第83話 天秤
呼ばわる月見の声色に、何事かと侍女がすっ飛んでいく。月見はというと、慌てる侍女を受け止めて、強く手を握った。
「今夜、鍋倉殿の寝所に行きます。もしすげなく断られたらこの屋敷を出ます。佐近次と遠くに行くのです。着いて来てくれますね」
どういう経緯か分からないが、月見が行くならと侍女はうなずき、そして言った。
「今夜、鍋倉殿と」
月見は大きくうなずいた。侍女は不安を覚えた。
「佐近次はそれを承知しているのですね」
「いいえ」
「え? では、佐近次はどうするのです」
「鍋倉殿がお情をお恵みくださいましたら、知らぬふりです」
「知らぬふりとは?」
「知らぬふりです」
「それでは佐近次を騙したことにはなりませぬか」
「いや、騙されていたのは私の方です」
月見は侍女に、佐近次が何者なのか、なぜ今出川邸に来たのか語って聞かせた。
「鍋倉殿に気持ちを移してしまったわたしを、佐近次は責めるのだろうとてっきり思っていました。されど、間違っていました。ほっとした反面、ちょっと残念でした。佐近次はもうわたしのことはきっぱり諦めている。わたしには未練がないのかと。わたしは馬鹿でした。よくよく考えれば佐近次は、初めっからわたしを好いていたのかどうか。……わたしは騙されていたのです。どうにもやるせなく最後は佐近次を忌々しく思いました。されどふと、鍋倉殿がすげなくなされたら佐近次といっしょに南宋に行こうと。今度は私が騙すのです」
「姫様が死ぬなんておっしゃらないのなら、わたしはそれで十分」
そうは言ったが、「お可哀そうに」と侍女はむせび泣いた。
夜更け、鍋倉は昼の御座を立ち、すぐそこにある塗籠へ進んだ。するとどうだろう。その妻戸の前に月見がいた。沈んで小さくぽつりとそこに座っている。鍋倉は、あたふたとするばかりで声を掛けられない。その慌てようにまるで気のないそぶりの月見が、おもむろに顔を上げる。
「見せたいものがあるのです」
その上目遣いと、今にも泣き出しそうな声に鍋倉は、はっとした。こんなところに座らせておいてはいけない。
「さ、さ、お入りを」
早々に鍋倉は月見を塗籠に入れ、燈台に火を灯した。仄かな光に照らされ、暗闇から浮かび上がる月見の姿に胸が高鳴る。美しいとは思っていたが、こんなに色香があろうとは。
どうにか平静を保ちつつ鍋倉は、月見の前に座った。笑顔を見せなくてはいけないのは分かっていたが、緊張してガチガチになった表情はどうにもならず、なんとか口のみ動かした。
「みせたいものとは?」
月見が怯えているようにも見えたが、光の加減なのか、その柔肌がぽっと赤く染まって見えたりもする。そのどちらとも取れる雰囲気がやはり艶めかしく、鍋倉は平常心を取り戻せない。
月見が言った。
「その前に聞きたいことがありまする」
鍋倉ははっとした。月見の潤んだ瞳の奥に強い光を見て取り、我に返った。こんな時刻に一人で来たことがそもそもそういうことなんだ。鍋倉は言った。
「今出川殿の行方はいまだ分かりませぬ。されど、その方が良いのかもしれませぬ。寂しいとは存じますがどうかご勘弁を」
深く頭を下げた。
「そう」と月見は気のない返事をした。そんなことは分かり切っているようだった。月見が言った。
「父が解毒剤を捨てたと聞きました。申し訳なく思っております」
それかっと鍋倉は思った。それで罪悪感に駆られてわざわざ謝りに来たんだ。平常心を取り戻していた鍋倉は笑顔を作った。
「ご心配に及びません。おれには『太白精典』がありまする。毒蟲なんぞ勝手にさせましょうか」
敢えて、毒蟲が嘘だったとは言わなかった。月見がそれを聞けば、いたく傷つくだろう。父の鬼善は嘘に振り回されたことになるのだ。
「そうでしたか」
月見は、仄かに明るい笑顔を見せた。だが、また暗い表情となる。
「また何かご心配が?」
「わたしのこと」
ぼそりとそう言った月見は、鍋倉の言葉を待つかのようにそれから口をつぐんだ。鍋倉は、はっとした。八龍武らが月見を妻に迎えろと再三再四、勧めてくることを思い出したのだ。
「ああ! そんな、滅相もありません。この田舎者がそんな高望みをすると天罰が下りまする」
「高望み? 今やあなたの方がわたしより身分が上になっているというのに?」
「いや、いや、そんなことはこれっぽっちも思っていません」
「いいえ、わたしが生きるも死ぬもあなた次第」
誤解されていると鍋倉は思った。鬼善は負けたのだから鍋倉の女になれ。あたかも戦利品のようで、その話題さえ鍋倉は、好ましく思っていなかった。
「あれは八龍武が勝手に」
「勝手に? あなたの気持はどうなのです。わたしのことが嫌いなのですか」
「それは、姫様は美しいし、教養もあるし、好きですよ」
「好きなのですか?」
これ以上はさらに誤解を生む。鍋倉は、いい答えが見つからず沈黙を造る。
「鍋倉殿、みせたいものがあると言いましたよね」
「あっ!」 もともとがそういう話だった。切羽詰まっている鍋倉は、「なんですか、見せてください」とその話しに飛び付いた。
「ちゃんと見てくれますか?」
当然、鍋倉は二つ返事である。
