第8話 来客
「黒覆面の男を見たことはあるかい?」
「あります」
「戦ったことは?」
「もちろん。でも、全く敵いませんでした」
鍋倉は嬉々とした。今出川一門と行動を共にすれば必ずその機会に恵まれる。ともすれば戦うこともあるかもしれない。
「つよいのか?」
佐近次が大きく頷いた。
一流の武芸者を見聞するために鍋倉は平安京に上って来たのだ。鬼一法眼が行方不明なのはがっかりだが黒覆面の男はそれに負けず劣らない。それに正体が誰か分からないのがいい。好奇心をくすぐって冒険心が湧いてくる。鍋倉は胸が躍った。
その頃、遠藤為俊は六波羅に与えられた自邸の簀子で庭を眺めていた。簀子とは濡縁である。
帰って来て以来、まだ誰も遠藤の声を聴いていない。人伝に、勝ったと聞いて当然だと思った郎党らにしても、一言も発しない遠藤に、様子がおかしいと不安を覚えた。庭に作られた池の水面を見入るその姿は、魂を失ったかの様である。その遠藤はというと周囲なぞ目に入れる余裕なぞない。鍋倉との戦いの最中に襲われた妙なめまい。実はそのことで頭がいっぱいだったのだ。
「やはり、あの掌手か」
鍋倉の技は明らかに頭、そこから来る足の自由を奪った。確かにあの時、脳震とうを思わせる視界の白みに襲われた。
意識が一瞬飛んだ?
衝撃の伝播ではない。
気功!
『遠藤家伝』にはそんな技はない。
ふと、胡坐をかいた右足のくるぶしに碁石程の血痕が付いているのに気付いた。すでにその血は乾き強張っていて、ひび割れている。いつの間に? 庭を眺めている間にか。あわてて鼻の下をまさぐる。ぼろぼろと、乾いた血の破片が崩れる感触。背筋に悪寒が走るのを覚えた。
「……『撰択平相国、全十巻』!」
咄嗟に口についたその言葉に自分自身、戸惑った。が、考えれば不思議でもなんでもない。
「文覚が佐渡で鍋倉澄の父に預け守らせしめたのだとしたらつじつまが合う」
二十数年前、濡れ衣をきせられた文覚は佐渡に流された。その弟子で平家嫡流最後の生き残りであった平六代はというと連座となり、文覚が佐渡に送られている間に命は断たれた。それは清盛の血をこの世から抹殺するための陰謀に他ならないが、この時、所持していたはずの『撰択平相国全十巻』はどこからも出て来ず、武家という武家がみな、血眼になって探したものだった。
「文覚のじじいめ。なぜ佐渡なんぞに、遠藤党というものがあろうというものを」とほぞを噛む。と同時に鍋倉の掌手の感触が腹に蘇る。あまりにもやさしい、撫でるような触感であった。
「小僧っ子の、あのちょっとした技一つをとってみてもこれだけ強力なのだから、あれには他にもすさまじい技があるに違いない」
見たい。『撰択平相国全十巻』。いいや、本来なら遠藤党が手にしていたはず。
「手に入れる。是が非でも!」
鍋倉から取り戻さなければならないと遠藤は半ば使命感さえ覚えていた。問題は、やつはこれからどうするつもりなのか、だ。 平安京に留まるのか、佐渡に帰るのか、と鍋倉の動静を考えた。
少なくとも、今日のところは今出川邸に泊まるのだろう。それは工藤から聞き及んでいる。しかし、目的の鬼一法眼が不在なのだ。
鍋倉は鬼一法眼を諦めるか、諦めないのか、それを確かめる口実がいる。
贈り物がいい、と遠藤は思った。試合前に深酒をする男だ。酒に目がないのは察している。家人を呼ばわり、現れた男に「酒甕を用意せい」と命じ、それは鍋倉への試合の礼と見舞いの品であることを説明し、さらにその渡し方まで念を押した。
「いいか、鍋倉に直接手渡せ。それでやつから今後どうするつもりか聞いてくるのだ」
かくして今出川邸へ出した使いが、帰って来た。
「当分は今出川邸に逗留するそうです」
帰るなら旅先でとっ捕まえればいい。だが、今出川邸にいるとなれば………。
「すこし面倒になったな」
そう言って、遠藤は押し黙った。それから一刻程経ったか、ふと、名案が浮かぶ。
『太白精典』!
