第74話 落手
心を硬く閉ざした表れか、清の表情には感情が見えなかった。鍋倉は突如、不安に襲われた。言うべき言葉はもう決めていた。だが、それを聞いた清がいったいどういう表情を見せるのか。ざわめく河の音が耳障りでならない。喉が渇いてひりひりする。緊張と重圧に襲われ、言おう言おうとしている言葉がなかなか出てこない。どうしてしまったんだと苛立って落ち着きを失っている、そんな鍋倉に清が言った。
「澄、笛を吹くのをやめたそうだな」
鍋倉は、はっとした。誠意を示すはずであった。向こうから言葉をかけて来るなんてあり得ない。しどろもどろになってしまった挙句、鍋倉は清への答えを飛ばして自分の想いを口走る。
「今出川鬼善の狙いはおれだ。黒覆面だったのは、いや、生駒でおれを襲ったのは今出川鬼善。巷を騒がす盗賊黒覆面に化けてたんだ。それもこれも鬼一法眼がおれを継承者に選んだ腹いせ。あいつはおれの顔を知らないずっと以前からおれを憎んでいたんだ。それでおれが現れるのを待っていた。その間、どうやってなぶって殺そうかとそんなことばかりを考えていたんだ。やつはおれが苦しむ姿を見たいんだ。だからおれは………、おれは自分のために周りが傷つくのを見たくない」
清が目線を伏した。距離を保ち続け、決して近付いては来ようとしない。
「平安京から消えるのか?」
「教団にもあんたにも係わり過ぎた。いればきっと、おれはあんたの迷惑になる」
「澄、わたしが解毒剤をお母様から盗んで来たとしたらどうする?」
昼間、夜叉蔵は清と落ちていけと言った。やっぱりだ。おれがうんと言わないもんだから、今度は清を焚きつけたんだ。けど、夜叉蔵はいったい何がしたいのか。お節介にもほどがある。
「そんなことしたらみんなのところへ帰れなくなる。そういうことをさせたくないから消えるんだ」
「……帰れなくてもいい。わたしも澄と行く」
実際にその言葉を聞くと慌てないはずがない。今すぐ清に駆け寄って手を握り、「いっしょに行こう」と言いたかった。だが、鍋倉はその手を太腿のところで強く握り締めた。
もちろん、清を連れて逃げれば盛長の手の者も追っては来るだろう。だが、危険なのは鬼善だ。当然やつも追って来る。策を弄する鬼善だったら、いなくなればそれで満足しただろう。だが、違った。
「それはだめだ。こんな時期だ。あんたは教団を守らなくては」
清はというと遠くを見るような目付きをしていた。決して目を合わそうとしないその清が小声で言った。
「わかった」
胸が張り裂けそうであった。しかし、鍋倉は言うしかなかった。
「盛長殿と幸せになってほしい」
清がこくっとうなずいた。そして、振り向きもせず清は闇の中に消えていった。
どれくらい呆然としていたか。ふと、鍋倉は鉛色の水面に映る己に気付いた。その姿は一度として定まらない。川の流れに翻弄され、ゆらゆらと揺れている。あまりにもおぼつかない、月光にやっと形はなしている、今にも消えてしまいそうな自分。だが、これこそが、真の姿。
鍋倉は水面に映る自分を見、人の一生とは何か、運命とは何かを考えさせられてしまった。おそらくそれは、天の意志ではない。生駒で餓狼に囲まれたのは鬼善の意思。それを助けた蓮阿様は西行様のご意思だとおっしゃっていた。つまりそれは人の意志。この世にあるものは一瞬一瞬、消えては生まれ、生まれては消える。今あるものはすでに過去。形を成しているようで成してはいない。刹那無常。これが世というものだ。
だが、この世と同じく、形を成していない人の意志は、それとは似通っているようで全く違う。人が滅びぬ限り永遠だ。いい意味でも悪い意味でも受け継がれていく。そんな人々の想い、億万の想いが絡み合い、ぶつかり合うその一方で、水が高きところから低きところへ流れるように運命は定まっていくのだろう。言うなれば、この川のように。
おれは清とは結ばれない。しかし、出会ってしまった。因果を断たねば。清のために、おれは己の意志を断ち切らないといけないんだ。
明くる朝、鬼善は太秦広隆寺の山門に立っていた。訝しんだ教団の者に「何者か」と尋ねられ、鬼善は懐より書状を出し、「霊王殿に取り次いでもらいたい」とそれを手渡した。
果たして、門衛によってもたらされた書状に霊王は目をパチクリさせた。書状を持って来たのが得物を持たぬ鬼善ただ一人であったのもそうだが、その内容に驚いたのだ。要約するとこうだ。
《今出川家の婿、鍋倉澄を助けたいので解毒剤がほしい。その代わりに聖道門の念仏門排斥諸活動を停止させる》
傍らでじりじりする盛長に霊王はその書状を手渡す。盛長は固唾を呑んで書状に見入る。
「どうなされます?」
霊王は腕を組んで、一呼吸した。