月見がその場で立った。そして、唐衣を脱いではらりと落とした。鍋倉は、月見のその不可解な行動に目を丸くする。戸惑っているのを見て見ぬふりの月見は、なおも表衣、五衣と抜いで落とし、見る間に単も落として足元に広げる。その間、目のやり場に困った鍋倉は視線を落としていた。目に入るのは、水晶玉を数珠でつないだような月見の足指。だがそれも、袴がはらりと落ちてくると失せてしまう。
「鍋倉殿、お顔をお上げになって」
思い切ってそう言った。瞬間、月見は己の中で何かが起こったのを感じた。ずっと入れ代わり立ち代わりグルグル回る欲望、羞恥心、恐れ、期待が消えうせたのだ。換わって、えもしれぬ感情がほとばしる。
それは欲望でもない、羞恥心でもない、恐れでもない、期待でもない。何か別のものであろうそれを、女の性とでもしておこうか。命を生み出す程の力を持つそれは何の因果か、その力を以てしても自らを満足させることは出来ない。
どう転んでも最後は受身にならざるを得ないのだ。それもほとんどの場合、特別な存在からの働きかけにしかその力は反応しない。そして、その働きかけがなければ、生命を生み出すだけの強力な力は、行き場を失い、自らを蝕み、精神をも崩壊させてしまう。
月見にとって、鍋倉がその唯一無二の存在であり、いまの月見はその力を昇華出来ずに苦しんでいるだけのただの女だった。鍋倉がその肌を少し触れるだけでいい。このままでは月見は救われないのだ。だが、月見にとって特別な存在であるはずの鍋倉が今まさに心を固く閉ざしている。顔を上げた鍋倉の目蓋はというと、ギュッと強く閉じられていた。
「だめです。これ以上は」
目の前に月見が一糸まとわぬ姿でいる。鍋倉は空恐ろしい気持に襲われていた。欲望が鎌首をもたげている。このまま寄り添って来られたら、それこそどうにも出来ない。目を閉じたまま鍋倉は、「ご勘弁を」と塗籠から一目散に逃げ出した。
残された月見はというと肌をさらしたまま抜け殻のように、うつろに立っていた。その胸の白肌の上には、首から掛けられた隠し部屋の鍵が冷ややかに、物言わずぶら下がっている。月見はへなへなと座り込んだ。そして、手で顔を覆うとしくしくと泣きだすのであった。
翌日の早朝、月見に言われた通り佐近次は平安京の西、長岡天満宮の社殿の前にいた。昨日の月見を思い出す。好いているのはいまも変わらず佐近次だけと言ったが、どうだろう。
「あのお姫様が、口から出まかせか」
大人になったんだなと笑えたが、それはそれでよいと思う。手にある剣を見た。三尺ほどの長さで反ってはなく、両刃で、払うよりは突くことを目的に作られていた。佐近次のは、軟剣と硬剣とあるうち軟剣で、しなりがあり軽めであった。敢えて言うと佐近次は、もう腰に太刀を佩いてはいない。
「やっと帰れる」
月見が来ることは疑わなかった。この一カ月で、月見は鍋倉を頼れないと知ったはずだ。それで昨日のことだ。きっと月見はこのわたしが言い寄る機会を待っていたのだろう。そう思って佐近次はふふんと鼻で笑う。
「それならもっと早く月見と会っていたら良かったわ。わたしもハラハラしたが一番の不幸は鞍馬の者どもだな、わたしにこき使われて」
つぼ装束の女二人が遠目に見えた。その一方はむしのたれ衣で顔を隠している。
「来たな」
佐近次は二人に向かった。それに反応したのであろう、向かってくる二人の脚が止まった。たれ衣をしてない女の方は怖がっているようにもみえる。顔が強張り、足取りも硬かった。明らかに望んでの旅立ちではない。そんなことは佐近次にとって、もうどうでもいいことだった。二人の前に立つ。女の一方がたれ衣を手でのけた。月見である。
「約束の物を持って参りました。佐近次も約束を守っていただきます」
佐近次はきっぱりと言う。
「いや、物を見せていただきたい。わたしが約束を守るか守らないかはそれを見て」
「なに、その物の言いよう! 佐近次! やっぱりあなたは」と侍女。「黙りなさいっ!」と月見がそれ以上は言わせない。それでも侍女は止めない。
「されど、今となっては姫様が頼らざるを得ないのをこの男は知っています」
「黙りなさいと言っているの!」
「姫様は昨日、わたしになんとおっしゃいましたか?」
騙していた佐近次を逆に騙すと言ったのだ。月見が怒りにわなないだ。
この二人のやり取りで佐近次は察した。姫様と侍女はなにかお企みであった。が、どういうわけか仲違いした、と、そこで佐近次は、はっとする。
そうか、月見はあくまでも鍵の所在は言わなかった。それにわたしがここで待つのもおかしい。一緒に今出川邸を出てもよかったし、本来ならわたしが『洗髄経』を盗み出す役なんだ。はなっからわたしのみを頼りにしていたら鍵は渡すしかなかっただろうし、この侍女ならわたしを使用人のごとく使おうとしただろう。とすれば、鍵を餌に誰かとわたしを天秤にかけた、いや、おれは、万が一のための代用品。
なるほど、そういうわけか。鍋倉がああいう一途な性格でなかったら。
佐近次はぞっとした。まさに紙一重。侍女が続けた。
「わかったでしょ。この男は人の足元を見る輩です」
そのとおり。だが、あなたたちに選択肢はもうない。このわたしに『洗髄経』を渡すしかないのだ。佐近次は、悠々と二人の言い争いを傍観した。侍女がなおも続ける。
「また騙されまする!」
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