鞍馬僧で知られる今出川鬼善の父、鬼一法眼は元熊野衆徒であった。熊野三山が勢力を平安京まで伸ばそうとした結果であるが、その鬼一法眼はというと熊野三山で『太白精典』を学び、鞍馬僧として平安京で占術、そして武術の大家となる。熊野三山とどういう盟約があったかは知らないが、『太白精典』は半ば預けられていたかっこになっている。その本人が消息不明となったいま、熊野三山が黙っていようか。そう睨んだ遠藤は早速、熊野三山に文をしたためる。
果たして、熊野に行けと命じられた家人がもの言いたげである。熊野三山を統括する者を熊野別当という。その熊野別当は数年前の承久の乱で後鳥羽上皇側として戦い、幕府に捕縛され切り殺されていた。いまの別当はそれと家名を異にしている。つまり熊野三山は幕府に許されてはいるが紐付きだということなのだ。
「いまこの時期、幕府に逆らった熊野三山とかかわるのは危険だと言いたいのだろうが、逆だ。幕府に口を出させないよう熊野を利用する。比叡山とは違い、熊野三山は幕府の管轄だといっていい。法性寺の一件が許されるなら、今回はなおさらだ。おまえはそのために熊野三山に行くんだ」
何のことか分からない家人は当惑している。
「『撰択平相国全十巻』を我が手にする」
遠藤は工藤邸であった顛末を話した。一転、家人が色めき立つ。
「洛中で一暴れすることになろう。心してかかれ!」
その夜、鍋倉は遠藤から届いた酒を今出川一門に振る舞った。酔いが回り始めると誰からともなく今出川邸に住まう絶世の美女が話題となった。名を月見という。今出川鬼善の娘だというこの女は、一度見れば忘れなれなくなるらしい。冬は北の対屋に籠って出てこないが、暖かくなると寝殿の北廂に姿が見受けられるようになるという。鬼一法眼が居なくなっても残っているほとんどの者は、その月見を一度見てしまってここを離れられなくなったようだ。霊王子も吉水教団では女神とされている。月見も多分、ここの者らにとってその様な存在なのであろう。話のネタに一度、お目にかかりたいものだと鍋倉は軽い気持ちで一門らの話を聞いていた。
それから話題は移っていき、おのおのが己の武勇伝を語り始めた。感心して聞いていると、鍋倉の話す番となってしまっていた。当然、遠藤為俊との果し合いを語れと皆にせがまれる。鍋倉にとっては恥ずかしい話であり、平安京で名を売っている先輩方らを前にして、大手振って言えることではない。固辞したが、どうしてもとせがまれるので歌でも歌うと、はぐらかした。
といっても、佐渡では好評なのだが平安京では下品だと怒らてやしまいか。しかし持ちネタはこれしかない。不安だったが意を決して、鍋倉は裸になってふにゃふにゃ踊りながら歌った。詞も下ネタで一旦は皆を驚かせたが、それがじわじわ受け始めた。果たしてそれが終わると一門の者らにも、おれの田舎ではこんな踊りがあるぞと言って踊り出す。それだったらおれも、と次々に順番が回っていく。
皆、とんと忘れていた故郷を思い出したようだった。今の状況、この閉塞感にあえいでいるのを忘れて、ガキの頃はこんな悪さをしたとか昔話をし、大いに盛り上がる。
夜更け、泥酔して前後不覚になった鍋倉は一番近い西の侍所に放り込まれた。酒宴の騒ぎが続く中、気分良く寝入っていた。
ふと、首筋に寒気を感じ、目を覚ます。太刀のものうちが目の前で光っていた。こんなことは旅の中で何度も経験している。やれやれとこの時はまだ心に余裕があったものの、しまったと思う。右肘を枕にしていたのだ。体勢を変えようと思った矢先、その機微を察したか背中から声がした。
「動くな。質問に答えろ。それ以外は口を開くな、鼻を削ぐ」
読んで頂きありがとうございました。次話投稿は日曜とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。