第75話 傲りと憤りと
始めは清であった。食うに困って忍び込んだ先、その垣根の間から清を見とがめたのだ。美しいというもんじゃぁない。天女とはこういう姿をしているのだろうと考えたものである。その虜となった盛長はたびたびそこへ忍び込んだ。やがて霊王に見つかってしまう。
どういう思いがあったのだろうか。霊王は盛長を追い払うどころか清の机に並ばせた。読み書きの競争相手にしようとしていたのか、いや、清に自信をつけさそうとしていた。大抵の者はこれほど馬鹿なのだ、おまえは違うのだぞとでもいいたかったのであろう。
と、いうのは盛長の想像で真実は定かではない。単に、盛長の劣等感から生まれた思い込みだったのかもしれない。だが、子供ながらにそう思い込んだ盛長は清には及ばずながらも一生懸命読み書きに励んだ。その内、学生が世間に疎いことを知った。彼らの手助けをするうちに重宝がられてなんでもやった。それこそ悪事と呼ばれることさえも。
ガキの頃はそれで満足できた。しかし、成人に近付くにつれ盛長はその考えを変えていく。もっと大きなことをしてみたくなった。南都北嶺には財力がある。吉水教団にもそれが必要だと思った。
盛長は、お布施に決まりを造った。貧しい者には少なく、富盛んな者からは多く。南都北嶺に広大な荘園があるのと同じように吉水教団には多くの信者がいる。そして、南都北嶺に土地を管理する僧兵がいるように、吉水教団にも信者を管理する仕組みが必要だった。盛長はその仕組みを造っていく。
それが効果を上げ、教団は次第に力を付けていく。盛長もそれに伴って教団でも押すに押されぬ地位に登っていき、殿上人と呼ばれるやんごとなき方とも口を利けるほどになった。教団の顔の一人だと世間で認識されただけでも天にも昇る気持ちだったのに、そのうえ霊王に清を娶れと言われようとは。
清の時折見せる人を見下したかのような冷たい視線。それは彼女には似つかわしい天に住まう者だけに許された仕草だった。糞をするなんて思いもよらない。それを娶れとはどういうことか。家と家とが結びつくとか関係ない、名も無き者に言わせれば、孕ませてもいいと言われているに等しい。厠で股を広げ、日々百銭の束ほどのものをひねり出しているとは思えない清に、我が子を産ませる。そう想像した盛長は身震いしたものだった。
それは、盛長の劣等感からくる清への欲情なんかじゃぁない。かと言って、誉れ高い清を貶めてやろうと思っているわけでもない。日々、腹にある糞と同じように我が子も十月十日だが、清の腹にある。そもそも盛長は、天女のような清に好かれるとはさらさら思っていないのだ。万人あまたいる中で自分にはその権利が認められたということ。言うなれば、これは傲りである。
自分にはそれだけの力があった。そう思うと盛長は、清であろうがなんであろうが、何者も恐れるところではない。言いたいことを言い、やりたいようにする。そして、そうすることで得る、心の昂揚にずっと酔いしれていたかった。得意の絶頂。しかし、鍋倉が現れた。
まるで物語から飛び出してきたような男だった。不覚にも、清以外にこういう者もいるのだと思ってしまっていた。気が付くと己は昔のままだった。雑踏の中を人影に隠れ足早に歩く子供の頃の自分。それと何ら変わっていなかった。これは、憤りである。物語の中の人物とは程遠いのだ。
矮小で穢れているのは分かっている。だが、清を娶ればまた、思い描いていた自分に陶酔出来よう。解毒剤が奪われ、鍋倉は助かったとしても今出川家に入る。こちらとしてみれば婚儀を定めた霊王さえ生きていればそれでいい。清に逆らう余地はないのだ。何をおいても今、霊王を失うわけにはいかない。己の威信にかけても、それは絶対にだ。
とはいえ、毒蟲の解毒剤をすんなりと渡すには忍びなかった。鍋倉が生きて今出川家にいるということは敵も敵、大敵である。これまで造り上げた教団を、自分の地位を、揺るがしかねない。それどころか、清を取られた腹いせにおれを狙って来る。
最高で両方とも、最悪でも鬼善の持つ小瓶。おそらくは鬼善も、同じようなことを考えているだろう。最悪でも霊王が持っていた毒蟲の解毒剤。さらには霊王を殺すことが出来れば聖道門の盟主としては箔がつくってもんだ。
といっても、おれを殺してまで奪ってしまおうとはまず思っていまい。歴戦の入道武者が控えているのだ。鬼善は己の小瓶を守り抜き、毒蟲の解毒剤を奪おうってだけで精いっぱいなはず。だが、当方としてはその限りではない。奪う奪わない以前にむしろ、鬼善をあの世に送れば毒蟲の解毒剤は奪われないし、鬼善が持つ小瓶も奪える。聖道門も大打撃を受け、全てが万々歳なのだ。そして、その機はこのおれがつくる。盛長が入道蓮生にした目配せはそういう意味があったのだ。
