方が差し出された。それをこれから各山の八人に手渡していくのである。
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