横に控える清はというと苛立っていた。なぜ、自分を差し置いて盛長なのか。書状を持ってきたのは敵対する聖道門の盟主、今出川鬼善本人なのだ。食い入るような目つきを霊王に向けていた。霊王は険しい表情のうえ、不穏な空気を漂わせている。こういう場合、まず最初に書状を見せられるのは自分なはずだ。武闘派ではない盛長に何が出来ようか。
どうして書状を見せてくれないのか。降伏勧告なら母様宛てとはならない。書状は教主信空に手渡されたはず。間違いなく、教団とは別の何かよからぬ相談に他ならない。どういう相談なのか。もしかして、敢えて自分が飛ばされたということは。
苛立っているのを察してか、霊王は困った表情を見せ、清にも読ませよと盛長に手ぶりで示す。盛長はというと無表情で書状を差し出す。その作ったような無表情に一瞬、嘲笑が通り抜けたのを清は見逃さなかった。それでその書状が、鍋倉に関する何かであることに確信を持った。
はたして、その通りだった。
書状の中にある《婿》という文字を見て、清はみるみるうちに表情を曇らせていく。案の定かと思った霊王が「清、下がっておれ」と不機嫌をあらわにする。清はその命令に大きくかぶりを振った。一方で、「お会いになるのですね」とその清に構わずに盛長が言う。そして興奮を抑えられないのか、溌剌たる声で「何かお考えが?」と霊王に答えをうながす。その霊王はというと盛長の問いを無視し、清に向けて大喝する。
「書状の真偽を確かめようとするか? 清、じゃまだ、下がっておれ!」
「ですが、」と食い下がろうとするのだが、清はそこで口ごもる。確かに、気位の高い清にそれ以上は言えるはずもない。部屋を出ていくしかなかった。頭を下げると席を立った。
去っていく清を見送った霊王は一つため息をつき、「今出川鬼善をここに通せ」と盛長に命じた。その答えを待っていた盛長は、部屋を出たかと思うと清の手下に「今出川を迎える、抜かりがないように」と命じ、他の者らには「入道殿らにも出席を」と武者ら五人に知らせるようを言った。
かくして鬼善は金堂へ向けて進んでいた。その間、教団の者六人が周りを固めぴったりと離れない。鬼善の恐ろしさはすでに平安京で知らぬ者はいなかった。こやつら、死をも恐れぬか、八龍武に爪の垢でも煎じてやりたいのと鬼善はその六人に感心しきりであった。
金堂にはすでに、霊王、盛長、五人の入道武者らが居並んでいた。鬼善は入るなりその顔ぶれから大体は想像できた。解毒剤は渡さぬか、と憮然とする。だが一応、「解毒剤を渡していただきたい」とそれでも頭を下げた。
「それは出来ぬ」と予想通り、霊王が言う。平伏した体を起こした鬼善は鯰のようなひょろ長い髭を撫ぜ、ここでもやはり品定めする。老婆に若造はどうとでもなるが、五人の入道武者は相当のつわものだな。座高が高いのは太ももとふくらはぎの分厚い筋肉のため。さすがわ坂東武者。馬に相当乗りなれているなと、ここでもまた余裕にも感心を示す。
霊王が言った。
「貴殿にはすまないが、一月程、ここに逗留頂く」
鬼善は言った。
「わたしが? なぜ?」
盛長が怒りをあらわにした。
「排斥の停止なぞ信用できないってこと。要は、あんたは人質だ!」
「ふーん」とどこ吹く風の鬼善は、髭が抜けたのか人差指と親指で輪を作り、そこをしげしげと見ている。それを何の気なしにポイッと、上へと投げた。
「ちっ」
霊王が痛みの声を上げた。その太ももに縫い針が真っ縦に刺さっている。霊王がギロリと鬼善を見る。目が合った鬼善は、してやったりと嫌味気味に白い歯を見せてやる。先ほど上に投げたのは髭ではなく縫い針で、空中で孤を描いて落下し霊王の太ももを刺したのだ。途端、霊王の呼吸が乱れる。
「毒かっ」
ぜいぜい言いながら霊王は片手を喉元に、もう片方の手を床につけた。盛長が身を乗り出し、五人の入道武者が太刀に手をかけ、ばんと片膝を前に出す。そこに鬼善が右手の平をばっと開いて、前の七人に向けた。
「解毒剤が必要なんだろ」
皆の動きが止まった。満足げな鬼善は懐より小瓶を差し出す。
「はて、上手い具合にここにも解毒剤がある。折角だし、そっちのとわしのを交換しよう」
カチンと鯉口を、入道五人が一斉に切る。
「慌てるな!」と鬼善。「わたしを即死させられたらいいが、ちょっとでも息があるとこの小瓶は砕けるぞ」
入道武者に緊張が走った。斬って捨てるべきか!
「待て! 待て!」
盛長が慌てて間に入る。そして霊王の懐から解毒剤を出し、入道武者の一人、入道蓮生に目配せをした。それを受けた蓮生はというとその意図を察したのであろう、目の色が変わった。
読んで頂きありがとうございました。次話投稿は日曜日とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。