盛長はじりじりと鬼善に近付く。一方で、鬼善はというと内心、盛長の魂胆をあざ笑っていた。ここへ置けといわんばかりに盛長の右手が目いっぱい伸ばされ、毒蟲の解毒剤を持つその左手は、先ずはおまえからだと言わんばかりに鬼善から遠ざけられている。まるで初めて弓を引きましたってカッコだ。
この若造、わしの小瓶を先に奪い、後ろからの太刀筋に巻き込まれぬよう身を隠そうって算段なんだな。あるいは、それは偽りか? 確かに、わしの小瓶を奪うよりもわしの首を刎ねる方が旨味は大きい。盛長の考えを見透かしてもなお鬼善は余裕綽々、自分の小瓶を摘まんでこれ見よがしにぶらぶらと下げ、もう一方の余った手も無造作に伸ばす。その手の平に、霊王が持っていた毒蟲の解毒剤が置かれるのを待つこととした。
入道らが白刃を放つ機をつくれば良かっただけなのに、隙だらけな鬼善の様子から盛長は、おれをなめているのか、やってやらぁという気持ちになってしまった。雑踏で鳴らした子供の頃、盗み、ひったくりは得意だった。武家だろうがなんだろうが狙った獲物は逃しはしない。盛長が珍しく矢面に立ったのは鬼善を害するためもあったが、鍋倉に脅威を感じていない入道武者らでは、霊王のことのみ考えてすんなりと解毒剤を交換してしまう恐れがあった。それでもやはり、昔鳴らした早業に自信があったからだった。
殺す前におれを馬鹿にしたことを後悔させてやる。右手をスッと伸ばす。取れる、ざまぁみろと思ったその矢先、鬼善の手はぐっと握られ、サッと遠ざけられる。手を追って視線を流すとその視界に鬼善の表情が入ってくる。嫌味な笑みを見せ、ズルはだめよと言わんばかりにその首は横に振られていた。
完全に馬鹿にされている。許せぬ、絶対に吠え面かかせてやる。そんな思いが盛長の表情にありありと見えた。果たして盛長は、奪おうとしていた手とは別の、毒蟲の解毒剤を持つ左手の方を伸ばした。今度は逆に、己の解毒剤を鬼善の手の平に置こうとする構えだ。
ふんっと鼻で笑った鬼善は、どうせ渡してくれないのだろと面白半分で、奪う気もないのに手をピクっと動かしてやる。途端、盛長は驚き、後ろにはね飛んだ。
先ほどの嫌味な笑みなぞではない。鬼善は声を出して笑ってやった。辱められた、このままでは終われないと思った盛長は一歩二歩進むと左手の解毒剤を差し出す。やはり、盛長の持つ解毒剤は鬼善の手の平に置かれようとしていた。
が、案の定またそこで盛長の左手は止められた。汗ぐっちょりの盛長。一方で、盛長の右手は鬼善の小瓶を求め、じりじりと注意深く伸びてきている。
はて。わしを焦らせて、注意散漫に陥らそうってことか? その隙にわしの手にある小瓶を奪おうって魂胆かぁ? ならば、前提が間違っている。見りゃ分かるだろ。わしは汗もかいていないし、顔もこわばってない。それは、ここへ乗り込んで来た当初から変わらず、ずっとそうだったはず。そのわしが、手に置かれようとしている毒蟲の解毒剤に心捕らわれるはずがなかろう。むしろこっちとしては、わしの小瓶を奪うのならとっとと奪ってくれだ。
すでに声をあげて笑っていた鬼善は、もう嘲笑を隠さない。口角を上げ、白い歯を見せている。その様子に盛長はキレたのか、ちらりとだが鬼善のその表情を見てしまって冷静さを欠く。
「くそがーっ」と、盛長はそう吐くと鬼善の手から小瓶をひったくった。そして、「死ねっ!」とその身を落とす。当然、待ってましたとばかり鬼善は瞬時に、盛長の手から毒蟲の解毒剤を奪ったかと思うとしゃがみこむ盛長の腹を蹴り上げる。
もろに食らった盛長は宙に浮き、さらにそこへ鬼善の回転蹴りである。蛙か何か小動物が踏まれたような気味悪い声を発した盛長は、遣戸を突き破って庭へとすっ飛んでいく。この時すでに五つの白刃が鬼善に迫っていた。鬼善は難なく、そのどれもをかわすと大音声を発した。
「霊王が死ぬぞ!」
五人の入道武者は、はっとした。すぐにでも霊王に解毒剤を飲まさなければならない。かろうじてだが、鬼善の小瓶は奪えたはず。即座に庭へ飛び降りて盛長へと向かう。横たわる盛長の胸元で握りしめられていた小瓶はそのあばら骨ごと粉々に砕け、その破片はというと盛長の胸で、盛長の吐いたその血の海に沈んでいた。
五人の入道は振り返る。
もうそこには、鬼善の姿はなかった。
「であえ! であえ!」と五人が吠えた。
ざざっと蟻が群がるように教団の者らが現れ、鬼善がいないと見るや境内を駆けずり回った。清もその騒ぎで姿を現す。無残に死んでいる盛長に駆けよると血まみれの死体を胸に抱き上げた。そこに霊王の声。息絶え絶えにあえぎつつ、「せ、い、せい」とどうにか声を絞る。
清は、はっとした。慌てて金堂に上がる。霊王が蒼白の顔色に紫の唇で、何やら言おうとしている。見るからに呼吸不全に陥っていた。
読んで頂きありがとうございました。次話投稿は木曜日とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。




